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逃亡者たち

(1) 

 名古屋市内から目的地までは三十分もかからなかった。タクシーを降りるなり、凄まじい臭いが倉敷を襲った。付近には強烈な腐臭が漂っていた。生きているものが長く留まることを許さないような臭いだった。
 マスクの上にハンカチを当てると、倉敷は歩きだした。
 歩みを進めながら、彼は周囲を観察した。もちろんネットやテレビのニュースで、ここについて様々聞いてはいた。だが、実際に来るのは初めてだった。
 噂通り、辺りには異様な雰囲気が漂っていた。地面があちこち剥げ、血のような黒が露出していた。木も枯れていた。そして、5mほども高さがある鉄柵が、見渡す限り左右に伸びていた。「高圧電流注意」という文字が上に見えた。
 柵の向こう、遠くに海岸が見えた。人はいない。相変わらず、海はどす黒かった。
 こちらとあちらとを隔てる鉄柵。その中央に打ち込まれた楔のように、その建物は立っていた。美浜臨海界境警備施設。倉敷が今日ここに訪れた理由だ。
 施設の前で、一人の男が倉敷を待っていた。
「倉敷です」頭を下げた。「呼ばれて来ました」
「獣医の方ですね」分厚いマスクと冷たい目。「お待ちしてました」
 施設に入ると、臭いはさらに強くなった。ほとんど吐きそうになりながら、男の後ろを倉敷はついていった。広い施設なのに、なぜか男以外の姿は見当たらなかった。まるでここで働く人々がみな、どこかに隠れているみたいだった。
 狭くて殺風景な部屋に倉敷は通された。
「これにサインをお願いします」椅子に腰かけるなり、男は一枚の紙を渡してきた。「守秘義務に関する書類です。ここで見聞きしたものについて、外で話すことは禁じられています」
 歯向かう気はなかった。さらさらとサインを記したあと、倉敷は紙を返した。
「私がここに呼ばれた理由は、」倉敷は聞いた。「まだ教えていただけないんですか?」
 男はしばらく答えなかった。意思が朽ちてしまいそうな沈黙のあと、マスクの奥からまた男が言った。「まず、着替えましょうか」
 全身を包む防護服。ゴム手袋に長靴。ゴーグル。それらを二人は身に付けた。
「準備はいいですね」装備を確認したあと、男は言った。「じゃ、行きましょう」
 薄暗い施設内を二人はまた進んでいった。長い階段を降り、重たいドアを抜けた。相変わらず誰の姿も見えなかった。時々、重苦しい音が四方から、二人を追いかけてきた。風の音だと思いたかったが、何かの呻き声にしか聞こえなかった。
「ここです」ひとつのドアの前で、男は立ち止まった。「準備はいいですか」
 少し息を整えたあと、倉敷はゆっくりと頷いた。
 男は最後に一瞥だけ、倉敷の表情に与えた。それから、ドアを開けて、中に入っていった。倉敷も後に続いた。
 部屋の中は真っ暗だった。初めは何も見えなかった。自分の息の音がとても大きく聞こえた。そして倉敷は確かに感じた。自分と男以外に、部屋の中にいる何かの気配を。
 次の瞬間。どこか近くで電気が点けられた。
 そして倉敷はついに対面することになった。「それ」と。

(2)

 一連する全ての事態は、およそ八年前に始まった。
 まず異変に気付いたのは、海岸沿いをジョギングしていた女性だった。当時、近くに住んでいた彼女の日課は、朝日を浴びながらそこを走ることだった。
 だがその日、海を右手に走っていた彼女は、いつもない影が目の端をちらつくのを感じた。どこか落ち着かない気分になって、彼女は立ち止まった。
 それから彼女は海を見た。そして眩しさの下に、彼女は「それ」を目にした。「それ」が何なのかはまるで分からなかった。肩で呼吸をしながら、彼女はしばらくそこで立ち止まっていた。その後で、ポケットからスマホを取りだした。どこに電話していいのかも分からなかった。だがとりあえず、119番に連絡を入れることにした。
 愛知県美浜南西部の沖に、夜のうちに「それ」は現れていた。「それ」は、クジラほども大きさがある、巨大な影だった。その部分だけ、海は真っ黒に見えた。
 数時間後。三艘の漁船が沖に出た。船には名古屋港を拠点とする漁師たちが乗っていた。海全体が奇妙に静まり返っていた。波も風も、何もかも。辺りの海に詳しい漁師たちでさえ、こんな海を見たことがなかった。ほとんど揺れない船の上で、前方を見つめる彼らの表情は険しかった。長年の勘から、何か不吉な空気を彼らは感じた。
 海岸には、市役所の職員や警官たち、そして大勢の野次馬たちがいた。三本の白い線が影に伸びていくのを彼らは見ていた。ついに船が影の上に着き、調査を行うのを彼らは見ていた。しばらく後、船が海岸に戻ってくるのを彼らは見た。
「どうです」職員は漁師たちに聞いた。「何でしたか?」
 漁師たちは静かに首を振った。「ひとつだけ言えるのは」彼らの口調には絶望の響きがあった。「誰もあれに近づかないほうがいいってことだ」
 一帯が封鎖された。影を中心とした半径500mほどが侵入禁止海域に設定された。遅れてきた海上保安庁の警備艇が辺りを囲んだ。海岸には一般人が入れなくなり、調査用のテントがいくつも設営された。多くの専門家や大学教授、科学者が日本中から集められ、調査は慎重に進められた。
 そして、一か月後。調査員たちが会見を開くと発表した。
 会見場には多くの報道陣が詰めかけた。三人の調査員代表たちが会見場に姿を現したのは、おおよそ予定通りの時間だった。だがまるで彼らを責め立てるかのように、シャッターが焚かれた。フラッシュを浴びて、彼らはしきりに汗を拭っていた。表情はそろって浮かなく、とても何かが分かったようには見えなかった。
 カメラを通したそんな人々の印象は、半分当たっていて、半分間違っていた。まず調査員たちは、海にできた影が何かを突き止めていた。だが同時に、それが何かよく分かっていなかった。簡単な挨拶を済ませると、彼らは発表した。あれは次元の割れ目です、と。
 発表のあと、会見場は水を打ったような静けさに包まれた。
 正気を疑われているのを感じながら、調査員たちは説明を重ねた。美浜の近海、海岸から50m、深さ10mほどの位置に、縦は2m、幅は80mほどの範囲にも及ぶ、時空の歪みが観測できたと。「割れ目」と表現したがまさにそのままで、例えば厚い布を思いっきりひねると裂けるように、何らかの原因で四次元空間に歪みが生じた結果、そこに「時空の穴」のようなものが開いているのだと。「穴」の中の観測も行うとしたが、いかなる光も通さないため、「向こう側」に何があるのかはまるで分からないのだと。
 おおまかな説明が終わったあとも、会見場は静かなままだった。記者たちには、全てが悪い冗談の類か、怪しい空想にしか思えなかった。
「何か質問はございますか」申し訳なさそうに調査員が言った。
 手を挙げたのは、記者たちの中で若い女性一人だけだった。
「はい、どうぞ」調査員は彼女を指した。
「えっと、東京新聞の丸山です」彼女は立ち上がった。「これからどうなると考えられるんですか?」
 調査員たちは顔を見合わせた。互いに譲り合ったあと、彼らの中で一番若い男の手に、ゆっくりとマイクが渡っていった。
「私たちにも分かりません」
 そして会見場は再び静寂に包まれた。
 その間にも事態はさらに進んでいた。

(3)

 彼はその日、警備員として海岸を巡回していた。「次元の割れ目」が生じたあと、一般の人々を海に近づけないために、そこに配置されていたのだ。
 深夜になっていた。調査員たちはすでにホテルに戻り、マスコミの姿もなかった。月もでていなかったので、海岸には全然光がなかった。これだけ暗いと、海に目をやっても、「例の割れ目」がどこにあるのかよく分からなかった。
 懐中電灯を片手に、彼はそこら辺を歩き回っていた。
 そして、海の近くまで来た時だった。彼は何やら水の音を耳にした。ただの波の音ではないように聞こえた。それは誰かがおぼれているような音だった。
 不審に思った彼は、波打ち際へと近づいていった。すると、光のまるでない海の中から、何か大きな影が岸へ上がってくるのが見えた。というより、気配を感じた。
 初め、彼は「それ」が人だと思った。「大丈夫ですか!」と叫びながら、彼は手に持っていたライトを、底知れない闇の方へと向けた。
 そして悲鳴が夜の海岸に響き渡った。
 翌朝。テントの脇に置かれた「それ」の死体を目にすると、調査員たちは文字通り絶句した。黙り込んだ調査員たちに、警備員たちが昨晩のことを説明した。
「こんなことが……」「しかし……」説明を聞いても、彼らの頭は理解を拒んだ。
「つまり、こういうことでしょう」勇敢にもひとりの男が、死体の上にかがみこんだ。「空間の歪みによって生じたあの『割れ目』は、こちらの次元と別の次元とを繋げてしまっている。『これ』はその次元からこちらへやってきたのです。余りにも突拍子のない話ですが、そう信じるほかありません」
 男の説を聞いた人々の反応は様々だった。信じられないとばかりに首を振る者もいれば、覚悟を決めたかのように大きく頷いた者もいた。
「しかし、どうやって殺したんですか」死体を調べながら、男は聞いた。
「あ、警備員が殺したわけではありません」報告はしっかりと上がっていた。「何でも、海から上がって来たときには、もうほとんど瀕死だったようです」
 どこか納得のいかない顔で、男は頷いた。それからゆっくりと立ち上がった。
「これで終わりではないでしょう」男は言った。「おそらく」
 海の方、きっと割れ目の方から、ざわざわとした風が吹いてきていた。

(4)

 それから。本当に何かタガが外れたかのように、「それら」は次々と、「割れ目」を通って、こちらへ侵入してくるようになった。主に夜に「それら」はきた。暗闇に乗じ、人々の隙をつくようにして、真っ暗な波間から顔を出すのだった。
 初めのうち、こちらへやってくる「それら」の数は、多くとも一週間に一体程度だった。だがその数はどんどんと増えていった。三日に一体になり、毎日一体はくるようになり、やがて一日に何体も来るようになった。
 危険を考慮し、海岸の調査テントはすべて撤去された。その代わりに海岸には、「それら」の侵入を拒むための鉄柵が建てられた。警備員たちに代わって、軍が配備されるようになった。彼らは海岸に新しく警備施設を設置した。
 そういった海岸の状況の変化は、ニュースでも大きく報じられていた。だが肝心な変化の理由、つまり「それら」の存在については、報じられなかった。何らかの情報統制がかかったのだ。一般の人々を不安にさせないための。
 だが人々もそこまで馬鹿ではなかった。海岸の警備体制の物々しさから、彼らは「これは何かあるぞ」と感じていた。SNSは様々な憶測や噂で溢れた。ネット掲示板にも、その話題についてスレッドが乱立した。
 そしてある日。そういったスレッドの一つに、ある書き込みがなされた。「自分は一か月に一回、美浜にある施設の清掃を担当している」といった文で、書き込みは始まった。
「やばい化け物が例の割れ目からどんどん入ってきてる」書き込みは続いた。「ほとんどはこっちへ来たあとで、すぐに死ぬらしい。原因は分からないけど。でも、中には生き延びる奴もいて、そういった奴らは施設の中にぶちこまれる」
「警備施設なんて名前だけだよ。実体はただの収容施設。俺は入ったことないけど、先輩たちが言うには、施設の奥はまじで監獄みたいになってて、化け物たちがそれぞれの部屋に入れられてるらしい。手術室みたいなのもあったらしいし、多分化け物の身体の仕組みとか調べてるんじゃないかって、みんなで噂してるよ」
 書き込みは多少話題になった。だがその後、書き込みの主がそれ以上何も書かなくなってしまったこともあり、全てはまた、ネットの深くへと沈んでいった。

(5)

 しばらくの間、倉敷はその場で硬直していた。
「倉敷さん」後ろから声をかけられた。「倉敷さん」
 我に返って振り返った。冷たい目が後ろから倉敷に向けられていた。
「あれは……」倉敷は声を絞り出した。「つまり……」
「説明は不要でしょう。噂はご存知のはず」男は言った。「前へお願いします」
 そこは灰色の壁に囲まれた、窓も何もない部屋だった。駅近くの喫煙スペースほどの広さしかなく、電気が点いていても、中は薄暗かった。
 部屋の中央には、手術台のようなものが置かれていた。そして「それ」は、その台の上にうつ伏せで横たわっていた。寝ているようにも見えたし、死んでいるようにも見えた。だが、その手足はしっかりと鎖で台と繋がれていた。
 男に促され、倉敷はゆっくりと、「それ」に近づいていった。
「それ」はトカゲをベースにした、キメラのような見た目をしていた。身体は全体に骨ばっていた。硬そうな毛が、背中を中心に腕や足まで覆っていた。長い尻尾が力なく台から垂れていた。毛の生えていない部分はぬるぬるとして見えた。最もおぞましく感じたのは手だった。人間の老人の手が移植されているみたいだった。
 そして「それ」は目覚めていた。二人の足音を聞きつけて、「それ」は不意に、頭を持ち上げた。それから、倉敷の方に視線を向けてきた。
 倉敷はまたそこで凍り付いた。「それ」と正面から向かい合って。その顔は余りにも不気味だった。大きな緑色の目。尖った耳。萎びた顎周り。鋭く裂けた口。
「便宜上、我々はこいつのことを『D-172』と呼んでいます」すぐ後ろで男が言った。「倉敷さんには、これがどう見えますか」
「どう……?」言葉が出てこなかった。「どうと言われても……」
「動物でしょう? 見た目は、間違いなく」
「いや、そもそも私は、こんなものを見たことが……」
「診察はできそうですか」
 倉敷は耳を疑った。「診察?」聞き返した。
「そうです」事もなげに男は続けた。「『D-172』は衰弱してきています。このままでは、あと一週間も持ちそうにありません。あなたには、できるだけ長くこれを延命させる治療法を考え、それを実行していただきたいと思っています」
「そんな……」
「近くで一番腕のいい獣医だと聞いています。色々な動物を診られているとも」
「確かに、私は獣医です」倉敷は言った。「ですが、これは私の手に負えません。こんな身体の構造も分からないものを……」
「言い直しましょう」男の声は平坦だった。「これは『依頼』ではありません」
 倉敷は無言で男を振り返った。防護服の向こう側に、権力が立っていた。
 それから、倉敷は視線を戻した。「それ」はまだ、倉敷のことを見ていた。どこか興味深げに。まるで「それ」もまた、倉敷を観察しているかのようだった。
 何かが映り込み、緑色の目が鈍く光った。

(6)

 恐る恐る、倉敷は「それ」の近くまで歩いていった。
「心配しないでください」男は部屋の壁にもたれかかっていた。「そいつは大人しい個体です。それに、何かあるようなら、私は後ろにいますから」
 大きく唾を飲みこんだあと、ついに倉敷は「それ」に触れた。
「それ」の肌は、倉敷が想像したよりも固かった。「それ」はやせ細っていた。倉敷はそっとその肌を撫でた。掌の下で「それ」はかすかに震えた。
 いくら大人しくても、得体の知れないものを触っているという抵抗感は、しばらく倉敷の中に残っていた。だが次第にそれも薄れていった。開き直ったというより、獣医としての好奇心や探究心が、それに取って代わっていったのだ。大胆になり、倉敷は「それ」の身体を調べていった。「それ」は暴れたりする素振りをまるで見せなかった。腕や尻尾を持ち上げても、反応がなかった。本当に弱っているんだ、と倉敷は思った。
 最後に、倉敷は「それ」の顔の周りを調べた。緑色の大きな目の中には、歪んだ狭い部屋と、怪しい恰好をした、ふたつの影が映り込んでいた。
 十五分ほどの触診のあと、倉敷は男の下に戻った。
「どうですか?」壁にもたれたまま、男は聞いた。
「最近のものではありませんが、左脚の、人間でいう大腿部から足首にかけた部分に、かなり複雑に骨折をした跡が残っています。たとえ繋がれていなくても、あれでは動くことはできないでしょう」
「はい」すでに知っているという感じの声。「それから?」
「他に気になったのは排泄です。尻尾を持ち上げて、その下から、白っぽいどろどろとした液体が出てるのが確認できました。もっともあれにとって、あの部分が、地球の生物における肛門にあたるのかは分かりませんが……」
「なるほど」
「それから、右の下腹部を触った感じですが、恐らく体内にガスが溜まっています。内臓の構造が分かりませんので、何とも言えませんが……。体内でどこかの臓器が破れている可能性はあります。治療の必要があるとしたら、まずは間違いなくそれでしょう」
「そうですか」男はようやく背中を壁から離した。「それで?」
「ここでは難しいです」倉敷は部屋を見回した。「特に、体内のガスに関しては、手術が必要でしょう。私の病院まで運べば、あるいは……」
「いや、それは」男はそこで、突然、言葉を切った。
 施設全体に警報らしき音が鳴り響いていた。
 音を聞いて、男は天井を見上げた。明らかに何かに焦っている様子だった。それから、少し逡巡する様子を見せた。その後で、「私は少し離れます」と男は言った。「決してここを動かないでください。『D-157』にも、近づかないように」
 そう言うと、男は部屋を飛び出していった。
 そして倉敷は部屋に取り残された。

(7)

 警報は続いていた。慌ただしい足音があちこちから聞こえた。
 しばらくの間、倉敷はただ馬鹿みたいに、そこに突っ立っていた。自分がどんな状況に置かれているか、よく理解していなかった。それから不意に彼は気づいた。自分が狭い部屋の中に、「それ」とたった二人きりでいるという事実に。
 そして背後から、ゆらりと揺れる気配を感じた。
 圧倒的な恐怖が倉敷にのしかかってきた。彼はゆっくりと振り返った。
 男がいる間、ずっとうつ伏せのままだった「それ」は、今や台の上で身体を起こしていた。緑色の目はふたつとも、倉敷をその中に捕らえていた。
 それから。「それ」はゆっくりと、その口を開いた。口の中には、びっしりと生えた歯、数えきれないほどの触手、二枚の赤黒い舌があった。
「タ……」「それ」は声を発した。「タ……、タ……」
 後ずさる倉敷の足がもつれた。
「タ……、タス……、タス ケ  テ……」
 倉敷はついに後ろに転んだ。
「タス ケテ……」「それ」の声は甲高かった。「タ ス ケテ!」「タスケ テ!」「タス ケ テ!」「タスケテ……!」
 倉敷はもう何も考えることができなかった。
「タスケテ」「それ」は続けた。「デマス ココ デタイ ワタシタチ デタイ」
 倉敷は無意識に首を振っていた。
「ワタシ ハナシマス デスカラ カレラ ワタシ ベンリ カレラ キキタイ アチラ デスカラ ワタシ イタイ イツモ イタイ」
 倉敷はただ「それ」の声を聞いていた。
「イタイ ソレカラ ワタシ ハナシマス デモ キライ ワタシ イキタイ デスカラ キマシタ コチラ キマシタ イキタイ デスカラ キマシタ」
 倉敷の頭は理解を拒んでいた。
「アチラ ワルイ アチラ ヒドイ アチラ アブナイ デスカラ ワタシタチ ニゲマシタ ワタシタチ コチラ ニゲマシタ ダケ ダケ ソレダケデス ホカノ ナニモ アリマセン ワタシタチ イキタイ デスカラ キマシタ」
 壁に手をついて、倉敷は何とか立ち上がった。
「オネガイ ワタシ イキタイ ナニモ シマセン イキタイ ダケ コチラ イキタイ オネガイ タスケテ ワタシ イキタイ タスケテ……」
 倉敷はまた静かに、今度は意識して、かぶりを振った。
「オネガイ」「それ」は続けた。「オネガイ……、タスケテ……」
 壁に身体を預けたまま、倉敷はただ呆然としていた。

(8)

 しばらくすると警報も止み、男が部屋に戻ってきた。
「すみません」男は言った。「お待たせしました。もう問題ありません。行きましょう。終わりで大丈夫です。また出口までご案内します」
「はい」倉敷は頷いた。「わかりました」
「それ」は再び台の上でうつぶせになっていた。目も閉じていた。寝ているのか死んでいるのか、よく分からなかった。だが少なくとも、意思があるようには見えなかった。
 何かを引きずるような音を立てて、部屋のドアは閉まった。
 来た道をそのまま、二人は戻っていった。どちらも何も話さなかった。
「あの」沈黙を破ったのは倉敷だった。「あれの、治療はどうしますか」
 前を歩く男は振り返らず、何の反応も見せなかった。
「あの」倉敷は再び話しかけた。
「そうですね」男はようやく答えた。だが振り返らなかった。「手術などまでしていただく必要はありません。あれをここから出すのは、ちょっと良くないですから。このままにしておきましょう。今日はご足労をおかけしました」
「でも」倉敷は声で男を追いかけた。「あれはあのままだともうすぐ死にますよ」
「そうですね」男は最後まで振り返らなかった。「きっとそうでしょう」
 それから、倉敷は黙り込み、しばらく何かを考えていた。
「そうですか」倉敷は呟くように言った。「わかりました」
 大きな呻き声がまた、施設のどこかから二人を追いかけてきた。

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