曖昧で甘いわたあめのように暮らしていたかった

もう10年近く前だろうか。自分が時々、変な夢を見ることに気付いたのは。

単純に「変な夢」ならそれまでにもずっと見ていた。むしろ変な夢ばかり見ていて、「やっぱり自分は頭が少々アレなんですね」と呆れていた。

でも、その「変な夢」は、それらの夢とは違う「変」な夢だった。

年に数回だけど、その夢が遠回しに示していたことが、実際に起こる。
自分が見たことも聞いたこともないものはビジュアルとしてイメージできないらしく、たとえば行ったことのない長野の山は地元の山の風景にすりかわっているけれど、その夢が示していたとしか思えないことが、早い時で翌日、遅くても数ヵ月後には発生した。

それらはどれも、世界や誰かの運命を大きく変えるような内容ではない。自分自身が強く興味を引かれていることにほぼ限定されていた。自分が諦めていたことに、夢を見た場合は結局参加できる、というパターンが最も多く、でも夢を見た当時は何のことかまったくわからないことがほとんどだった。

元々夢はよく見る方だが、目覚めとともに忘れてしまうことも多い。時々細部まで覚えているけれど、それらの夢はたいていは「ただの変な夢」だった。しかし、「ただの変な夢」だとばかり思っていた、何故か頭にこびりついて離れなかった夢のことを、私の運命がある時点に到達した時にハッと思い出す、ということが繰り返されるようになった。

最初のうちは、ただの偶然だと思っていた。面白いこともあるものだと。でもそれが、3回、5回と続いていくうちに、さすがにちょっとおかしいと気付き始める。偶然にしては、数が多すぎる。

私は悩んだ。これは一体何なのだ。


私は「納得のいかないことをそのままにしておけない」性格である。わからないことはできる限り説明をつけて納得したい。また、占いは気にするがスピリチュアルは信じていない。霊もいるとは思っていない。

占いは統計学の側面があることと、「いい未来を信じることでその人が安定するのなら、利用できるものは利用すればいい」と基本的に思っていることと、努力だけではどうしようもないことも人生には多く、運の良し悪しは無視できない、と痛感していることから、わりと積極的に見ている。
だけど、そこに霊の仕業だの、スピリチュアル的精神論がどうだの、宇宙と繋がりましょうだのという話が混ざってくると、だいたいスルーする。占いの結果(データ)だけを淡々と受け取って、参考にするようにしている。

霊は見えないし、宇宙のエネルギーなんて感じないし、スピリチュアル的な精神論に基づいてより良い人生を送ろうと画策してもうまくいかないことも知っている。それで本人が幸せになれるならいいけれど、それを理論として広めて「こうであるべきだ」と言い出されると抵抗感しか感じない。疲れてる人や素直な人から金を巻き上げたいだけだろう、としか思わないことも多い。

ただし、この世のすべてが科学的・論理的に説明できるわけではどうやらない、ということも常に頭に置いている。そんな話は掃いて捨てるほどあるからだ。何となく直感したことがその通りだったり、示唆的な夢を見たり、という話は自分の周囲だけでも何度となく聞いている。人間に把握できることなどたかが知れているのだ。

では、自分に起こっていることは何なのか。
どう説明をつけられるのか。科学的にはどのような現象なのか。仮に論理的に説明できないことであれば、おそらく確かにいるであろう「とても勘のいい」人たちから見てどういった状況なのか。
本やネットで調べた。誰に相談したらいいのかわからず占い師に尋ねたこともあった。でも、私の納得のいく答えは得られなかった。そんなものはどこにも書かれていなかった。わけのわからない理論を唱える人が世界にはこんなにいるんだな、とわかったくらいのことだった。

答えの出せないことに、私は頭を抱えた。


3年か4年くらいだろうか、そうやって真剣に悩んでいたが、私はだんだん疲れてきた。考えてもわからず、考えるのが面倒になってきてしまったのだ。
正直、夢の内容も、結果的に起こっていることもたいして重要なことではない。私にとっては重要だが、生命や生活に関わるような話ではない。

それならもう、いいや。考えるのをやめよう。
私は開き直った。考えてもわからないなら、いっそネタとして楽しむことにしたのである。

答えを出すことをやめると、とても楽になった。夢が遠回しに示していた事態に気付くと、「こんなまわりくどいのわかんねーよ!」とゲラゲラ笑っていた。もうそれでいいと思っていた。


でも。
それは、夢じゃなかった。私は確かに目を覚ましていた。
その時に「気付いた」ことが、まさか本当に起きるなんて。それが未来のことだなんて知るはずもなく、考えるはずもない。
まったく笑えなかった。笑えないどころか、気付いても結局何もできないということに、心底絶望した。
あまりにもショックで、もうあんなこと気付きたくない、と真剣に思っている。


人間には皆、直近の未来に関する受信機が備わっていて、おそらく現代の生活にはさほど必要がないとか何とかいう理由であまり使っていないだけなのだろう。受信機は誰にでもあり、性能がいいかそれほどでもないか、だけの違いなのだろうと思う。
私の受信機も、何かの拍子に少しだけスイッチが入ってしまったのだろう。そして私はそれを使いこなせていない。使いこなすどころか受け入れられないままに、いや、一度自分なりに受け入れたのに、また受け入れられない状況に陥ってしまっている。
役にも立たない、ただ避けられない未来を見せられるだけの受信機なら、私には必要がない。私にはきっと使いこなせない。自分の場合は直感に従った方がうまくいく、と薄々気付いていても、根拠もなく地に足のつかない直感など、実際には「現実」に負けてしまう。現実に負けて、正しくなかったであろう選択を結局続けてしまっている。

ただ、「変な夢」はこのところ見ていない。できればもう、笑える夢だけにしてもらいたい。幸せな夢だけにしてもらいたい…。

何だかよくわからない話になってしまった。昔の上司が「ふわっふわしてるのは雰囲気だけで、中身はものすごく芯が強いと思う」と私を評していたことがあるけれど、あの人はよくそれに気付いたな、と思っている。たぶん、本来はふわっふわした人間なのに、様々なことがあってリアリストにならざるを得ず、私はここまで生きてきたのだろう。
人間なんて、一側面だけでは説明しきれないものですよ。

ふわっふわと、不思議なことやよく分からないことも楽しく受け入れて、深く考えず何も考えず生きていられる人間に、なりたかった。


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