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【ボイトレ】「うたうこと」について読み解いてみた Part17【「第4章 解剖と生理」p61 25行〜p66 2行】『第3部 呼吸器官』その6

本ブログは以下の2冊について取り扱い、私の理解をシェアするものです。
・1冊目
フレデリック・フースラー、イヴォンヌ・ロッド・マーリング著
須永義雄、大熊文子訳
『うたうこと 発声器官の肉体的特質 歌声のひみつを解くかぎ』
・2冊目
移川澄也著
『Singing/Singen/うたうこと F・フースラーは「歌声」を’どの様に’書いているか』
お手元にこれらの本があると、よりわかりやすいのではないかと思います。
今回は第4章 解剖と生理 「第3部 呼吸器官」の続き(p61_25〜)に入っていきます。


第4章 解剖と生理

今回の三行まとめはこちらです。

・「完全な呼吸技術」で使われる呼吸器官が「よく発揮する声」を保証するわけではない。

・結局のところ、呼吸に「方式」などと言うものは存在しないのである。

・機械的(方式的)にやらせようとする「呼吸法」はどんなものでも全て避けた方がよい。


第3部 呼吸器官(p45_19〜)

「呼吸法」(技術)(p61_25〜p62_28)

”「声楽発声呼吸」の本質を、最終的に完全に再獲得したならば、その歌手は、それに基づいてさらにもっと意識的に意図した操作を加えるという試みを、実際にやってみてもおそらく差し支えないだろう。”

この項は最初から理解しにくい記述から始まります。
理解しやすくするために原著英語版の記述を見てみましょう。

”If a singer eventually regains the true nature of the 'singing breath', he may then perhaps try to make out of it something that can be deliberately controlled.”
「歌い手がやがて「歌う息」の本質を取り戻したなら、それを意図的にコントロールできるものにしようとするかもしれない。」

これは理解しやすいです。
歌う時の息についての話はこれまでに長く続いてきた内容です。
’the true nature’は「本質」と翻訳されていますが、「本来の性質」と言った意味もあります。

ここまでの説明で最初の文をあらためて考えてみると、「声楽発声呼吸」という新しい言葉が突然登場するのが混乱を招いています。

ここで言いたいことはつまり以下のような内容と考えます。
「歌い手が歌うときの息の本来の性質を取り戻したなら、それを意図的にコントロールすることを試みるかもしれない。」

そうすれば、続きも『「呼吸法」というものについて何かをすることができるのは、「歌う時の息の本来の性質」を取り戻した後のこと』
と話が繋がります。

それを「第2の天性」と呼ぶのが好ましいとしていますが、これはまた謎です。
原著英語版だと’Second nature’となっており「第2の自然」と言いたいのだとも取れます。

これについてはここまでの記述とここの記述を合わせての推察になります。
「呼吸器官に意思を介在させない歌声を出す時の自然な呼吸」が望ましいと言った内容をこれまで述べてきているので、これを「第1の自然」
そして、それを取り戻した先に、そこにさらに意思を介在させていくということができるようになり、それを「第2の自然」と名付けていると考えられます。

意思を介在させるなら「自然」ではないのでは?とも考えられますが、
その続きに「それは決して本質から外れたことをすることではない」とわざわざ補足していることから、意思を介在させるけれどもあくまで自然性は損なわない、ということを強調し、意思を介在させても「自然」なのだと述べたいのだと推察できます。

さてここまでを要約しましょう。

歌声を出す時の呼吸は、呼吸器官に意思を介在させず、自然な呼吸をするのが望ましい。これを「第1の自然」(=歌い手が歌うときの息の本来の性質)とする。さらにこれが習得できると歌声を出す時の呼吸に意思を介在させることもできるようになる。これを「第2の自然」と名付ける。
これは意思を介在させるが、あくまで自然性からはずれたことをするわけではないため、「第2の自然」と名付けた。

といった内容と考えられます。

ではなぜこれまで話を進めてきた「歌を歌う時の自然な呼吸」の話だったところが、「自然さを損なわないようにしつつも、意思を介在させる」という話に広がっていくのか?

それはその続きを読んでいくとわかります。
次に述べられることは以下のような内容です。

・例えばコンサート的声楽曲などでは簡単なフレーズだけではなく、創造的(頭脳的、音楽的)なもっと高尚なフレーズを歌うために、呼吸器官の「操作」を必要とする時がある。

・特に古典的声楽の時代(17〜18世紀)の「偉大なる去勢歌手たち」はこういった呼吸器官の「操作」を行っていたに違いなく、彼らに当時要求されていた技巧的な声の使い方のためには、呼吸器官の「操作」が必要だったのだ。

・故に当時の音楽を本来の形で再現(演奏)するには、当時と同じように働くことができる発声器官が必要なのである。(例えばバッハの楽曲に対してベル・カント(当時の技法、呼吸器官の操作はその中の一つ)は欠かせない、なぜならバッハはイタリアの声楽的発声技法について学んでいて、それを前提として曲が作られているから。)

ここまで読むと、なぜフースラーが
・「歌声の時の呼吸は自然な呼吸にするべき」とした上で、
・「自然な呼吸ができたらそこに意思を介在させていく、これを「第2の自然」と呼ぶ」
と、わざわざ意識的に呼吸器官をコントロールする必要があるような話を展開したのかがわかります。
つまりは歌唱の技法としては意識的なコントロールが必要な場合も、声楽曲においてはあり得るということを述べたかったわけです。

そしてこの見出しはこう締め括られます。

まったく自然な歌い方を獲得するまで、すなわちほんとうによい歌手になってしまうまで、あせってはならない。

あくまで呼吸器官を意識的にコントロールすることは、自然な歌い方を身につけた後の話で、自然な歌い方ができる良い歌手となることが大前提となっていることを意識していく必要があります。


論争点

ここは空白の行を開けて3つの話題について取り扱われています。
順番に見ていきましょう。

 ・「完全な呼吸技術」で使われる呼吸器官が、「よく発揮する声」を保証するだろうか?否である。(p63_1〜22)

第1の話題は、発声器官と呼吸器官の関係についてです。

歌手にとって呼吸が大切で「正しい呼吸」が「良い発声」をするために必要であると言われてるが、実際のところその重要性がどこに存在するかが話題になることは稀である。
といった内容から始まります。
つまり、「なぜ正しい呼吸が良い発声に重要なのか」が議論に上がらないということを述べています。

医学専門家によると、「文明国の人間はすべて、肺その他の呼吸筋の発達が悪く、また生まれつきの素質も弱いことに悩まされている。」と述べているとあります。
これについては納得感があるかと思います。
現代人は過去の原始的な生活を送っていた人類に比べて、体の様々な器官が弱い状態になってしまっているというのはさまざまな場所で目にする主張です。
過去の人々に比べて現代人は文明的に進んだ分、人間の体を使って何かをするという機会が減っているのは間違いなく、呼吸筋についてもその影響をしっかり受けているということですね。

そういう状況だから「呼吸学校」、つまり呼吸について教える場が生まれたのだと述べられます。
そしてその学校ではなによりも第1に空気を吸い込む能力を拡大し、それを「完全な呼吸技術」として教えるようです。
ただし、そのように特別に扱われた呼吸器官が、よく機能を発揮する声を保証するかというと、その答えは否だと断じられます。
なぜなら、もしそれが実現するなら呼吸学校の教師たちは若干の努力で「卓越した歌手になっている」はずですが、実際はそうなっていないからです。

呼吸器官と喉頭器官は最初から二つで一つであることを考慮すると、歌手にとって呼吸の訓練となるものは喉頭器官も一緒に参加した練習の時だけ、すなわち発声しながら練習した時にだけ成果が出るとフースラーは述べます。

ここまで「うたうこと」でフースラーが述べてきた内容とも辻褄が合い、一貫性のある主張です。
「発声器官」はそれ自体が一体となって働いている時でなければ訓練されない……わかりやすく例えるならば「サッカーを上手くなる」という目的に対して体の下半身の筋肉を鍛えることだけを行っていてもサッカーは上手くなれないということと同じと言えます。
(厳密には適切な例えではないかもしれません。あくまで一例として受け取ってください。)


  ・結局のところ、何よりもまず、呼吸には「方式」などというものはあり得ないのである。(p63_23〜p66_1)

第2の話題は他の話題と比べて多くの文が書かれています。
結論ここで述べているフースラーの意見としては見出しの内容、p64_12の「結局のところ、何よりもまず、呼吸には「方式」などというものはあり得ないのである。」が主要な内容になります。

では内容を以下に解説していきます。

音声学者や医師、体育家によって呼吸の状態の調査が行われる時はほとんど吸気についてしか問題にされず、「吸気の方法」として「腹式呼吸」「胸式呼吸」「側腹呼吸」などの「型」が作られます。
しかし様々な研究が行われている中で、どんな「型」が正しく、どんな「型」が誤りであるということについては、意見が一致したことはないと述べられます。

しかしフースラーはこのような「形式学」は次のような問題を考慮せずに過ごしてしまうとします。
それはどのような問題か、「これらの形はすべて、次の原因によって生じるにすぎない」ということです。

では次の原因はなにか?
それは呼吸の時に、呼吸器官のどこかの部分が全く協力しない、あるいは不十分にしか協力しない、あるいは反対に一部が働きすぎること。
これが原因であると読むことができます。

話が入れ子構造になっていてややこしいですが、つまりどういうことか。
まとめると以下のような内容になります。

『呼吸の方法についてよく話題に上がるのは「吸気の方法」だけであり、吸気の仕方について様々な「型」の良し悪しが議論されているが、その良し悪しの前に大事な問題があることを見落としている。それは「どんな型であれ、呼吸器官の一部の働きが悪かったり、逆に働きすぎている状態なのだ」ということだ。』

例えば「肩甲骨呼吸」、これは誰しもが「良くない」と認識している「型」で、本来の呼吸器官の外にある筋肉を使ってまで努力している状態です。
これとおなじように、どのような「型」を並べ立てようとも、それは「呼吸器官全体の一部のみに偏った使い方」となっていることを考慮すると、その中に「本質的に正しいやり方だ」といえるものはないのだとフースラーは述べます。

呼吸という動作一つとっても、多くの筋肉や器官が関わっており、それらが一体となって初めて理想的な動作となります。
ここでもフースラーは一貫して「一体となる」「統一体となる」ことが重要であると述べ、一部分が過度に強調されるということはこの「統一」からの逸脱となるとします。

ここまでの記述から、全てが一体となって協力しあった時に「正しい呼吸」になるのだから、どこか一つの器官が過剰に働いたり、何かの筋肉があまり使われなかったりする状態になっている「型」「方式」というものは「正しい呼吸」にはならないであろうというのがフースラーの主張であるとわかります。

生理学者の方々も、普通の人の呼吸を「自然な呼吸」、歌手たちが歌う時の呼吸を「技術的な呼吸」と述べる場合があるとフースラーは述べており、これも先ほどの「型」と同様に分類分けしている状態になります。
注意点として生理学者の方々の言う「普通の人」の「自然な呼吸」はフースラーの述べる「自然」「生理学的に正しい」とは違うものです。
「普通の人」の「自然な呼吸」は、現代の文明的な生活に生きる現代人、つまり様々な肉体の機能が衰えている状態にある人を「普通の人」と言っているわけですから、本来の肉体の機能が発揮されている状態ではないのです。
フースラーの述べる「自然な」は、肉体が本来の機能を発揮している状態を指していますから、混同しないように注意が必要かと思います。

20行目からは文の前後やどこに繋がっているかが若干わかりにくいです。
掛かっている文がわかりやすいように文の前後を入れ替えつつ、p64_20〜p65_14までを説明します。

①昔からある所謂「胸式呼吸」は呼吸器官や全身を「痙攣(緊張)」させる方法であると、その正体がわかってきた。
②それゆえに今は多くの専門家がそれを理解し、今度は「深い呼吸」に賛成している。この「深い呼吸」は「痙攣(緊張)」を解いて「弛緩」し、横隔膜に神経を使って体に良く空気が行き渡る「新しい進路(やり方)」である。
③ただし、このやり方も緊張を除去する療法として効果はあるかもしれないが、それは「本当の呼吸」ではない。
④このやり方では、「お腹がたるんだ状態」、所謂「太鼓腹」になるが、自由な自然生活をしている原始民族はこういったお腹の状態にならないことを考慮すると、やはり「太鼓腹」も「技術的に習得したもの」=「型」であって自然な呼吸ではないのだから、それを続けることは良くない。(特に歌手にとっては)
⑤また、若い人にも見られる「胴回りが細いこと」は、所謂間違った「胸式呼吸」をしているのではなく、むしろ呼吸器官の重要な機能が絶えず自動的に働いていることの表れであるから、普段やっている以上に空気を吸い込むようにそそのかしたりしてはいけない。

つまり、端的にまとめると
・胸式呼吸に代わる新しいやり方として「深い呼吸」という「型」が支持されるようになった。
・そのやり方は確かに緊張を解くけれども、結局自然な生活をしている人たちがそういった呼吸をしないように、「技術的に獲得」した「型」である。
(呼吸に型、方式などというものはあり得ないので、良いものではないということになります。)
といった内容が述べられています。

p65_15〜は次の話題に話が移ります。
こちらも先ほどと同様に解説していきます。

①呼吸の問題に関する科学が如何に不確かであるかというのは、「規則正しい呼吸のリズムは決して生まれ持っている能力ではない」といった空論が生まれていることからも分かる。(この空論から「不確か」と言っているように、フースラーはこれに疑問を感じていると言うことがわかる。)
②この結論は呼吸治療医の実務から生まれたもの、そして彼らは呼吸障害患者ばかり診ている。
③であれば、本来「生まれつき素質」として「呼吸のリズム」を持っており、正常な人でさえもそれが上手く働かなくなっているのだと言えるのではないか?
④確かに研究によって「正しい呼吸のリズム」は「練習」できるものだとわかっているけれども、実際にそのような「練習」で身につけたものを続けることに耐えられる者はいないのではないか?
⑤なぜ耐えられないと思うのか、それは「深呼吸をする時に、意識に介入によって行われる場合は、自然の呼吸刺激がその意識によって妨害される危険がある。」という研究結果も同時に存在しているからだ。

やはりここでもフースラーの主張は同じで、一言で言えば「意識を介在させる方式的な呼吸は正しい呼吸ではない」ということ。
「生まれつき呼吸のリズムを持っていない」のではなく、「生まれつき持っている呼吸のリズムが現代の正常人では上手く働かなくなっていて隠されている」のではないかといった内容です。


  ・ヨガの指導者の写真について(図54)

「最高の成果を引き出し得る姿勢に保たれ、良い呼吸法を行なっている肉体はこのように見える」

これも邦訳のままでは混乱しやすいです。
呼吸の「方式」「型」はあり得ないと断じているフースラーが「良い呼吸法」という表現を用いているとは考えにくいことを考慮すると、「良い呼吸のやり方」くらいの読み方をするべきです。
わざわざなぜ指摘するのか、それは「フースラーの記述的には「呼吸法」なるものを否定している」のに、こういった表現から「フースラーの呼吸法」という表現が現場で用いられる可能性があるためです。

正しい呼吸、生理学的に正しい呼吸、良い呼吸、望ましい呼吸といった考え方はしても、それは「いわゆる呼吸法というものではない」という認識が必要だとフースラーの記述を読んだ上で私は考えています。

・現代人、文明人が行なっている「普通の呼吸」は「フースラーの述べる正しい呼吸」ではないこと。
・なぜなら現代人、文明人の呼吸器官は衰えてしまっており、体に本来備わっているはずの正しい体の使い方ができていないのに対し、「フースラーの述べる正しい呼吸」は、体が本来備わっている機能を発揮して正しい体の使い方をしている時のことを指しているためである。
・正しい体の使い方をしている状態の呼吸に「方式」や「型」といったものは存在しないのである。

これまでの記述からフースラーの主張を考察していくと、こういったことを述べていると私は読み解いています。
ですから、この図で「よい呼吸法」という言葉が用いられること自体がおかしいのです。
それは「生理学的に正しい呼吸器官の使い方をしているよい呼吸のやり方」と認識されなければいけない言葉だと捉えており、「呼吸法」と言う言葉を用いてしまっては、また体の何かしらの筋肉や器官に注目した「型」というものに変換され、新たな誤解を生んでしまうと考えるからです。

そしてこの写真では吸気の状態か呼気の状態か判別はできませんが、やはり側腹が膨らんでいたり、おなかが弛んでいたり、胴体が膨らみっぱなしになっているといった状態になっていないということが見て取れます。

さらにこの写真は次の話題にも関わってきます。



  ・横隔膜は訓練できないのではなく、意識的に行うものではないということ。(p66_2〜25)

この話題はまず、機械論者(すなわち呼吸体操教師と考えられます)を指して述べている内容から始まります。

それは「ヨガの王者の風格ある呼吸の仕方」を自分たち、すなわち呼吸体操教師たちの証拠として引き合いに出すのをやめていただきたいと言う主張です。
なぜならその呼吸の仕方は機械的に取り扱われているのではなく、「超越的な観念のもとに行われる」のだと説明されます。

どのような考え方なのか、それは「プラーナ」という言葉があり、サンスクリット語で呼吸、息吹などを指す言葉で、生き物の生命力そのものとされています。
それは集中、没頭、特別な心的な能力、あるいは霊的な能力の発達のための補助手段として使用されるもので、そこには宗教的な信念がある故に、西洋人には難しいのだとフースラーは述べます。

そしてもう一つ、生理学者は横隔膜は横隔膜は訓練できないと述べますが、実際のところ横隔膜を直接意識的に訓練するのではないと述べられます。
横隔膜の練習は間接的なもの、つまり歌っている最中の方が上手くできるのです。
さらに横隔膜の収縮は十分強く行われれば胸郭の下縁に生じる緊張感によって感じ取ることができ、これによってコントロールすることができるとフースラーは述べます。

しかし、ここから先が、訓練上でより重要な話を展開します。
それは他の何物よりも、横隔膜の働きは出された声の音色からはっきり聞き出すことができるということです。
つまり、ここでも「聞き分ける」ということにつながる訳ですね。

「感じることも見ることも触れることもできない」点で喉頭器官、のどの器官と同じであり、発声訓練上では「聞き分ける」ことが重要であるということがここの主張からもわかります。


歌手が呼吸に関して無条件に銘記すべき原則(p66_26〜p68_2)

長く続いた第4章第3部、呼吸器官についての記述もここで最後です。
これまでのフースラーの主張のまとめと、それに今後の内容も含めたプラスアルファした物と言える内容がここにあります。

1.まず、機械的(方式的)にやらせようとする「呼吸法」はどんなものでも全て避けた方がよい。たいていのものは反自然的なことをやらせようとしているから。

2.声を出そうとする時、空気をいっぱいに吸い込んではいけない、そうしたところで息が長くなるわけでもなく、声が強くもならず、良く通るようにもならない。

3.発声に際して習慣的に息をたくさん吸い込みすぎ、それをしっかりもっており、使わずに貯めておこうとする人は、遅かれ早かれ結局は呼吸器官を弱め、それに伴って喉もよわくなってしまうだろう。

4.次の区別を学ぶこと。呼吸器官の働きは謳う際には極度に徹底的な物でなければならないけれども、息の使用量は極端に少なくしなければならない。(大ベルカント歌手マッティア・バッティステーニ曰く、「私は歌うためには花の香りを嗅ぐ程度にしか息を吸わない」)

5.すなわち、呼吸器官と息、このふたつははっきり区別しなければならないものなのである。「呼気並びに呼気の圧力が発声の際の駆動力である」と言う見解は新しい科学的な研究によって否定された。声楽発声機構は管楽器と同じではないのである。
「声帯は呼気流とは無関係に振動し得る」と言う方がむしろ正しい。したがって、フレーズの終わりに爆発的な雑音を伴うようなことがあればそれは誤った出し方、声楽的でない出し方であるに違いない。

→「声帯は呼気流とは無関係に振動し得る」これについては第6章「声帯の自発振動」にて触れられますので、ここでは「そういうことがあり得る」と認識する程度で読み進めると良いと考えます。

6.何よりもまず息を吸おうという意識を持たないこと。何よりもまず第1に正しく呼気することを心がけよ。そうすれば信頼するべき法則「筋緊張性呼吸調整」に従ってほぼ確実に自動的に吸気が行われる。呼気運動についてはp47〜49に書いてある。

7.よく機能を発揮している喉頭は、かなり高い程度にまで呼吸を調節し、訓練する物だと言うことも考えよ。だから、声は常に良い「アンザッツ」(プレーシング=当て方)をしなければならない(アンザッツについてはp89を参照)。
→これについては第8章「アンザッツ」で触れられますので、またその時に詳細を説明いたします。

8.声を出さない呼吸練習は限定された価値しかないから、それにあまり多くの時間を空費してはならない.

9.時と共に体の形を良くする代わりに、かえって体を醜くするような声楽発声呼吸は、無条件に誤りであるとしてよい。(例えば慢性的に出た腹、曲がった背骨)

さて、呼吸器官にこれだけの項を割いていることからも、フースラーが「呼吸」について言いたいことが多かったということが良くわかります。
ただし勘違いしてはいけない点として「項を割いている分、フースラーは呼吸を重視しているのだ!」ということになるかというと、確かに重視している、あるいは軽視していないのですが、そう事は単純ではないということ。

フースラーは呼吸についてさまざまな型や指導が溢れかえっている現状に対して「生理学的に正しい良い呼吸ができていればいい」「呼吸に特別な型や方式など存在しない」といった主張をしています。
実際に「フースラー流呼吸法」などといった「型」を作って云々しろと言っている文は一文もありませんでした。
だからと言って呼吸を軽視しているわけではありません。
問題は一般の方々が、「フースラーの考える生理的に正しい正常な呼吸」すらできない状態になっていることであると推察できます。

項がたくさん割かれているその理由は単純で、それだけさまざまな分野……例えば医者の方々、研究者、生理学者、あるいは呼吸体操教師、そしてもちろんおそらく当時の発声指導教師も含めて、「呼吸に対する注目度が非常に高かった」ということがたくさんの項を割く必要があった理由と考えられます。

各方面からたくさんの主張が集まれば集まるほど、あっちはこう言う、こっちはこう言う……たくさんの議論が交わされますし、さまざまな派閥が生まれます。
実際に呼吸法と呼ばれるものもたくさんあり、フースラーはそれらの名前を挙げていました。
フースラーはそれらに対して主張する形をとっているわけですから、述べたい結論はごく単純でも、それを述べるにあたって説明しなければならない事は多くなりますから、必然的にたくさんの項が割かれているのだと私は考えます。



さて、非常に長くなってしまいましたが、これで第4章第3部「呼吸器官」の内容が終わりとなります。

次回は第5章「唇ー舌ー口蓋ー口蓋垂について」に入っていきますので、よろしくお願いいたします。


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