【小説】Bar logosにて 4


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「夏海」

「夏生まれだから、夏の海で夏海。安易な名前でしょ」

「そうかな。いいじゃん。夏の海って好きだ」

初めて交わしたのは、そんな会話だった。
僕は、やっぱり思ったことをそのまま口に出してしまう性格で、言ってしまってから「しまった」とは思ったのだが、出てしまったものはどうすることもできない。そして、ふたりではにかみ、笑った。
夏海の方は、その言葉とは裏腹に案外と自分の名前を気に入っていて、僕と同じく夏の海が好きだった。

高校二年の夏に編入してきた夏海とは、なぜかすぐに意気投合し、学校から歩いて行ける海岸をふたりでよく歩いた。

潮風の香り、頬を撫でていく感触。
遠く光る水面。砕ける波の音。夏の午後の照り付ける日差しに体温は上昇し、喉を通っていくソーダ水の冷たさがその輪郭を増す。

「海を見ながら飲むソーダって、あの波を飲んでる気分にさせる」

小さな気泡をたたえながら寄せては返す波を見ながら、夏海は言っていた。そんなたわいもない、夏海の思考を共有しながら僕は夏を過ごしていた。
手元のはじける波を飲み干す。自分の中に海を取り込む。
あの夏、夏海と一緒にいることで、僕は自分の境界を曖昧にすることができた。
海も、空も、照り付ける太陽も、浮かぶ雲も、空を飛ぶ鳥も。
そして、夏海も。
全部、全部、僕だった。
身体と言う物理的な壁を越えて、研ぎ澄まされた知覚と思考で僕は僕以外のあらゆるものときっとつながっていた。

そうか、自分で自ら線を引かなければ境界なんてないのかもしれない。
確かに、あの頃の僕はそんなふうに思っていた。


夏海のことが分からなくなってしまったのは、夏が過ぎ去り、短い秋がすぐさま連れてきた冬のことだった。

「毎日来てくれてるのに、ごめんなさい」

「いいえ、…また明日も来ていいですか」

「ありがとう」と、夏海の母親が申し訳なさそうに言う。
今日も夏海は登校しなかった。そして、顔さえ見せてくれなかった。

夏海が学校に来なくなってから、二週間が過ぎた。
始めは風邪っぽいのだと言っていた。あの元気いっぱいの夏海が風邪か、とそんなことを思った。それくらい、夏海と病床とはかけ離れたものだったのだ。
休みが三日続き、心配になって夏海の自宅を訪ねた時、僕は本当のことを知った。

「あの子、ここ最近少しずつ元気をなくしていたの。学校を休みたいって思っていたこともしょっちゅうあったらしいんだけど、クラスの係や、部活の雑事に責任を感じていたみたいで……。それで、何とか学校に行けば楽しいし、しばらくやり過ごしていたようなんだけど」

病院で出された診断は、“抑鬱”だった。
初めて聞くその言葉を、夏海の母親は僕に丁寧に教えてくれた。

「何もやる気が起きない、気分が落ち込む状態が続くの。食欲もなくてね……。ほとんど一日ベッドの中で過ごして、今は処方された薬が効いてよく眠っているんだけど、起きている時は辛いみたい。何もできないのに、そのことで強い焦りや不安を感じるの。学校も本当は行きたいんでしょうけど、焦れば焦るほど、どうしても行けないって。だから、今はゆっくり休んでいいのよ、となだめるんだけど……。あんなに元気いっぱいの子なのに、信じられない」

信じられないのは、僕も同じだった。
“抑鬱”?夏海が?
夏の海と、鬱。これほど対極にあるものが結び付くことがあるだろうか。
僕は、信じられなかった。この目で夏海の様子を見るまでは、今の夏海が母親から聞くような状態にあるなんて信じられない。
同時に僕は、ある感情を抱えた。
憤りだ。

なぜ、僕は夏海の異変に気が付くことができなかった?
あれほど一緒にいたのに。どれだけ、お互いの共通点を見つけてはにかんだか分からないのに。

「あたしたち、双子みたい」

そう言って笑っていた夏海の顔がはっきりと脳裏に浮かんでくる。
僕はこの身体を飛び越えて夏海とあらゆるものを共有していたはずだった。
僕らの間には境界なんてない、そう思っていた。

それは、僕の、僕だけの思い上がりだったのだ。
急に遠くなってしまった夏海、その距離。
何も気付かず呑気に過ごしていた自分が滑稽で情けなくて怒りが湧いてくる。ふたりの境界はないだなんて、甚だしい思い上がりが、本当の夏海を見えなくさせていた。
僕は自分に憤り、せめて自分からこの距離を詰めることはできないものかと考えた。そして僕は、自分で“抑鬱”について調べてみたのだった。

思えば、フロイトの『悲哀とメランコリー』やジョン・キーツの『憂愁のオード』を読んだのはこの頃だった。
先ほどの男との会話で掘り起こされた記憶は、その断片だ。
僕は遠くなってしまった夏海との距離を手繰り寄せることで頭がいっぱいだった。
それで、“抑鬱”に関する文献を片っ端から漁るうち、興味深いことを知る。
ルネサンス以後の中世ヨーロッパでは、“憂鬱であること”は芸術・創造の能力の根源とされていたらしいのだ。

“抑鬱”と“創造性”。まさか、二十年の時を経て今夜そんな話を聞くことになるとは…。
僕は、やはりこの追想が今夜しかるべくやってきたのだ、と感じていた。


すっかり春めいてきた三月のある日のこと、相変わらず夏海は学校を休んでいたのだが、絵画教室に通い始めたのだ、と母親から聞いた。

「夏海が絵、ですか?」

僕はまた信じられず、思わず聞き返した。

「そうなの。びっくりでしょう。…実はね、このところ少しずつ元気になって、外出ができるようになったの。それで、フリースクールの体験に申し込んでみたらどうか提案してみたのよ。もう、ダメもとでね。そうしたら、夏海、行ってくれて」

「フリースクールですか…」

「そう。近所にあることを知ってね。…学校へは行き辛くても別の場所なら、と思って。そこで、アートのプログラムを体験したの。それで、何だかそっちの方に興味が出てきたみたいで。もう、信じられないでしょ!」

あぁ、信じられない。
夏海がアートに興味を持つということもだが、ここ半年近く何にも興味を持てず、かつての興味のベクトルを全て失ってしまったかのように思われた夏海が。
あれだけ好奇心旺盛だった夏海が、これまでに向かった方向でないとしても、再び小さく一歩を踏み出したようでとてもうれしかった。
僕は、夏海の母親と一緒になって声を上げ、喜んだ。

「…本当にこれまで夏海を支えてくれてありがとう。実はね、夏海が絵画を始めたのはあなたがきっかけなんじゃないかって思っているの」

「え?僕…ですか?」

「そう、あなたが持ってきてくれたこの本よ」

それは、サルトルの『嘔吐』だった。
“抑鬱”に関するあらゆる書物を調べるうち、手に取ることになったのだ。
最近では、夏海が起きている時は部屋のドア越しに語り掛けることもできるようになった。調子のいい時には、幾分か明るい声で短い返答が返ってくることもある。
そんなほんのわずかなコミュニケーションから夏海の“今”を嗅ぎ取り、なぜだかあの本を薦めたのだった。
『嘔吐』だ。
そう、なぜだか、これなら“今”の夏海にも、“憂鬱”な気分を持っている時でも読めるのではないかと思ったのだ。
根拠はなく、紛れもない直感でしかなかった。

「これ、夏海が描いたの」

母親がリビングの戸棚の引き出しから出してきたのは、一枚のコピー用紙に描かれた絵だった。

「あ、『嘔吐』の」

『嘔吐』の装丁に使われているアルブレヒト・デューラーの『メランコリアⅠ』だ。その模写。

「へぇ、何だ。なかなか巧いですね」

また思ったことをそのまま口に出してしまった。
この頃にはもうすっかり夏海の母親も僕の特質を心得ており、そんなところが魅力だとさえ言ってくれた。
それは、夏海も言ってくれたことだった。
夏海は母親に似ている。外見ばかりでなく、性格や趣味も似ている様だった。
僕たちは同時に笑った。

季節は少しずつ春に向かっていた。


夏海はなぜ、『メランコリアⅠ』を描いたのか。
そのことを、夏海本人の口から聞いたのは夏海とはじめて出会って一年が過ぎた初夏のある日のことだった。

「どうしてだろう。自分でもよく分からないんだけど、なぜだかすごく気になったの。あの絵が、あたしにとってとても魅力的だった。『嘔吐』の内容よりも先にね」

夏海は、あの冬の終わりに絵画制作に目覚めてからずっと、絵を描き続けていた。はじめは、気に入った作品の模写だったが、最近ではオリジナルの作品も描いている。特に心の情景を表したような、抽象的なものが増えてきていた。

「どうしてこの絵がこんなに気になるんだろうって、そのことが気になってきてね。調べたの。そうしたらこの絵のテーマが“憂鬱”だと分かった。びっくりした。だって、今の自分なんだもん。でもね、その“憂鬱”って、その時にあたしが感じてたような苦しいものとして描かれたんじゃないことも知ったの。“憂鬱”は創造性の種、みたいな。むしろ歓迎すべきものだった。あたし、それですごく安心したの。あぁ、こんな感情を抱えていたっていいんだって。はじめて、自分の状態を肯定できた。同時に自分でも何か作ってみたくなった。自分の手で、何かを生み出してみたくなったの」

そして、夏海はあの模写を描きはじめた。
『嘔吐』を読みながら。

「あたしもロカンタンだったんだ。ある日、突然に気付いたの。あぁ、すべてに意味はないって」

その日に、夏海の“抑鬱”ははじまったのだ。
すべてに意味はない。
ある日、突然に剥き出しの実存に気付き、吐き気を感じたロカンタン。
同じように、ただ存在することの無意味さに捕まり、“抑鬱”に沈んでいった夏海。
とりわけ、自分の存在の無意味さに苦しんだのだ。

「何をすればいいのか、分からなくなった。同時に、何をしても意味はないんだって思ってた。ただ、何かしなくちゃいけないんじゃないかっていう不安と焦り、だけどその後ろにすべてに意味はないっていう絶望があって」

絵画制作をしていると、その気分が少しずつ掻き消えていく。
夏海はそんな心境の波の中にいた。
揺らぎながらも、少しずつ安定へ向かうように見えた。
凪いだ海。その水面にきらめく光の乱反射。
僕には、その光がわずかに夏海のもとに戻ってきているように見えた。

「本当に感謝してる。『嘔吐』はあたしの中の取り出せない苦しみを言葉にして取り出したものだった。あの本に出会ってどれだけ楽になったか分からない。ありがとう」

そう言って夏海は、一年前と変わらない笑顔を見せた。
その時、僕ははっきりとあの夏の海のきらめきをこの目に映したのだ。
そして、思った。
どうして今まで気が付かずにいられたのだろうか。

僕は、夏海が好きなんだ。

「夏海。夏休みになったら、またあの海に行こう。花火でもやろう」

「あはは、いいね」

僕は、何としてもあの夏の海の輝く情景を取り戻したい、そう思っていた。
この笑顔を守るのは僕だ、と。


その後も、夏海は自分の中の苦しみを取り出すかのように抽象画を描き続けた。どの絵にも、揺らぐ波、夏海の心の内のざわめきが表れていた。
そして、夏休みはすぐにやってくる。
僕は受験対策用の夏期講習に忙しく、なかなか夏海を訪ねられずにいた。
そんな時間が、少しずつ詰めていた二人の距離をまた広げてしまっただろうか。

「今日は明け方近くまで絵を描きっぱなしだったみたい」

夏海の状態は僕が楽観したようなものではなかった。
その波の揺らぎはそう簡単に凪へと向かうものではなかったのだ。
今度の夏海は、無気力状態から一転して、常に神経が高ぶっているような興奮状態へと変化していた。
この頃までに“抑鬱”に関する知識を大体において得ていた僕は、抗鬱剤による副作用を疑った。抗鬱作用が効きすぎて、逆の躁状態になってしまう。いわゆる躁転だ。

「確かに、お薬の調整が必要だと思うわ。病院で相談してみましょう」

夏海の母親は、僕の心配を受け止めてくれた。
しかし、それからまたしばらくあのきらめく光は夏海から遠ざかってしまった。
そして、夏期講習のおかげでそんな状態の夏海を訪問する足さえも遠ざかった。こんな時の夏期講習に一切身が入らなかったことは言うまでもない。
それこそ、意味なんてまるでなかった。

ようやく夏海に会えたのは、夏休みも残すところ三日という八月二十九日のことだった。僕は、夏海との約束を果たすつもりだった。

「いい、行かない」

あまり寝ていないのだろう。
目の下にくっきりとクマをこさえた顔で薄く開けた自室のドア越しにそう答える夏海。
しかし、僕もそう簡単に引き下がるわけにはいかない。
夏休み中、激しい感情の波に翻弄され続けた夏海をどうしても、その地点から引き剥がしてやりたかった。
経験未熟な僕は、物理的環境を変える以外の乱暴でない方法を知らなかった。それに僕の胸には、きっとあの海へ行けばいつか二人でソーダ水を飲みながら歩いたあの夏の日に戻れるんじゃないか、という根拠のない愚かな期待があったのだ。

母親の協力も得て、渋る夏海を何とか説得し、自転車のリアに載せる。
夏海の家から高校までは、一直線の下り坂だ。
未だ学校には来れていない夏海を気に掛け、正門を視界に入れないように少し遠回りをして海に向かう国道に出る。
そこまで来ると夏海の様子に変化があった。

「夏の風」

やっぱり。僕の胸にあった予感は的中したのだ。
幾分元気に思える夏海の声が背中に響く。

「夏の匂い」

「夏の海!」

視界が開けると、そこは海だった。
高い防波壁が途切れ、海へと続く階段がある。潮風が立ち上ってくる、海の入り口だ。
僕は、防波壁に添って自転車を止めた。
夏海は、僕を待たず先に海の入り口へ向かい、階段を降りはじめている。

「どうだ。やっぱり、来てよかっただろ」

夏海の背中に向かって叫ぶが、夏海は転がるように遠ざかっていく。
急にはしゃぎだした夏海を見て、少し不安にもなったが、それ以上にその姿がうれしくもあった。
夏海は潮の引き始めた海岸の網目を縫ってどんどん進んでいくが、ようやく立ち止まってこちらを振り返った。
なにやらワカメのような海藻を手に、高く掲げて僕に見せている。
ようやく追いついた僕は、夏海のクマが夏の夕暮れに照らし出されるのを見ながら言った。

「花火、するんだったよな。だけど、夜までまだまだ時間はある。最近の夏海のことを教えてくれ」

僕の言葉に、一瞬夏海の表情が翳った気がした。
しかし、すぐにそれは夏の大きな夕日の輝きに打ち消された。

「ソーダ、飲まない?」


波が砕ける音と、手元のソーダ水の泡が弾ける音を同時に聞く。
どちらもなんて心安らげる心地よい音だろう。
僕は、期待通りにあの夏の日の時間が再び戻ってきたことを感じていた。
夏海は僕の横で高い防波壁に座り、暮れてゆく太陽と赤く染まる海を眺めている。
夕日は、海だけでなく夏海と、その隣に座る僕をも次第に赤く染めていく。
世界中、何ひとつ分け隔てなく染めていく。

僕らの間に境界なんてない。

僕は願いを込めて、そう思った。


その一週間後、夏海は死んだ。


〈つづく〉



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