雑草と呼ばれる植物たちの偉大さに圧倒される
庭で植物を育てている人や、ベランダで家庭菜園をしている人たちにとって、もしくは公園や建物等の管理人にとって、雑草と呼ばれる植物たちの存在は常に目の上のたんこぶだと思います。
プランターくらいであれば、生えてくるたびにホイホイ抜けばいいだけですが、広い庭や畑を運用している人たちからすると、その都度抜くのは非常に大変です。
庭でなくても、たとえば公園と道路の隙間から生えてくる雑草を「景観の問題」から取り除く必要が生じた場合、ほとんど厄介なゴミのポイ捨てと大差ないように扱われてしまうかもしれません。要は「掃除」の対象として、ゴミを拾ったり雑草を抜いたりされるわけです。
彼らは名前で呼ばれることも無いまま、「雑草」として、その他大勢として、疎ましく思われつつも、なんともなしに飄々と、それが当たり前というかそういう仕組みだろうといった具合に、どこからともなく生えては成長することを繰り返します。
改めて考えると、不思議な存在です。いったいどこから種を持ってきて、土も水も満足にない環境で、平気な顔をして成長できるものなのでしょうか。
一方、なぜか道路に生えて成長してしまったダイコンを指して「ど根性大根」と、ちょっとした注目スポットのように扱われたりすることがあります。
もしくは、様々な曲の歌詞や詩のなかで「アスファルトに咲く花のように」といった比喩表現が頻繁に使用されますね。
いずれも「過酷な環境」で「それにめげずに力強く成長する様子」を、ポジティブに解釈していることがわかります。
また、雑草は「ゴミ」のようなイメージですが、食べられる雑草や、生息域が山の中など採集が難しい植物を指して「野草」「山菜」と故障したりすることもあります。これらの呼び名は雑草よりもポジティブです。(人間にとって有益かどうかといった差異はありますが、植物は植物です)
名前が分からない、特徴もなく判別されない、花も咲かずに(咲く前で)色鮮やかな美しさがない、食べられない等、メリットもなく特定された形で認知されない(その他大勢、なんらかの草)として見られる植物を指して「雑草」と呼んでいるわけです。
同じ草でも、タンポポがアスファルトを割って咲いていれば「美しい花」だし、公園で除いても除いても生えてくるイネ科の草は「雑草」です。
そんな忌まれがちな雑草ですが、よく考えると大変なことをしています。
日本では、すこし道を歩いただけでものすごい量の植物を目にすることができます。
どんなに都心だろうと、少し住宅街に目を向ければ、家と道路の隙間にたまった土なのか埃なのかに根を張った植物たちが生えています。
街路樹は管理されている植物ですが、街路樹の根元からはどこから来たのかもわからないタンポポやヒメジョオン、イネ科の雑草が生えていたりします。(管理が行き届いていると、手入れされて無くなっていたりしますが)
この一見当たり前の光景ですが、海外ではそうでも無いようです。
日本人はあまり意識していないのですが、日本の土地は海外と比較するとものすごい量の水分を保持しています。雨が多いうえに山だらけの国なので、そのほとんどが地中に溜まりつつ、ゆくゆくは川となって流れます。単に滞留して蒸発するのではないというのが大きなポイントです。
更に、この川の流れは、全国隅々まで水資源を運搬すると同時に、山で大量に発生した有機物や栄養素の運搬も行います。必然、川の近辺やその土壌に含まれる栄養素は非常に高いものとなり、いわゆる「肥沃(ひよく)な土壌」となります。
日本は水分量が多く、さらに肥沃な土壌であることから、どこでも簡単に雑草が育つのです。海外ではそうはいかず、アメリカ、カナダ、オーストラリアといった大規模農業を行っている各地では、昨今深刻な水不足に陥っている状況があります。
テレビで流れる「サバンナ」の映像を思い返してほしいのですが、日本の山とは全く異なる情景が浮かぶのではないでしょうか。あれは誰かが枯らしているわけでも何でもなく、単に草が簡単には生えてこないのです。
単純にサイエンスの話ですが、要は植物の成長には水が不可欠だということです。雑草が生えるのも簡単ではなく、地球規模でみれば雑草を迷惑がる機会のほうが”まれ”だということです。
この話だけでも、雑草という存在が「その他大勢」「ありふれたもの」という認識を少しだけ揺さぶることができるんじゃないかと思いますが、更に一歩踏み込んだ話をしてみます。
雑草というのは、そこに存在するだけで、様々な生き物たちの生活を支えます。
たとえばアブラムシは植物にへばりついてその汁を吸うことで成長します。アブラムシと共生関係にあるアリはアブラムシから蜜を分けてもらいます。アブラムシを食べるテントウムシからすれば、その雑草はほとんどレストランのようなものです。
葉を食べるイモムシ。イモムシを食べるハチ。ハチを食べるトンボ。トンボを食べる鳥。まさに食物連鎖です。
ミクロで考えると、植物が枯れたその有機質は、菌類やダンゴムシ、ミミズといった生き物たちによって消化され、やがて有機質と無機質が混ざり合った土のような状態になります。そこは地中の生き物たちの住処となり、また次の植物が育つための土台となります。
これらはほとんど世界そのものの様相を呈しています。
端的に言えば、皆さんが学校で習った食物連鎖そのもののことですが、少し視点を変えると、これらの中心にいるのが植物であるということがよくわかります。
植物は常に消費される存在です(食べる側の生き物を指して「消費者」と呼びましたね)。逆に、植物たちは生産する側なのですが、では植物たちは何を生産しているのでしょうか?栄養素といえば栄養素ですが、もっと抽象的に、普遍的に表現すると、彼らはエサを生産しているのではありません。
彼らは”有機物”を生産しているのです。
「光合成のことでしょう?」と思った方が多いと思います。正解ですが、少し解釈が違っているかもしれません。
光合成を介して生産されるのは糖質ですが、これは必ずしも彼らのエネルギーのことを指しているわけではありません。有機化学に明るい人はご存じの通り、植物たちの体を構成している繊維質、セルロースは糖質の一種です。つまり彼らの体を構成しているものは糖質であり、有機物なのです。
何が言いたいのかというと、植物たちは自分たちの体を構成する有機物すら自分の力で構成しているということです。
言われてみれば当たり前のことを言っていますね。「そりゃそうだろ」と思うかもしれません。
しかし考えてみてください。この世に存在するすべての動物たちは、何かものを食べて、その食べた栄養素を体で分解して取り込み、エネルギーにしたり、身体を構築したりしているのです。つまり有機物を摂取して、身体に合った形にしているだけです。
では、その有機物はどこから来るのでしょうか?答えは簡単です。植物たちが合成したのです。常に、必ず、有機物の元、出所をたどっていけば、何らかの植物に行きつくということです。
有機物を自ら合成することができるのは植物だけなのです。
これがどれほど異質なことか、考えてみると途方もありません。
この世の生物たちはたいていの場合有機物が必要なのに、その出所が常に植物であると決まっているのです。
植物が多ければ多いほど、地球上の有機物の量は増えていきます。有機物が多いということは、それだけ生物たちが充実した生活を送れるということに他なりません。生きるためには有機物が必要なのですから。
人間を筆頭に、哺乳類や鳥類、爬虫類、両生類、魚類、昆虫やら節足動物、微生物とされる生き物まで考えても、無機物から有機物を生成することはないわけです。そんなことを考えていると、植物という存在の異質さと凄まじさに圧倒されます。
少し話を戻します。雑草の話でした。
雑草は食物連鎖を促進しつつ、有機物を生成して地球を豊かにする存在だというのが、ここまでの話の流れです。
いや、植物の話をしていたのだから、雑草に限らずそれはそうなのでは?と思われてしまうかもしれません。
それはその通りですが、雑草と畑の野菜が決定的に違うのは「可愛がられているか否か」です。この一点が非常に重要です。
たとえばトマトを育てるために、育苗から始めて、土を丁寧に耕し、苗を畑に植えては肥料の状態や水分状態に気をつけ、成長次第で摘心や摘果を行いつつ、ベストな状態で実をつけてくれるように管理が必要です。
一方雑草はどうでしょう。誰が管理するわけでもなく好き放題に葉と根を伸ばし、場合によっては満足できるほどの土や水分が無い中、日光も偶然受けられる程度で、あとは日陰かもしれない状況でも、すくすくと成長していきます。
要は、少ないコストで成長するということです。コストというのは、人件費的なところもそうですが、日光や水分、土の肥沃度合もそう求めず、省スペースでもガンガン成長するということです。
成長するということは、有機物を生成するということに他なりません。つまり雑草は、低コストで大量の有機物を生成する存在だということです。
大量の有機物を生成するということは、その存在が地球に対して及ぼすポジティブな影響が巨大であるということ。有機物を生成し、動物たちのエサや住みかとなり、その土地を豊かにしていくということです。
人間目線で語ると、たとえば外来種の植物が在来種を追いやるという現象は非常にネガティブな印象です。
ナガミヒナゲシやセイタカアワダチソウが道路の隙間や線路沿い、川の土手に群生している様子は、それらを一瞥したとき、家の中で害虫を目撃したような感覚で眺めたくなってしまいます。
もちろん、在来種の保護は生物学的観点や文化的観点で重要なことだと思いますから、それはそれで必要なことだと思います。しかし、それはそれです。雑草という存在は、生物からすればエサであり、住処であり、地球からすれば有機物のいち生産者(それもコスパの良い生産者)でしかありません。
ナガミヒナゲシの花にチョウやアブが飛んで集まっている様子はよく目にします。
セイタカアワダチソウをよく観察すれば、小さなたくさんの花にアリが登って密集したり、アブラムシたちが引っ付いていることもすぐに見つかります。
いずれも当然のことではありますが、彼らは「こいつらは在来種を脅かす存在だ」などと考えることはありません。ただ目の前にある魅力的なエサや住処に魅入られているだけです。そこには人間の価値観をものともしない美しさがあります。
ミクロなつながりとしては、有機物の生産と受け渡しが今まさにここをゲートとして発生しているかのような。何か境目を目撃したかのような。
マクロな流れとしては、巨大な食物連鎖のうねりが大きく脈打ったような。
それらが人工物のなかで、まるで生えてこないように人間が制御しようとしているその環境下で、その隙間を縫うように飄々と生えてきては、有機物を生産し、植物自体とその周りで生命のにぎわいを見せてくれる。
制御のしようがないそれらは、いくら人間に忌まれようとも勝手に(効率よく)生産者として活動し、ほとんど自動的に土地を豊かにしてしまう。その力強さに私は感動すら覚えてしまうのです。
(こんなテーマで4500文字も書いてしまいました。お恥ずかしい限りです)
(最後まで書けてしまったので公開させていただきます。お目汚し恐れ入ります)
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