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考察 緑谷出久の父親が出てこないのは何故か・他:僕のヒーローアカデミア

ヒロアカの緑谷出久の父親が出てこない理由を中心に、色々な考察をします!僕のヒーローアカデミア”マニア”らしく、ヒロアカを今日も語りつくさん勢いで、語ります!


今回は、「僕のヒーローアカデミア」について書いていきます。

ひとつ目に「緑谷出久の父親が出てこないのは何故か」

二つ目に、「死柄木弔」にとっての「父性」とは

三つ目に、轟焦凍に関わる「父性」と「父親殺し」とは、です。


緑谷出久の父親が出てこないのは何故か

まず、緑谷出久についてです。最近、父親が登場しない作品が数多くある中で、やはり「僕のヒーローアカデミア」にも、主人公の父親が登場しない状況があります。

父親が登場しないという描写が明確にされているのは、緑谷出久のみです。他にもキャラクターがいますが、とりたてて緑谷出久の物語に、何故か父親が登場しないのです。

物語では、海外出張中の緑谷出久の父となっています。これが今後にどう関わるのかは、まだ分かりませんが。 

では、この「父親の不在」は何を意味するのでしょうか?これは、緑谷出久が、「僕のヒーローアカデミア」の主人公であるからという少々メタ的な理由に行き着きます。

緑谷出久は、何れオールマイトのような、No.1ヒーローになると、物語の冒頭で示唆されています。つまりこれは、彼が正義の味方(ヒーロー)となるべきという前提にある物語なのでしょう。

父親が海外出張で居ないという状況は、つまりは、樺沢紫苑さんの言葉を借りるなら、「父性の不在」ではないでしょうか。本来は、「父性」を担うべき存在がいないということは、緑谷出久は必然的に、他に「父性」を見いだそうとするはずだと思います。

では、緑谷出久は一体誰に「父性」を見出したか?

それは

「オールマイト」であったと、私は思います。

つまり、ヒーロー(オールマイト)=父性への憧れという図式が成り立っているのではと。ネットのとある動画、笑顔で次々と人を助けるその姿勢と、「もう大丈夫。何故って? 私が来た!」という言葉と共に緑谷出久に目に映るオールマイトのデビューとも言えるシーンは、父親が既に近くにいなかった緑谷出久にとって、「父性」を感じさせるものだったのだと思います。

言ってしまえば、緑谷出久にとっての母親は「緑谷引子」であり、父親は「オールマイト」とも言えます。

繰り返して言いますが、「オールマイト=父親的存在」なのではないかと思います。

父親が側にいる他の雄英生徒以上に、「緑谷出久」にとってのヒーロー(オールマイト)は、相当に影響を与えていた。

故に、緑谷出久がオールマイトに、「現実を見ろ」と言われたときは、相当に辛いことだったのだのではないでしょうか。「父性」を感じさせる、「父親」的存在から、自分の夢を否定されたのです。憧れの存在から、その「憧れ」を否定されたのです。

さらに、回りもひくほどの、ヒーローオタクである緑谷出久は、単にヒーローのファンであるからというよりかは、自分の「父性」の欠如を埋めるものとして、「ヒーロー」が必要であり、15歳になった今でも、「父性」を象徴する「ヒーロー」のファンであるのだと思います。

ヒーローオタクが彼の魅力でもありますが、どこかで「父性の不在」という要因が、大きな影響を与えているのではないでしょか。



「父性」を継承した緑谷出久は

緑谷出久は、幸い、(いや必然とも言えますが)オールマイトから「ワン・フォー・オール」を継承し、次代のオールマイト(平和の象徴)となるために、鍛錬に励みます。

父性の象徴であったオールマイトを越え、自分がオールマイトをも超えるヒーローとなって行く。これは、「父滅の刃」という著書の中で、樺沢紫苑が提示する「父親殺し」であると私は考えます。

「父親殺し」について、樺沢紫苑はこのように説明しています。

子供が、大人へと成長する過程で必要となるものがあります。それは、「父親殺し」です。もちろん心理学的な表現で、実際に父親を殺すということではありません。父親と格闘し、心理的に父親を乗り越えることです。(樺沢紫苑、2020、37)

緑谷出久は、「父親殺し(オールマイト殺し)」を成しているのでしょうか。確かにそのような行動が窺えるシーンはいくつかあります。

定期試験で、オールマイトに拳をぶち込んだ時や、もしくは映画「僕のヒーローアカデミア:HEROES RISING」における最終決戦にも「父親殺し」を表している表現が見られます。

また「僕のヒーローアカデミア・26巻」には、緑谷出久の後ろ姿を見つめ、もう自分(オールマイト)のことを振り返ることは無いのだと、オールマイト自身がほのめかす場面もあります。

今思えば、この「僕のヒーローアカデミア」という物語は、緑谷出久の成長物語であると同時に、「緑谷出久の父親殺し(オールマイト殺し)」の物語なのではと思います。

代代受け継がれてきた、「ワン・フォー・オール」という個性の譲渡が、「父性」の継承を視覚的に、非常にうまく表現しているのではと思います。

対オールフォーワン戦を終えたオールマイトから、緑谷出久に

次は・・・君だ

という発言が成されたときに、そこで一度オールマイトという「父性」が喪失したのだと思います。(ここではまだ「父親殺し」は成されていないと思います。)


オールマイト以外に「父性」を緑谷出久に感じさせた存在

私個人は、緑谷出久が「父性」を抱いていた存在は、オールマイトだけではないと考えています。

ではそれが誰なのかというと、「爆轟勝己」ではないでしょうか。

オールマイトという圧倒的な、憧れの存在ではなく、身近にいた存在で、「ヒーロー」らしさ、ある意味「父性」を感じさせていたのが、爆轟勝己なのではと思います。

尋常ではない程のイジメを、爆轟勝己から受けていたにもかかわらず、緑谷出久が依然、彼に付いていき、彼に憧れのような感情を抱いて居り、ピンチに陥り、感情を高ぶらせた時に、爆轟勝己のようになってしまうのは、その分、緑谷出久が爆轟勝己から大きな影響を受けていたということを示すものではないでしょうか。

人を助けたいというオールマイト的な父性の影響と、勝ちたいという爆轟勝己的父性、そして緑谷出久自身の優しさは、母親である緑谷引子の「母性」由来のものだと私は考えます。

実の父親が側にいなかったからこそ、家の外に総じて緑谷出久は「父性」を求めた、そしてその父性を吸収し、超克していくことで、緑谷出久は精神的にも成長した「ヒーロー」たり得るようになるのではないでしょうか?


爆轟勝己からずっと言われてきた「デク(木偶の坊)」という名前をそのままヒーロー名にし、

オールマイトからワン・フォー・オールという個性を譲渡され、

母親、緑谷引子が買ってくれたタイツを基にしたヒーロースーツを身にまとう。

緑谷出久の根本は、この三人によって構成されているように見えますが、どうでしょうか。

さて、次は、死柄木弔について書いていきましょう。

「死柄木弔」にとっての「父性」とは

死柄木弔(本名、志村転狐)には、姉、祖父、祖母、母、父という家族がいました。しかしそこには、緑谷出久と同じように、模範となる「父性」がありません。

実は、緑谷出久も死柄木弔(志村転狐)も、幼少の時は、似たような境遇とも言えるのではと思います。あるのは、個性があるか無いかくらいでしょう。

比べるわけではありませんが、幼少期という時期に絞れば、個性もない、模範となる父性が近くにいないという点で、緑谷出久は非常に恵まれない境遇にいるのではと感じました。

さて、話を戻しましょう。

死柄木弔(志村転狐)にとっての実の父親は、志村胡太郎という人物です。家でのルールを破る転狐には、厳しい罰を与え、その育った環境も影響してか、「ヒーロー」に対して嫌悪感を抱いているようです。

「ヒーロー」になりたい志村転狐にとって、父の「志村胡太郎」という人物は、やはり模範となる父性ではなかったようです。

そして結果的に、志村転狐は、自らの個性で、父親含め、家族全員を殺してしまいました。しかし、父親に関しては少し例外です。というのも、転狐は、”明確な殺意を持って”父親である胡太郎を殺したのです。

文字通り、志村転狐は、「父親殺し」を実行したということです。しかしながら転狐は、そこで心理的に「父親殺し」を成したわけではないと思われます。そこで現れたのが、「オールフォーワン」。彼は、実の父親に変わり、志村転狐に「父性」のようなものを示しています。先生でもあり、師でもあり、一種の「父親」的役割を担っていたのではないでしょうか。


ここで一旦整理をしてみましょう。

死柄木にとっての父親=「閉塞感」「規律」「保守的」➡現行の体制(ヒーロー)の崩壊

緑谷出久にとっての父親(オールマイト)=「秩序」「力」「笑顔」「ヒーロー」「守る」➡平和の維持

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という図式が成り立ちます。

どちらも内実としては同じであるのに、それぞれの父親的存在(父性)が、まったく逆の存在となっていることが特徴だと思います。

志村胡太郎から感じ取れたのは、ルールでぎちぎちに縛られた保守的な態度、圧力です。オールフォーワンはそれを利用し、現行の制度(ヒーロー)を崩壊させるべく、志村転狐を死柄木弔へと育てたのだと思います。

つまり、オールマイトは、死柄木弔にとっては、志村胡太郎の写し鏡的存在なのではと思います。

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志村奈々の息子である志村胡太郎、彼女の息子のような存在のオールマイト、二人は、彼女と非常に近しい存在でありながら、「悪い父性」、「良い父性」と全く異なる側面を持つ存在になっているのです。

現状を維持するだけの暴力装置という側面が、死柄木弔(志村転狐)にとっての、「悪い父性」を表しており、逆に「解放」的側面を持つオールフォーワンが、「良い父性」のように感じられる、いや正確に言えば、オールフォーワンが自分に道を示してくた人物だからこそ、彼が模範となる父性のように思われます。


緑谷出久の本当の「父親殺し」

先ほど、緑谷出久にとっての「父親殺し」は、「オールマイトを乗り越える」とも書きました。

しかしこれは、真の意味での「父親殺し」ではないのではと思います。

おそらく緑谷出久にとっての、本当に父親殺しは、死柄木弔を打ち倒すことだと思われます。

志村奈々、オールマイト、そして緑谷出久が持つ「ワン・フォー・オール」という個性は、元をたどれば、「オールフォーワン」です。彼が、「ワン・フォー・オール」の生みの親ということです。

ここで象徴されるのは、「良い父性」と「悪い父性」の対立かと私は思います。人々のためとなる力を持つ緑谷出久は、彼から見たときに、「悪い父性」を持つ「オールフォーワン」の系譜を継ぐ死柄木弔という存在を殺す。

つまり、本来は同じもの(似たもの)であった父性が分裂し、「父性」同士の争いとなって描かれる。実は「僕のヒーローアカデミア」という物語は、壮大な「父親殺し」を描いた作品なのではないでしょうか?

そして、死柄木弔側からも、「緑谷出久」を殺すことが、一種の「父親殺し」となるのではないでしょうか。


轟焦凍に関わる「父性」と「父親殺し」

また本作品では、また別の「父性」をめぐる物語があります。それが、轟家を巡るものです。

物語当初、轟焦凍は、完全にエンデヴァー(父親)のことを、「悪い父性」として捉えています。

「奴を完全に否定する」ということ、左は絶対に使わないという決心は、ある種の「父親殺し(父親を乗り越えること)」です。

轟焦凍にとって、「父親」=「打ち倒すべき存在」であり、轟焦凍の父親殺し=エンデヴァーの否定、エンデヴァーを超克することなのだと思います。

そしてなんやかんやあり、轟焦凍にとっての「父性」、またエンデヴァー自身の「父性」にもある変化が訪れますが、それは是非作品の方で。(複雑で自分の言葉では書き切れないだけですが)


「父性」を巡る「僕のヒーローアカデミア」

樺沢紫苑さんの「父滅の刃」という作品をよんでいたときに、まっさきに「僕のヒーローアカデミア」という作品を思い出しました。

「父性」という観点から見たとき、「僕のヒーローアカデミア」の新たな構造が浮かび上がってきたと感じたからです。

頼りない男や、草食系男子、絶食系男子など、男性の「父ラシサ」が絶滅するかしないかの瀬戸際のこの時代において、意図してかどうか分かりませんが、「僕のヒーローアカデミア」という作品は非常に興味深い作品だと思います。

ヒーロー作品としての王道を歩みながら、同時に今までにない複雑な設定が張り巡らされている。

まったく異なる環境にあると思っていた、緑谷出久と死柄木弔(志村転狐)が、意外に同じような状況にあったこと。

そして依然、同じような状況に、(立場が異なるだけで)いるという事。

この作品からもやはり、明確な善と悪、正義と悪という二項対立が失われているということが分かります。


ということで、樺沢紫苑さんの「父滅の刃」に触発されて、「僕のヒーローアカデミア」の「父性」に注目して書いてみました。長々と書いてきましたが、答えという答えはありません。というか、作者である堀越耕平先生が決めない限り、全ては空想ではありません。所詮読者が出来ることは、同じく空想(妄想)すること。そして、大いにその空想を楽しもうではありませんか。



今日も大学生は惟っている。


引用・参考文献

樺沢紫苑.2020.父滅の刃 消えた父親はどこへ アニメ・映画の心理分析.みらいパブリッシング


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一万字をplus ultra!してるので、ちょっとばかし長いです!




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