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#5 99%

知らなくていい話、だと思う。ホームレスのことなんて。芸能人のスキャンダルと同じくらい、自分たちの普段の生活には関係がない。だから関わる必要もないし、わざわざ声を聞く必要もない。そう思う。ホームレスの話よりも、テフロンが剥げかけたフライパンの買い替えどきの話のほうが、よっぽどためになる。

多くの人にとって知らなくていい話を書いたとしても、何も問題はない。情報入手が選択できるようになってきたとはいえ、自分とまったく縁のない情報が、情報の側から勝手にアクセスしてくる世の中だ。仕事でもないnoteでこそこそ書き綴ることくらい、なにも遠慮も配慮もいらない、そのはずだ。

なのに、言葉を選ばないといけない、気がしてならない。なぜだろうか。

それはきっと、「ホームレス」という言葉や実態に「社会的弱者」や「ろくでもねぇやつ」といった強烈なメッセージが埋め込まれているからだろう。かわいそうだし手助けしてあげよう/しょうもないからほかっておけ、という二つの相反するメッセージが。

どちらにも力がある。たとえ実態を知らなくても、「確からしいものだ」と信じさせる力がある。それだけではなく、現に人を動かす力までも備えている。無償支援という尊い活動に奉仕する人たちがいる一方で、彼らを殴り殺してしまう人もいる。

たぶん僕が書きたい話は、そのどちらでもない。どちらでもないから、どちらにも配慮しなきゃいけない。情報は書き手のものであると同時に、受けとり手のものでもある。1対Nの関係で発信するのだから、ひとり遊びの日記ではないのだから、それなりに言葉も文章も選択しなきゃいけないんだろう。わずらわしいが、しかたない。

すべてではないけれど、僕がこれまで出会ってきた印象深いホームレスは、「手助けしてあげよっか」と感じるには僕よりもはるかに逞しいし、「ほかっておけ」と捨ておけるほど自分の生活と無関係ではない人生を送っていた。

彼らを、面倒くさくて、臭くて、だらしなくて、しょうもなくて、うっとうしいと思うこともあれば、不憫に、哀れに、愛おしく感じて、慈しみたくなることもある。怒りを覚えることも、素っ頓狂すぎて笑ってしまうこともある。好奇心がくすぐられたり、ロマンチックになったりもする。

おそらくそこに、イメージとは異なる「真正さ」がある。「社会的弱者」でも「ろくでもねぇやつ」でもない人間の姿がある。ただ、それを表現していくのが難しい。一言で、簡潔には表せない。一言で、簡潔にしてしまうと、こぼれ落ちてしまう。

いずれかの面を切り取って、偏りを持たせてしまっても面倒なことになる。いつだったか、「好奇心」に偏りすぎたnoteの記事が炎上してしまった。好奇心はあっていいと思う。自分とは、自分たちの生活とは異なる何かに対し興味を持つのは、とても自然なことだから。ただ、それだけではないことも伝える術を持たないと、ややこしい。

「真正さ」を保ちつつ言葉にしていく方法は、今の僕には、「だらだら書く」以外にできない。だから、いくつものエピソードをだらだら書こうと思う。ひとつひとつのエピソードはなにかに偏っていたとしても、回り道をすることで点でも線でも面でもなく、立体的にホームレスを描けることになると思うから。もしかしたら、『トーキョーサバイバー』をこれから読む人たちの役に立つかもしれないし。

と、わかっている風な口を聞いているけれど、僕は路上でホームレスを見かけたとき、99%は無視して素通りしている。

ちらっと目配せするだけで、「話せる人」「話しにくい人」「話せるけど今は無理な人」「話しにくいけど話してみたい人」といった雰囲気を察知できるから、ではなく、無視している。気にしながら歩いてはいるけれど、いちいち話しかけたりなんかしない。ホームレスと交流し始めて10年以上経つけれど、詳しく話を聞いたことがあるのは100人ちょっとだと思う。年間10人くらいだ。ぜんぜん多くない。

だいたい気まぐれで、気分の赴くままに接してきた。福祉でも奉仕でもなく、仕事でも義務でもない。そりゃときには酒やタバコ、ご飯や薬、衣類を差し入れしたり、一緒に居酒屋に行ったりすることもある。けれどどれもその場のノリで決めているだけで、「必ずそうする」ということはない。

僕は慈善活動ができるほどいい人ではないし、人間ができてない。宗教者でもない。ジャーナリストを標榜しているけれど、仕事じゃないから、彼らとの会話で録音テープを回したこともない。頑張ったりしないで、テキトウに接してきたし、これからもそうする。

でもそうやって、テキトウに頑張らずに聞いてきた、たった1%の人たちの話であっても、「社会的弱者」でも「ろくでもねぇやつ」でもない彼らの生に触れられると思う。そういう話を少しずつ書けたらいいなと思っている。

とはいえ。だからなんだ、と自分でも思う。やっぱり、ホームレスのことなんて「知らなくてもいい話」のような気がする。「ホームレスのイメージが変わったとて、いったいなんになる」と、もう一人の僕がそう言う。すると、賢いふりしたまた別の自分が、「他者」とか「異人」とかいう概念を持ち出して、説き伏せる。

簡単な言葉にすれば、「他人を知ることは自分を知ること」というだけのこと。他者は自分の合わせ鏡。ホームレスという他者/異人を知れば、自らのこともわかる。書き手も受けとり手もそうやって書いたり読んだりすれば、「知らなくていい話」が「知ってもいい話」に感じるかもしれない。

また別のパターンもありうる。ホームレスは他者でも異人でもなく、意外と自分たちと地続きの、連続性のある、身近な存在だと思うことだ。合わせ鏡ではなく、隣り合った存在。そういう態度で書いたり読んだりしても、「知らなくていい話」が「知ってもいい話」になるかもしれないな、と思う。

書き手としては、どちらもやってみよう。

わけわからん変なおっさんのエピソードが自分を顧みるきっかけをくれるかもしれないし、飲んだくれおっさんの失敗談がいつ自分の身に起こるかもわからない。フライパンより関係なくて、テレビのなかよりも身近な話、と思えるように書こう。

#5なので、そろそろ言い訳もしておこう回。




毎日更新と宣言しておいて、まったくできてない!けど、必ず追いつきます。本書『トーキョーサバイバー』では、わたしたちの常識や疑うこともなく理解してしまっていることを<アタリマエ>と呼んでいます。そしてホームレスの生活や生き方、態度、発言などを考察することで、「アタリマエを問い直す」ことをコンセプトの一つとしています。
「わたしたちとは何なのか?」もわかる『トーキョーサバイバー』。ぜひクラウドファンディングへのご支援よろしくお願いいたします。



追記:クラウドファンディングは皆様の温かいご支援のもと、SUCCESSし終了いたしました。ご協力・ご支援いただきました皆様、誠にありがとうございました。うつつ堂代表 杉田研人拝(2022/3/17)

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