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マティスとモデルを務めた女性たち マティス展後期③ 妻アメリーの苦しみ

現在、上野東京都美術館で大回顧展開催中のマティス。

前回までの記事では、マティス展で印象的だった作品や、光や色、快適さをもとめ鮮やかな作品を生み出していったマティスの生涯について紹介しました。

当初はそれで終わりにしようと思っていたのですが、記事を書くためにいろいろ調べている中で、複数の女性たちがマティスの芸術家としての在り方に重要な役割を果たしていたことが見え、とても興味深くて…。
せっかくなので、助手やモデルを務めたマティスの周囲の女性たちを、2度に分けてご紹介したいと思います。

【前回までの記事はこちら】
(なお、①の記事についてnoteから「先週特にスキを集めた#アートの記事です!」というお知らせをいただきました。読んでくださった皆さま、ありがとうございます^ ^)

マティスの画家としての生涯

まずはマティスの画家としての生涯をおさらいしましょう。

アンリ・マティス(Henri Matisse)は1869年の大晦日、フランスのル・カトー=カンブレジの裕福な家庭に生まれました。当初は法律家を志し、パリで学びますが、法律事務所に勤めていた21歳のとき、虫垂炎をこじらせ1年間の療養生活を送ります。このとき母から贈られた絵の具で絵を描いたことが転機となり、芸術の道へと進むのです。

その後、ギュスタヴ・モローに師事し、セザンヌ、シニャック、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソなどの影響を受けながら、野獣派(Fauvism)と呼ばれる作品を生み出します。二つの大戦の合間に、オリエントの美術や、アルジェリア、モロッコ、タヒチ、ニューヨークなどの光に刺激を得、絵画や彫刻作品を通して表現を追究しつづけ、のちに「色彩の魔術師」と呼ばれるように。

72歳で大手術を受けた後は、介護なしでは生活もままならないようになりますが、制作の中心を切り紙絵に移行し活動をつづけます。そして、マティスは集大成とも言えるヴァンスのロザリオ礼拝堂を完成させた後、1954年に84歳でこの世を去りました。

結婚するも、経済的困窮に苦しむ

一方、マティスの私生活はどのようなものだったのでしょうか。

マティスは、聴講生として美術学校に通っていた1893年から、ロリーヌ・ジョブローという若い女性と同棲し、翌94年には長女マルグリットをもうけました。
しかしこの女性と結ばれることはなく、1898年に29歳でアメリー・パレルと結婚します。ふたりの間に産まれた長男ジャンと次男ピエール、そして後にマルグリットを引き取って、5人で暮らしていくのです。

パリの美術学校に通っていた頃は父親の仕送りで生活していましたが、マティスが31歳となった1900年には送金を止めると脅され、マティス一家は経済的困窮に陥ります。
この頃のマティスは、サロンへの出展を拒否され、模写の売れ行きも伸びず、セーヌ県庁の「貧者の権利管轄官」の職に応募するも失敗…というありさまでした。後に「何かきっかけがあったら絵をやめていたと思う」と述懐したほどです。

マティスの生活がいつ頃から安定したのかは定かてはありませんが、1905年にサロン・デ・ザンデパンダンに出品した『豪奢、静寂、逸楽』が一つの転機となったのは確かでしょう。これがフォーヴィスム作品として議論を巻き起こしたのです。

この後、1908年にアカデミー・マティスを開講、1909年ロシア人収集家セルゲイ・イワノヴィッチ・シチューキンからの『ダンス』の制作依頼、1910年回顧展開催、とつづき、次第にマティスの表現が評価されるようになりました。

リディアの登場と妻アメリーの苦しみ

アメリーは、母として妻として、そしてマネージャーとして生活面でも仕事面でもマティスを献身的に支え、作品のモデルとしてもしばしば登場してきました。

しかし、マティスを支えたモデルは彼女だけではありません。娘マルグリットもモデルとなった他、ニース時代と言われる1920年代には、画家で音楽家のアンリエット・ダリカレールが「オダリスク」シリーズに登場。1930年代にはロシア人助手リディア・デレクトルスカヤがモデルとしても重用されるようになります。

このリディアという女性は、当初は『ダンス』制作のために雇用された短期のアシスタントに過ぎませんでした。しかしその能力の高さが見込まれ、1933年に『ダンス』が完成した後も引き続きマティスのもとで働くことになるのです。

意外なことに、このとき雇用の継続を決めたのは、マティスではなく妻アメリーのほうでした。
アメリーは生活全般においてマティスを支えてきましたが、第一次世界大戦前後から精神面に不調があったと言われています。彼女は、知的で真面目なリディアが、自分の仕事を助けてくれると考えたのでしょう。

一方マティスは当初、40近く歳の離れた娘に関心を示すことはありませんでした。それまでマティスが好んで描いたエキゾチックな顔立ちの女性たちと比べ(妻アメリーもそのひとりでした)、ブロンドに青い瞳のリディアはあまりにタイプが違ったのです。

ところがある日、リディアが腕に頭をもたげている姿を見たマティスは「動くな!」と叫び彼女を描き始めます。リディアがマティスに、モデルとして見出された瞬間でした。
そして同じ頃妻アメリーが体を壊すと、それをきっかけにリディアはアトリエの切り盛りを一手に担うようになるのです。

1937年に入院したマティスは、翌年からホテル=レジーナに居を移しアトリエを構えました。
しかしそこに妻の姿はなく、この後亡くなるまでマティスを支えたのはリディアでした。

アメリーにとって、自分が担いきれなかったマティスの「妻」としての役割を、リディアがこなしている姿を見るのは苦しかったことでしょう。
フランスでは今でも離婚は難しいそうですが…カトリックも多く世間の目も厳しい時代に、アメリーはマティスと別れることを決意したのです。

1939年、マティスが離婚に合意。これ以後ふたりが会うことはなかったと言われています。

その後のふたり

その後、第二次世界大戦中の1941年、マティスは緊急搬送され、リヨンで腸の手術を受けました。
奇跡的な生還を遂げたマティスが切り紙絵という新たな道を進む頃、妻アメリーと娘マルグリットは、対ナチス・ドイツ抵抗運動に加わった廉でドイツ軍に逮捕されてしまいます。

この知らせはマティスにも届き彼を愕然とさせましたが、なす術もなく…
アメリーは6ヶ月の懲役、マルグリットは拷問を受けた末、ようやくのことで収容所を脱出したと言われています。

アメリーが次に登場するのは1954年のマティスの葬儀で、その後、彼女がどのように生涯を終えたのかはわかりませんでした。

長年の苦労と献身の末に夫と別れたアメリー。
しかしマティスは、アメリーに「リディアか自分、どちらを選ぶか」と問われた際にはアメリーを選んでおり、また、リディアや他のモデルたちともプラトニックな関係だったと言われています。

でも、だからこそアメリーは、自分が芸術家の妻としてマティスを支えきれないことに苦しみ、別れずにはいられなかったのではないでしょうか。

アメリーもまた、マティスの絵を愛し、彼を支えたひとりだったと思うのです。

【参考】
グザヴィエ・ジラール著、高階秀爾監修、田辺希久子訳(1995)『マティス ー 色彩の交響楽』創元社

【最後の記事はこちら】
晩年にマティスのモデルを務めた女性たちをご紹介^ ^


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