「欲情」は不快か?

妊婦がお腹をナデナデするのを見るだけで不愉快になる女性がいるらしい。なんとも狭量な(笑)。

で、青識亜論氏がこれに噛みついた。

普通に読めば、これは青識氏がこの記事自体を批判しているのではなく、この記事内に登場する「妊婦を不快に思う女性」を批判している、としか解釈できない。

ただ、青識氏は次のツイートをRTしている。

当然ながら、妊婦を不愉快に思う女性がフェミニストだというエビデンスは1つもない。なので、青識氏がこのツイートをRTしたことは迂闊だったと言えよう。

そして、問題のツイートがこちら。

まず、枕詞に「よくわからないが」と来た。よくわからないのなら黙っとけ、と思わなくもないが、そこは武士の情けでスルーしてやる。

次に、別の事例として「電車内で女子高生に欲情する」と来た。なんで「不快」のミラーリングが「欲情」なのだろうか。全く理解できない。

例えば街のパン屋さんから美味しそうな匂いが漂って来たら、誰だって思わずクンクンしてしまうだろう。それと同じで、生脚ミニスカートの美少女が目の前にいたら、男なら誰だってゴックンしてしまうし、10代男子なら思わずボッ〇ンしてしまってもやむを得ないシチュエーションだ。これらはいずれも生理的な欲求に起因するものであり、不快感とは全く異なるものである。

それに対して不快感とは、主に後天的な教育や環境、経験等によって刷り込まれていくものだ。例えば幼児は床に落ちたものでも平気で口の中に入れるし、なんなら食べられない物すらも口に入れようとする。先入観がないから不快感もないのだ。もちろん、本能的に不快を感じるものもないわけではないが、不快感の多くは後天的に学習したものだ。例えば犬や猫が萌え絵や妊婦に対して不快感を抱くだろうか?もちろん彼らは言葉を話せないのでホントのことはわからないが、おそらく犬や猫はそんなもの気にも留めないだろう。

また、本能か学習かは別としても、欲情と不快ではそもそも感情のベクトルが180度正反対である。欲情するというのは、強い好意の現れであり、不快というのは、嫌悪の現れである。

nowhereman氏は「批判」は表現の自由に対する抑圧だと考えておられるのだろうか。むろん、そういう側面が全くないわけではないが、原則として、表現の自由は表現の自由の範疇だ。これが、大原則。だから、批判することとと、表現の自由を守ることは、何も矛盾しない。例えば、私が護憲論者を語気を荒げて批判する場合でも、相手の表現の自由は侵害していない。ただし、これが脅迫的な表現を用いて批判するのであれば、これは相手の表現の自由に対する侵害だと言えるだろう。あるいは、相手の人格を否定するような批判も、あるいは表現の自由に対する侵害と言えるかもしれないが、これは程度問題でもあり、グレーゾーン。この件に限らず、表現の自由にはグレーゾーンが広範に存在するのは間違いないと思う。

何がどう説得的なのか分からない。こんなものは、「彼女いない歴=年齢の僕にとってはクリスマスが辛い」と恨み言を言ってるインセル君(この言葉は大嫌いだけど、ここではあえて使う)と似たようなものではないか。

自分は自分。他人は他人。そう考えれば、他人の幸せなど気にもならないのだ。

まあ、ただこの投稿では「私の中にこんなブラックなものがあったのかと思うほど」と、その感情が酷く醜いものであるということを自覚しておられるだけでも救いようはある。自覚があるなら、酷い行動にはきっと出ないでしょうから。

萌え絵嫌悪者たちは、自分たちの好悪の感情を醜いものだと自覚しておらず、なんなら「正義」だと錯覚すらしていますから、そもそも比べてはいけませんね。

ちなみにさっきの女子高生の事例で言うなら、欲情するという感情そのものは、むしろ尊いものだと私は考えます。もちろん、40過ぎたアブラギッシュなオヤジに欲情されても女子高生はその感情を受け入れることは困難でしょうから、その感情を表面に出すことは絶対に控えるべきですが、だからといって感情自体を否定することは、生命の源を否定することに繋がります。

一方、不快感というのは、時に差別感情と直結しています。例えば、電車のシートに外国人男性の隣だけポッカリ空いているのに誰も座らない、なんてことありませんか?

もちろん、不快感の全てが差別感情だ、などと言うつもりはありませんが、どちらも感情の根っこにあるのは「過去に学習してきたものと異なるものに対する違和感」でしょう。

これのどこがミラーリングになっているのか分からないが、「電車なんか乗るな」が特定個人に向けられた言葉であり、なおかつある種の強制力を伴っているのであれば、それは明確に人権侵害であり、「表現の自由」では守られません。TPOの問題ではありません。逆に、不特定多数に向けて言うだけのネットの放言なら、倫理的にはどうかと思うが表現の自由の範囲であり守られるべきでしょう。ただし、その発言が執拗に繰り返され、他者の発言の妨げになるのであれば話は別ですが。

表現の自由というのは、基本的人権の根幹を為す1つですが、それは、他者の人権を侵害しない範囲というのが大原則だと思います。

ちなみに「不快なものを排除する権利」というものは、基本的人権の保護範囲にありません。なぜなら、人間は不快なものから自主的に遠ざかることが可能だからです。しいて言えば、不快なものから自主的に遠ざかるのが困難なシチュエーションに限って、その権利は認められる程度です。

この後は長いので割愛しますが、彼は自分で勝手に「暴行罪」という誰も言及してないセルフ設定を用いて公権力がウンチャラナンチャラとくだらない話をしていますが、電車内で大声で威嚇すれば、普通に「迷惑防止条例」で取り締まりの対象になります。表現の自由は関係ありません。

東京都迷惑防止条例 第五条
2 何人も、公共の場所又は公共の乗物において、多数でうろつき、またはたむろして、通行人、入場者、乗客等の公衆に対し、いいがかりをつけ、すごみ、暴力団(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律(平成3年法律第77号)第2条第2号の暴力団をいう。)の威力を示す等不安を覚えさせるような言動をしてはならない

しかし、nowhereman氏の「公権力」に対する異常な執着心って、なんなんでしょうね。「公」と「私」の区別を作ったのは我々人間であって神様じゃないんだから、公が私に転落?することも、私が公に昇格?することも、普通にあり得るってことを、この人はどうして理解できないんでしょう。

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