🥇さま 32 サラエボ

124、タマネギを使った湿布を看護担当は作ったりしていた。

125、チトーは地域の連隊長ミロヴァンを使い残ったパルチザンの部隊を召集した。そしてドイツ軍と直接対決するために、より強力で専門的な部隊を再編制するために、貧弱なパルチザンと思ったグループを解散させて優秀な軍隊に武器を供出するように命令した。

126、ユダヤ教徒とイスラム教徒はアブラハムの子孫のため仲がいい。水面下で沢山イスラム教徒が助けていた。

127、レイラという名前はコーランに使われているアラビア語でも、トーラに使われているヘブライ語でも『夜』という意味になる。

128、サラエボ人でも表向きはウスタシャ側に付いているフリのスパイが暗躍していた。

129、ヒトラーはユダヤ人が一人残らずこの世から消えたあとで、ユダヤに関する貴重なものを展示する絶滅民族の博物館を作るという噂が流れていた。

130、ヨーロッパで1501年以前に活版印刷された書物を『揺籃期本』と言う。

131、揺籃期本は、エリア・ミズラヒの数学の教本と1488年にナポリで発行されたヘブライ、
アラビア、ラテン語の稀少な用語集と、ヴェネツィアで印刷されたタルムードとかがある。

1996年ウィーン

132、ウスバシロチョウ、学名パルナシウスの学名のパルナシウスとはギリシャ神話の太陽神アポロンが住むパルナソス山にちなんだ名前である。

133、優秀な古書鑑定家は伝統的な技術を持っていたりして本物そっくりの複製本を作らせたりすることが出来る。

134、1938年3月に撮られたヘルデンプラツツ(英雄広場)の有名な写真がある。自身の生まれた国が第三帝国に併合されたことを宣言するヒトラーに声援を送って独裁者の姿を一目見ようと巨大な騎馬像に上がっている者もいた。

Googleのライセンス可能画像です

↑翻訳機使ってください。

135、没食子とはブナ科の植物の若芽に昆虫かわ寄生することで出来る瘤のことであり、強い臭いがする。

136、1894年、ウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国の首都で当時ボスニアはハプスブルク王朝に占領されてはいたが、1908年まではオーストリア=ハンガリー帝国に併合されてはいなかった。更に、ハプスブルク王朝による占領はスラブの民族主義者の反感を買っていた。

137、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボでハプスブルク王朝の皇太子を撃った学生は1894年サラエボ・ハガダーがウィーンにやってきた年に生まれた。

138、ウィーンジミンを理解したければアルトゥル・シュニッツラーは必須本だと著者は思っているらしい。シュニッツラーはユーデンフレッサーズの高まりを題材にした作品を数多く出しており、ユーデンフレッサーズとはユダヤ人を食いものにする連中という意味である。シュニッツラーが幼い頃はまだ反ユダヤ主義という言葉はなかったからユーデンフレッサーズと書いているらしい。もちろんシュニッツラーはユダヤ人である。

139、シュニッツラーの中でも著者のイチオシは『ウィーンの青春』という本らしい。(この著作ジェラルディン・ブルックスはピューリッツァー賞受賞者の博識人である。)

140、シュニッツラーの『ウィーンの青春』にシュニッツラーはいわゆるユダヤ問題について書き過ぎているのを弁解している。と同時に、どれほど同化しても、出自を忘れられるユダヤ人はいないとも言っている。(この著作ジェラルディン・ブルックスはピューリッツァー賞受賞者の博識人である。)

141、シュニッツラーのウィーンの青春に『自分の全てを律して、何ひとつ顔に出さないようにしたとしても、影響を全く受けずにいることは不可能だ。例えば、皮膚に麻酔をしたとしても、不潔なメスが皮膚に食い込み、そこから血が出るのを目を見開いて見ていなければならない者が平静ではいられないように』という部分が著者にとって大事な部分らしい。(この著作ジェラルディン・ブルックスはピューリッツァー賞受賞者の博識人である。)

143、第二次世界大戦時中は損傷が酷い装丁こそ多くの事柄を物語るという認識はなかった。このことを知っていた博識人は古書を守る為に宗教戦争の犠牲になりそうな古書を守る為に敢えて古い装丁を剥がして捨てたりしていたことがあったらしく他にもそんな書物が沢山あるらしい。

144、ナチス側に付いているフリのスパイが暗躍して沢山のユダヤ人を水面下で助けていたが、そういったスパイは博識人の人が多く、共産主義政府にとってナチスの協力者という濡れ衣を着せるのは賢すぎる人や信仰に熱心な人、はっきりとものを言い過ぎる人を排除する格好の手段で、共産党から糾弾されたりもした。(著者の空想上のストーリーの可能性があるので、きちんと知りたければ各自調べてください。)

145、ウィーンで、『K・u・K』の押印されたものがあるが、『K・u・K』とは皇帝および国王の略の意味であり、ハプスブルク家はオーストリアで『皇帝』の称号を、ハンガリーで『国王』の称号を持っていた。

146、セファルディ系(スペイン、ポルトガル、北アフリカ系のユダヤ人)のユダヤ人が運営する小学校があった。(今は知らない、また著者の空想上のストーリーかもしれない)


🥇さま〜

こちらの記事読みましたか〜(⌒▽⌒)?

https://www.timesofisrael.com/abbas-ashkenazi-jews-are-not-semites-hitler-killed-them-for-their-social-role/

Between the World Wars
Although both the 1917 Balfour Declaration and the terms of the League of Nations British Mandate of Palestine called for a national home for the Jewish people in Palestine, the British did not accept any linkage between Palestine and the situation of European Jews. After the Nuremberg Laws of 1935 many German Jews sought refuge abroad, and by the end of 1939 some 80,000 had been given refuge in Great Britain itself.[8]

 

Britain also attended the international Évian Conference in 1938 on the issue of providing for refugees from Germany. Palestine was not discussed as a refuge because it might worsen the ongoing Arab revolt; Zionists naturally hoped that Palestine would be the principal destination for all such refugees.

Background

Between the World Wars  by Wikipedia

とりあえず、Background Between the World Warsを読んでください(´・ω・`)


The ship, known as the President Warfield, was purchased secretly in Baltimore by Haganah operatives in 1946 for $40,000. It had been used for pleasure cruises by the Baltimore Steam Packet Company from 1928 until 1942 before being requisitioned by the U.S. Navy for operations in World War II. After the war, it was sold for scrap.

The Haganah, which had been using smaller ships for their clandestine Jewish immigration, decided it needed a larger ship to start moving thousands of refugees. The ship was 330 feet long with a capacity of roughly 500 passengers. It was renamed the Exodus 1947 at the suggestion of Moshe Sneh, who at the time headed illegal immigration for the Jewish Agency.

The initial crew of more than 40 men consisted mostly of American Jews with no sailing experience in boarded the ship in Baltimore. They were later joined by members of the Haganah and Palmach commanded by Aliya Bet veteran Yossi Harel. Yitzhak “Ike” Aronovitz, a 23-year-old sailor, originally from Danzig, was the captain.

Immigration to Israel: “Exodus 1947” Illegal Immigration Ship

(July 1947)

サラエボにいるドイツ系ユダヤ人が『パレスチナ・イスラエルに行きたい🥹💓あそここそが僕たちのユダヤ🥹💓🙏』って盛り上がって貨物船でパレスチナに引っ越して行った若者が沢山いたのだけど、この話をしていたのかなと思った。

この記事が参加している募集

#読書感想文

192,370件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?