冬至の会

明日は冬至の会(暗闇体験と地続きの感覚のこと)

音楽教室の年末行事の冬至の会

明日は冬至ですね。
一番夜が長い日。

utenaの音楽教室では、この日に集まって、
暗闇体験をするのが恒例となっています。

ここから、365日。
365日って、昔は沢山あると思ってた、今はとても少ないと感じます。
365という点が俯瞰できてしまう、みたいな感じ。
一緒に集まる子どもたちの365日はどうなんでしょうねー。
きいたってわかりゃしないんで、ただ、この一年の底みたいな日に
ろうそくを一緒に眺めるばっかりです。

闇の暖かさ

数年前に、東京で純度100%の暗闇の中を散策する「ダイヤログ・イン・ザ・ダーク」に参加したことがあります。
最初は感覚の中で「見えない」ということがクローズアップされて、
感覚が遮断された不安と不自由さだけでした。
でも、時間が経つにつれ、そして、
まわりの人の声が近くに遠くに聞こえてくるにつれ、
それはどうもとてつもなく広くもとてつもなく狭くもなく、そこに今までも馴染んできた空間があることを感じられるように なってきました。
そうすると、感覚というのはまた、広がって世界をつかもうと始めます。
自然、人はそんなふうになっているらしい。

感覚は地続きだと知る

時間をさかのぼって、もう20年ほども前の話、
芸術療法の講座の、多分、園芸療法の講座のときだったと思うのです。
園芸療法は、人の先頭に立つ大脳皮質で処理される「視覚」「聴覚」ではない、もっと深い脳の古い部分に関わるような感覚をそっと呼び覚ますワークがいくつかあったように思います。うまくいえないのですが、時間を逆行するような、といえばよいのか。ああ、少し横道にそれすぎるかな、これはまたいつかゆっくり書くことにしましょう。
さて、その講座のときに二人一組になって、
1人がアイマスクで目隠しをして、もうひとりに手を引いてもらって、
ある場所につれていってもらう、というのをしました。
見えないこころもとなさ、そして、触れてもらっている手だけが頼り。
触れるもののあたたかさ、びっくりするほどの壁の凹凸。
階段を降り、ドアを開けて外にでた気配、風。
そして、ある場所に立たされます。

「今、私達は輪になって木の周りに立っています。
みんなひとりづつ声を出してみましょう」と先生の声に従って、
順番に声をだすと、なんとなくその木の大きさがわかる。
そして、そこでアイマスクをとって、その木を仰ぎ見たのでした。

あれはただ「目の見えない人の立場にたつ」体験ではなかったように思います。
いや、私達が普段、「目の見えない人」は「目が見えないという欠けを負っている」という視点からしか知らない、その世界だけではなかったのです。
触感の豊かさ、暖かさ。
聞こえるものが世界がまだ存在してることを教えてくれていること。

見る事を補完しはじめる他の感覚たち。
感覚は地続きだということを、もう私は疑わない、と。

冬至のこの日に

ずっと以前は、普通にクリスマス会をやっていましたが、ある男の子が宗教上の理由でクリスマスには参加できない、というので、名前を冬至の会に変えてお楽しみ会をしたことがあります。今から思えば冬至の会という名前はそんな感じでついたのですが、それは良かったなと思います。

暗闇のなかで、立ち上がってくる自分の感覚と、人の気配。

それがどれだけ、勇気づけられるものか。

これから先も、な。
それを思い出せるといいな。もし、なにか人生の中でくずおれそうになったときに。その種になるといいな。

毎年届く、作業所のお菓子。今年はねずみもついてきた。
これもありがたいめぐり合わせ。

愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!