オルタナティブ・エコノミクス

いつから、どうして、こんなにお金は偉くなってしまったのだろう?
ちょっと偉くなりすぎじゃないのか、と思ってしまう。
こんなことを思うのは、わたしだけなのだろうか。 

お金は確かに便利だ。
「これが欲しければいくら必要です」と、今やほとんどありとあらゆるものに値段がついていて、それはそれはわかりやすい。
お米や野菜などの食料、それらを調理するのに必要な鍋釜などの道具にガスや電気、風雨をしのぎプライバシーを守る家、体温調節と身体保護の機能のみならず自己表現方法ともなる衣服や服飾小物、歩いて行けない遠くへは乗り物が必要だし、病気になれば診察や薬、ただどこかの都市に住んでいるというだけでも住民税がかかる。

すべてが「生きていく」だけで必要になってくるもの。そして、そのどれもに値段がついている。
「生きていく」をもっと受動的にした「この世に生まれ存在する」だけで、有無を言わせずこれらを求めることになる。

さっきも言ったように、
お金は確かに便利だ。

本来、衣食住を整えるためには自ら動いて住環境を作り、衣料・食料を手に入れて加工するなど、自分の手ですべてを獲得してこなければならなかった。
それが今、別の誰かが作ったものをお金によって手に入れることができる。
さらに、資本主義自由競争によって、質は良くなり、たくさんの種類から選べる。
生産設備も整い、技術も進歩して、安価で良いものも増えた。 

しかし、その便利さの代償として「生きていく」ということは「コストがかかる」ことになってしまった。

と、なればお金がなければ生きてはいけない。
お金を稼ぐ力がなければ生きてはいけない。 

とは言え、わたしたちには生存権がある。
確かに、生活保護を申請することはできるかもしれない。
年金や介護保険を受けられるかもしれない。

それでも全体で見ると、それにも「コストがかかって」いる。
誰かが働いて、お金を稼いでいる上にそれは成り立っている。
そういう構図が見えてくると、働いている層が保障を受けている層を疎ましく思ってしまっても無理はないのではないだろうか。
そんな中、少子高齢化の流れは止めようもなく迫り、働いている層への負担はどんどん増していく。
そして、その一方であるところにはある、というのがお金だ。
最悪な場合には、働いている層が苦しいながらも納めた税金がしかるべき所に使われず、どこかに流れてしまっている。
あるところには、ある。
集まるところに集まるようにできている、それがお金だ。

「働く」とは一体何なのか。
「生きる」とはお金を得るために「働く」ことなのか。

就職したばかりと思しき若い女性が電車の中で話している。
「仕事は別に楽しくも辛くもないけど、やりたいこともないし、給料もらってそれで旅行行ければ、なんかそれでいいかな」

「生きる」ために、好きでもない仕事をして「働いて」、仕事でたまったストレスを稼いだお金で発散させて、また「働く」。
この不毛さに疑問も持たないまま、日々を過ごしている人間がどれだけいるのだろう。

NPOで介護保険事業を担いながら、ボランティアもしていたわたしは、ある時からこの「働く」と「お金」の関係について、気になって気になって仕方なくなってしまった。
お金の正体について。
そして、お金をもらえる仕事とそうではない仕事について。

ボランティアでやっていることは、きっと世の中に必要なのだけれど、サービス化の仕組みの外にあるのだ。
そして、それでもボランティアをやるというのは、その行為自体がじぶんにとって価値あることだからだ。
本来はそれが「働く」ということ、「仕事」なのではないのか。
それ自体に価値がある。
その「働き」で助かる人がいて、またじぶんも誰かの「働き」で助けられ、それが生活を支えていく。

それでも、お金が偉くなりすぎてしまった世の中では、本当に価値のあることを提供すれば、サービスとして成り立つというのはもう通用しない。
本当に価値のあること、ニーズのあることに対してサービスを受ける側がその対価を支払えないことが多くなってきているからだ。
今は、そこを救うことに本当の価値がある。
そこのバランスを調整する時にきていると思う。
価値の転換。  

みんなが欲しがるものを売ればお金になるというのは違う。
お金にならないものは、みんなが欲しがるものではないというのも違う。  

お金にならなくても、ニーズがあることをやるのは価値がある。
お金にならないからやらないのでは、本当に価値のあることはできない。  

そして、本当に価値のあることをできるような世の中にしていくことが本当に必要で価値のあることだ。  

価値=お金ではなくなってきている。  


本来は、お金の先に本当に必要なものがある。
にも関わらず、お金が万能になりすぎたおかげで目的がお金にすり変わってしまう。
お金が必要なのは、その先に得ようとするものにコストがかかってしまうからだ。  

誰もが、その人の生活の場にしっかりと立って、自分のできること、やりたいと望むことで文字通り「食べていける」未来をつくる。
そこに本当の価値があるような気がする。
お金がもらえないからという理由で、本当に価値のあることをしない人間にはならない。



と、そんなことを考えていたのが今年の8月15日のことだった。
2019年も暮れようとしている。



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