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たとえ意味が無くても続けられること

昨日の記事の続きになる。

今回は自分のやりたいこと、楽しいと思うことの見つけ方の話だ。
前回の記事を掘り下げたものである。

やりたいと思ってやっていた事がしんどくなってしまったり、「何やってんだろうな自分…」ってなってしまったりする事はよくある。

色々やってみるのがいいとは言うが、何が自分の本当にやりたい事なんだろう?

たとえ意味が無くても続けられること

キーワードは、たとえ意味が無くても続けられること

例えば仕事。
今、仕事には”やりがい”が求められがちな時代だ。
だが「この仕事って何の意味があるの?」と感じる仕事はたくさんある。
「毎日仕事が楽しくて仕方ないです!」なんて人は天職に巡り会えた超ラッキーな人で、多くの人は「仕事だるい…でもお金は稼がなきゃ…」で渋々働いている感じだと思う。

じゃあ仕事に”意味”とか”やりがい”など全くない、本当に日々の生活費を稼ぐ手段でしかないとして。
「それでも続けられるか?」と天秤にかけるわけだ。

やりがいなんてなくても続けられる理由で考えられるものとしては、
・給料がいい
・職場の環境がいい
・尊敬出来る上司がいる
・家から通いやすい
・休日の融通が効く
・仕事内容が楽
・職場の近くの飲み屋に仕事後行くのが楽しみだから
とか色々あるわけだ。

働く理由としては不純と言われるかもしれないが、これだって立派な働く動機である。
これが加点要素。というか、やりがいもこの加点要素の一つに含まれる。

で、減点要素。まさに加点要素の裏返しといっちゃそうなのだが、
・給料が悪い(対価に見合った給料が払われていると感じない)
・職場の環境が悪い
・人間関係が上手くいっていない
・家から遠い
・休みたい日に休めない
・やりがいを感じられない
などが挙げられる。

この加点要素と減点要素をズラズラ並べ立てたうえで、天秤で量る。
プラスが上回ってるなら続ければいいし、マイナスが上回るようならぼちぼち対策を考えた方がいい。
対策の中には”転職”という二文字も含まれる。

これは仕事における例だ。
加点要素と減点要素は人によって変わってくるだろう。
「仕事にやりがいを求めていない」という人は、やりがいがなくてもそこまで減点要素にならないし、「やりがいさえあれば給料の良し悪しはそこまで気にしていない」という人もいるだろう。
「仕事内容が楽」がプラスになるかマイナスになるかは人によって変わるだろう。

どれがプラスでどれがマイナスになるか、あと数値の指標はその人によるのだ。基準など存在しない。

ちなみに私は色々な職を転々としてきたが、マイナスが上回っている仕事にしか巡り会えなかったので、最終的に仕事を辞めた。
甘ったれと言われるのかもしれないが、自分は労働者や被雇用者をやるのは向いてない性質なんだなと自覚してしまった。

今は仕事における例を出したが、これはプライベートの生活にもいえる。

自分の日課に照らし合わせて考えてみた

以前の記事にも書いたとおり、私にはたくさんの日課がある。
日課とはいえ、どれも無理がないように自分のやりたいようにやっている。
サボる時もあるが、そのままフェードアウトせずにゆるゆると続けている。
なぜ続けられるのか考えてみた。

毎日note

文章を書く練習にもなるが、毎日書く事で文章の上達に繋がっているのかは謎。読み返す価値のない駄文だってたくさん生成している。
だから毎日noteを更新するのは、文章力向上において実はそれほど意味をなさないのかもしれない。
それでも続けているのは「なんだかんだ毎日話のネタを考えるのが楽しい」のと「言葉を粘土みたいに捏ねくりまわすのが楽しい」からである。

毎日更新していると、「自分はこの時期はこんな事考えてたんだなぁ」と後から振り返る事も出来る。

「毎日更新するのがめんどくさい」という減点要素はあるが、結果的に加点要素が勝る。だから続けている。

ソシャゲログイン

何十個か入れているソシャゲのログインボーナスを貰うだけの作業だ。
中にはログボだけ貰って、全く本編をプレイしていないゲームもある。
「プレイしていないゲームのログボだけ貰って意味あるの?」と自分でも思う時があるのだが、ログボの無償石が貯まるとたまにガチャが引ける。
おみくじ感覚で楽しんでいるわけだ。

あと脳みそを全く使いたくない時にちょうどいい作業だから続けている。

詰将棋

将棋のルールを覚えたいなと思って最近やってるぴよ将棋というアプリ。
将棋の定石を一つ覚えたはいいが、定石の後の展開が分からない。
そこで詰め方を学ぼうと思って詰将棋を始めた。

ぴよ将棋のアプリ内で、詰将棋の項目がある。毎日更新される。
「ぶっちゃけ将棋の上達として意味があるような、意味がないような…」
もちろん意味はあるんだろうが、たまに実感が得られない時がある。

でもパズル感覚でやってる部分もあるし、軽い頭の体操になるのでそれなりに楽しい。だから続けている。
対局よりも詰将棋の方が好きなくらいだ。

フィットボクシングとリングフィット

筋トレとダイエットがてら続けているフィットボクシングとリングフィット。
ゆるゆる続けてはいるが、体重も体脂肪率もあまり変化が感じられない。
身体は引き締まったような、全く効果がないような…。
「これ効果あんの…?」と感じる時が多々ある。
前筋トレしていた時は同じ理由で辞めてしまった。

今続けられているのは、最近の唯一の運動だからだ。
引きこもり体質なので、外を走ったり散歩するのはめんどくさい。今寒いし。
家の中で出来る手軽な運動というわけだ。

この2つのゲームをやっていると、血行が良くなって身体の調子も良くなっている気がする。頭に血が行き渡るのか、脳も冴える。
逆に何日も起動しないと、そのぶん身体を全く動かさない生活になる。
血行が悪くなるのか、何だか身体が重くなるのだ。

それに、毎日起動するのはしんどいがやり終わった後の達成感…というよりは解放感がハンパない。
毎日「やっと終わったーーー!」となっている。

これが続けられる理由。

絵というか模写練習。
同じ絵を反復練習したりしている。
多分意味はある。練習にはなっている。
ただ、私はプロ絵師を目指しているわけではない。じゃあここまでやる意味はあるのか?

もしも意味が無かったとしても、自分がいい!と思った絵をお手本にして「この絵はこういう風に描かれているのかな…?」と見様見真似で描いてみる作業はなかなかに楽しい。上手く描けた時も嬉しい。失敗する時もたくさんあるけど、それ込みで楽しい。

結構カロリーいる作業だけど、なんだかんだ絵を描くのは好きなのだ。
描く前は「だるいな…」と思って渋々始めても、気付いたら随分と時間が経っている。
だから続けられているような気がする。

料理

料理を毎日やるのはぶっちゃけだるい。毎日作って食べて洗い物して…同じ事の繰り返し。虚無な気持ちになる時もある。
そんなわけでついこの前まで料理はほぼしていない時期があった。
だが料理をしないと毎日の食事が、お惣菜とか買ってきたお弁当とかレトルトになる。何だか味気ない。栄養も摂れてる気がしない。

レシピを見ながらだが、自分の作った料理は美味い。
たくさん作るので残り物も出る。弁当買ってる時みたいに、毎食毎食何を食べるか考えなくていい。残った物を食べればいいから。

「こんなおいしい料理を作れるなんて自分は何て有能なんだ」
これで自己肯定感爆上げ。

あと料理を作っている時のにおい。
香りが部屋中に広がって、何だか幸せな気持ちになる。

だから最近料理を頑張って続けている。

ウクレレ練習

練習といっても、気分が乗らない時は1フレーズをじゃかじゃか弾いて終わり!だったりする。
「それって練習として意味あるのか?」

弦を押さえる指の鍛錬になっていると思いたい。
何もしないよりは1フレーズでも弾いた方が練習にはなってると。

あとなんだかんだ弾いてる時は楽しいです。

外郎売の練習

滑舌の練習がてら始めた外郎売の読み上げ。
「滑舌練習に効果があるようなないような…」まあ声優さんとかもやってるから効果はあるんだろうが、一人で読み上げてるだけなので「この練習方法で合ってる?」と不安になる。

それでも、声を出して読み上げるのは楽しい。
思えば昔から”音読”というものが好きだった。
学校の授業の音読ではやる気満々みたいに読むのは何か嫌だったので、クラスの皆に合わせて棒読み風に読んでいたが、家で一人で教科書をハキハキ音読していた時もあった。

基本独り言も多いし、よく歌も歌うし、声を出すという行為が好きなのかもしれない。

片付け

片付けは正直大嫌いだ。
それでも放置しまくると部屋が荒れるので、毎日片付けの時間を設けている。負担にならないように15分だけ。

片付けはめんどくさいけど、スッキリ片付いた状態は気分がいい。
反対に、ごちゃごちゃ散らかった状態は気分が悪い。だからやる。

たまに気分が乗った時は、15分過ぎても片付けを続けてる時がある。


自分の日課を振り返って

こうして振り返ってみると、毎日やるのがだるい、しんどいと思っている事ばかりだ。
それでも、それ以上に続けられる理由があるから辞めていないというだけだ。

全て共通しているのは、たとえ意味や効果がないとしても、「楽しいから」とか自分なりの続ける理由を見出しているのだ。
これが続けられる秘訣なのかなと思う。

挫折、それでも…

よくスポーツなどでありがちなエピソード。
「小さい頃から競技を続けてたんですけど、プロになれず挫折して。今までプロになる為に厳しい練習を耐えてきたんですけど、それも無意味だったのかなって。それで競技自体一時期全く出来なくなって。でもそこから自分でモヤモヤしながら生活して、ある時友人に誘われて、遊びでその競技をやる機会があったんです。そしたら凄く楽しくて。やっぱり僕はこの競技が好きなんだなってなりました。」
こんなエピソードとともに、再び立ち上がってアマチュアに挑戦したり、その競技に関連する職に就こうと頑張ったりする人たちも存在するわけだ。

「プロになるために」とか「有名になるために」と目標を持ってやると、いざその目標が叶わなかった時や上手くいかなかった時に挫折しやすい。
今までやってきた事に意味を見出せなくなるというのはとても辛い事だ。
挫折してからそのまま辞めてしまう場合もあるだろうし、例に挙げたように「やっぱり自分はこれがやりたいんだな」と改めて自覚する場合もある。

「プロになるために」という目標は叶わなかったが、「結局自分はこれが好きで仕方ない」という新しい動機を見出したわけだ。
一度挫折したうえで再び掴んだ動機は、前より強固なものだ。

挫折してそのまま辞めてしまった人も、全く新しい分野での新しい出会いがあるかもしれない。自分にピッタリな事が。
結局、挫折しても合うならなんだかんだ続ける理由を見出して続ければいいし、合わないならとっとと次を探せばいいのだ。

娯楽・受動的趣味にも言えること

これは娯楽にも言える。
好きな音楽を聴いている時、ゲームしている時、アニメを見ている時などなどなど…。
その娯楽にいちいち意味を求めるか?
ただ自分が好きだから、楽しいからという理由でその娯楽に触れるのが大半じゃないか?

ゲームは娯楽の中でも微妙なところで、対人戦や音ゲーなどのランクがあるゲームだと「上手くなるために〜」とか「上のランクにいくために〜」という目的を持ってやる人もいる。時には挫折する事もある。
だからこそ、こういったゲームは人々を熱中させやすいのだろう。

そのために”娯楽としてゲームをしている人”と”ストイックに目標を持ってゲームをしている人”との対立も生じやすいのだが…。それはまた別の話か。


こうして考えると、プラスマイナス要素挙げながら「これは自分がやりたい事なのか?」って考えていくのって、片付けに似てる気がするなぁ。

冒頭のプラスマイナスの天秤の話は人間関係にも言える事だが、長くなったのでそれはまた後日書こうと思う。

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