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能動性と受動性の割合が違うだけで、独立した二者ではないでしょうに

以前、このようなものを書いた。

「【多分哲学】考えるって実は中動態的行為なのでは~?」という記事だ。「考える」という行為そのものは、能動性や受動性どちらかの一点のみで捉えることが出来るものなのかという疑問を持って書いた記事である。

ここからより、おそらく帰納的な考え方をすると、あらゆる言語で表現できる行動は、能動性もしくは、受動性のどちらか一方で明確に定義できるものなのかという疑問に行き着く。

私としては、あらゆる行動は、その性質として受動的とも能動的とも捉えられるものを持ち合わせていて、その割合が異なるだけではないかというものだ。

例えば、「瓶」と「壊」という言葉を例にしよう。この二つから連想されるのは、「瓶が壊れる」か「私・彼が瓶を壊した」という文だろう。起こった現象それ自身に対しては、様々な解釈が可能という事は、言を待たないだろう。

子どもが誤って、瓶を壊してしまった時、そのまま「私が瓶を壊した」というのではなく、「瓶が壊れてしまった」と云うことがある。私も、間違いをしてしまった時、「瓶が壊れた」のように、私から責任を除こうとする。

もし、あらゆる言説、そして(人間が起こすものも含めて)あらゆる事象が、明確に「能動的」か「受動的」に分けることが出来るのであれば、先ほどのように、「私が瓶を壊した」に対して、「瓶が壊れてしまった」という風に表現することは出来ないはずだ。

ここから、言葉それ自体には、明確なイデアや純粋形相的な「意味」がその根源として内包されているという想定は容認し難いものであるのではないかと考えることが出来るだろう。(なんか漢字おおいね・・・)

というか、英語でも、この事は割合はっきりしているのだ。

「I ate a piece of  cake」は、「A piece of cake was eaten by me」という風に表現できることそれ自体が、既に言葉には「能動性」と「受動性」が含まれていることを証明しているのではないか。

ある言説には、「能動性」と「受動性」が、7:3で含まれている(と感じられる)。故に、「能動的」な表現の方が自然に聞こえる。いや正確には、「能動的」に表現した方が、都合がいいからの方が適切なのかもしれない。

自分が被害者であるとき、自分の受動性を主張した方が、都合良いというか、状況として自然に聞こえるから、「受動的」に表現されているだけなのだろうな。

と、塾で受動態を教えていて、不図思いました。なんか……キッモイネ!



今日も大学生は惟っている。



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