見出し画像

短編物語『喪失』

美術館のソファーにひとりの男が座っている。男の目の前には大きな絵が飾られている。それは男が30年前に描いた絵だった。

その絵は傑作と評された。「人生を肯定する力強い作品」と讃えられた。男にとっても、それは納得できる作品だった。

しかしこの絵を描いて以降、男は納得のいく絵を描けなくなった。

男はこの作品によって名声を得た。作品はメディアにも取り上げられ、男は一躍時の人となった。

男は自惚れることはなかった。むしろ「こんな扱いは長くは続かない」といつも自分を戒めていた。

しかしそれから30年間、男はこの作品を超える作品を描けなかった。

男は60歳になった。男の作品は今も美術館に飾られている。しかしみな男のことは忘れていた。男は自分の作品の前でひとり「私も年だ」とつぶやいた。そしてもう絵を描くことはやめようと思った。

***

そこにひとりの女性が現れた。上品な白いワンピースを着た、大学生くらいの背の高い女性だった。

女性は男に「篠原太一先生ですよね……?」とたずねた。男は小さな声で「そうだ」と答えた。

女性は美大生だった。そして男に対して、自分がいかにこの作品に心を動かされたかを訴えた。

男はその話を途中で遮り、「その後の作品についてはどう思う?」とたずねた。男はそれを子供じみた行為だとは分かっていた。しかしこの日はそれを抑えることができなかった。

女性は伏し目がちに答えた。「先生は、苦しんでいらっしゃると思います。失礼ですが、描けないことに……。しかし、そのことについてはまだ描いていらっしゃらないと思います」

男ははっとした。「描けないことについて描くこと」。

男は女性に名前をたずねた。女性は「マナミ」とだけ答えた。男は簡単に感謝を述べると、すぐにアトリエへと向かった。

***

男は創作を再開した。「描けないこと」について描くために。それは簡単なことではなかった。どこかで「描ける」自分を描こうとしてしまう。それを捨てて、自分の惨めさと向き合うことは苦しかった。しかし同時に自分の心が自由になっていくことも感じた。

男は創作に熱中した。まるで失われた30年を取り戻すかのように、失われた30年を描いた。そして何作もの作品を一気に描いた。

半年後、男は十数年ぶりの個展を開いていた。「喪失」と題されたその個展はそれなりの評価を得ていた。男としてもそれなりの実感を得ていた。しかしもっと描けるという予感もあった。

そこにマナミが現れた。この日はカラフルなワンピースを着ていた。男はマナミに礼を言った。「君のおかげで私はまた絵を描くことができた」と。

マナミは「とんでもない」と答えた。そして「私もまた創作意欲が刺激されました」と言った。

男はふとたずねた。「若くて美しい君にも喪失はあるのか?」と。マナミはいたずらな笑みを浮かべて、「もちろん」と答えた。そしてその場を軽やかに去っていった。

男はソファーに座りつぶやいた。「私もまだまだ若いな」と。

最後までお読みくださりありがとうございます!サポートは今後の活動に使用します。