技術的生成可能時代の芸術作品

Chat GPT-4によって芸術や建築が大きく変わっていくのは間違いないだろう。芸術家も建築家もどんどん失業していく可能性は大いにあり、生き残っていくためにどのようにかわっていくのか、そもそもの芸術の価値とその変遷から考察した。

1. オリジナルの価値

そもそも芸術における重要性は「オリジナル」にあった。
オリジナルであることが重要であることが、ベンヤミンのアウラによって定義づけられた。20世紀初頭から芸術作品は、ロダンやウォーホルによって、「オリジナル」の価値を揺さぶられた。しかし20世紀は芸術が技術と結びつきが強くなることで、新たな芸術を作り出してきた。技術によって「複製」が簡単に可能になり、「アウラ」のある芸術は縮小するかに思えたが、著作権などによって「複製」出来ない(しにくい)ものの価値は守られ、「オリジナル」の価値は資本と結びつくことで強くなる。
代替不可能な物質性もオリジナルには重要な要素であった。(デジタルアートは物質性を持たないが、NFTがオリジナルを担保することになった。)
資本は、投資対象のものとして希少性を求めており、その結果現在まで芸術の「オリジナル」という価値は保たれ続けている。

2.礼拝価値からブランド価値へ

もうひとつ古くから芸術の大事な点として礼拝価値があった。神話や宗教と結びつき、その伝統への信仰を示すことでその価値が担保されてきた。その礼拝されるということが芸術の価値において重要であった。礼拝価値も宗教改革によって揺すられ、20世紀にはほとんど消滅した。一時期は宗教革命以降、芸術は貴族による個人的所有価値に重きが置かれてたが、市民革命によって美術館への展示価値に重きが置かれるようになった。まずは専門家による芸術の価値の権威付けが行われるが、ここで大切なのは多くの一般人がその芸術が大切であるという認知であった。多くの人が芸術が「価値があるもの」として認知されることによって、資本が生まれ、さらに多くの芸術が生まれてくる循環を作り出した。
本質的に価値があるものかはわからないが、価値があると礼拝されることで価値が生み出され、資本を生む。それをブランド価値と名付けてみる。
現在は広告やSNSによって、いつでもどこでも価値のあると思われる芸術に簡単に触れられる。勿論その価値は虚構であるので揺らぎやすいし、消費されやすい。だから日本では、社会的なことを謳っている芸術家やデザイナーは、不倫で作品の価値は暴落する可能性があったりもする。

3. 自己表現という価値

近代以降の理性、合理性化社会の抑圧における、自己表現の発露としての芸術は非常に重要な価値をもたらした。
セザンヌから始まり、現代アートは自己表現が大事な要素となった。近代が終わり現代が始まると、芸術作品が飽和することで、時代精神や合理性だけではもはや「差異」がもたらせない。大きな物語ではなく、個人の物語が差異を生み出せるようになる。自己表現からの社会的共感は今世紀に入ってから最も価値を生み出すようになった。
もちろん村上隆氏が指摘する通り、ただのセカイ系の表現だけではなく、市場を意識しながらの自己表現が芸術家が評価されるのに大事な要素となっている。ここでも権威的価値づけが重要となる。

4.科学・技術的価値

芸術の発展は科学(技術)とは切っても切り離せない。テンペラから油彩画、カメラオブスキュラから写真などの映像へ。映像からバーチャルへどんどん芸術の幅は広がっていく。しかし西洋の啓蒙主義が、科学の探求を理性によって縛ることで、科学を発達させてきた一方、近代以降「効率化」と「資本」にも縛れれるようになった。そもそもの「科学」は不合理性の探求でもあった。ユングの言う通り、それは制限でもあり、貧困化でもあるかもしれない。要するに芸術の表現の幅を広げることを可能にしたが、合理性にも縛られることになったので、20世紀初頭まではこの価値が大きくなったが、ポストモダンの時代には既存芸術の科学的価値は少し弱くなったと考えられる。


5. AIによる価値の減退


本題にはいるのだが、AI技術の進歩によって芸術はどう変わっていくのだろうか。すでに分野によって人間の知性を超えた作品が生み出されている。画像はすでに容易に生成できるようになってきた。同じ指示を出しても、結果が変わってくるので、まさに落合陽一氏の定義するデジタルネイチャー化が進んできたとも言える。デジタルネーチャー化が進むと、AI技術が我々の知能を超えるので、人間がAIが考えることを理解できなくなる。
アーティストは自分でオリジナルを制作するのではなく、AIによってオリジナルを制作してもらう。そのことによって、そもそもの「オリジナル」という価値自体の定義が再び変わってくる。
今までは「複製」することが多くの芸術にとって意味のないことだった。「いま」、「ここ」という偶然性を含む芸術が価値を持ったが、AI生成によって偶発性が加速することで、オリジナルのある作品が多く生まれ、再びアウラのある作品が生まれてくるかもしれない。すでに同じ言葉で聞いたことが、時間によって変化している。

そして自己表現の価値観も変わってくる。AI技術に補助されてできたものは自己表現の結晶なのであろうか。そもそも今後は生成AIによって、個人が容易に芸術を制作、所有できることになる。そこには社会的価値を生み出す「共感」も必要ない。

そのことでブランド価値も容易に揺らぎうる。
ブランド価値を担保しているのは「権威による価値づけ」と「多くの人のイメージ」と「資本」である。個人での芸術の制作や所有が可能になることから、多くの人が「価値のあるもの」という認識がわからなくなる。またオリジナルの価値がなくなることで、希少性を失い、再びその芸術から資本が弱くなる。そのことによって、虚構的な礼拝価値の方が大切になるかもしれない。

また科学・技術的価値の主題である「超効率化」が進むことで、効率性の良しあしが資本と結びつきにくくなる。デジタルネイチャー上の技術はどんどん進んでいくが、我々の物理的生活世界の進歩には時間差があるので、そのズレでしか科学・技術的価値は生み出されない。そもそもデジタルに物理的な制約を理解したうえで、進歩出来るのかという課題もあるが、時間が経てば解決されるだろう。。

「オリジナル」「自己表現的価値」「技術的価値」の芸術を担保していた価値はどんどん失われる。そのことによって「資本」という価値が芸術からなくなるかもしれない。残るのは「権威付けによる価値」と再び蘇る「礼拝的価値」だけである。

6.  世界の再魔術化

ではそのような世界で芸術家はどうなっていくのか。
芸術家の制作方法も変わっていき、「良い芸術」はその制作された無数のサンプルの中から、芸術家が価値づけを行うことによって定義されるだろう。芸術家が権威付けられ、多くの人のイメージを作り出す普及活動をする。まさに中世でキリスト教を伝え、解釈していた司祭のような存在となる。AIは神となり、人間の理解を超え、ありとあらゆるものを虚構かもしれないが生み出せる。司祭となり、その神の考えを解釈し、SNSなどで一般市民に伝えることによって、自らの価値を維持していくしかない。
神の存在を否定するには電気を切るかしかないが、電気がない生活は不可能であるので、その永遠性は担保される。

世界は確実に再魔術化(モリス・バーマン)に向かっている。
その世界に参加することでしか、芸術家の存在意味はなくなるであろう。


7.建築について

建築という複雑な物理的クリエイティヴ業が淘汰されるのは、まだまだ先だと安心していた我々だったが、近い将来建築家もどんどん必要はなくなるだろう。
情報(言語や画像、過去の物件のCAD)を入力することで建築が生成される。形態が無限に生まれる中で、機能を判断し、最終決定する。形態が情報に従い、機能が形態に従う。形態は機能に従うというモダニズムの理念の部分が完全に打ち砕かれ、建築の新しい時代が幕開ける。モダニズムが生まれて(正確な定義は難しいが仮に1920年とする)100年経ち、とうとう終わりが見えてきた。
その時代に建築家に求められるのは「司祭」としての情報の入力と機能の最終決定だけである。

逆に職人の地位が上がるかもしれない。ほとんどの現場では機械を導入するよりも職人の賃金のほうがはるかに安い。なので、デジタルネイチャーと現実世界での物理的進歩のスピード差があるので、職人は必要とされ続ける。「機械」以下ということになるかもしれないが。。。

しかしもっと技術が進むと形態が自己生成をし、変化していく。さらに新しい時代が生まれてくる。デジタルと物理空間の差異がなくなり、もはや一人一人が神になるかもしれない。
さすがにそこまでの進歩は後100年以上はかかると思っているが、デジタルネーチャーはもはやどうなっていくか把握することも難しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?