朝の雨、おわかれの歌

きみがいなくなったとき、ぼくはほっとしたんだ。

きみが悪い人だったとぼくはあまり思っていない。けど、ぼくはきみとは仲良くなれないだろうと、きみとはじめて握手をしたあのときに、感じてた。差し出されたあの手を、握ろうかどうか悩んだあの日に。

そんなのは思い込みで、きみはきっといいひとだ。やっぱりぼくはそう思いたかったし、きみの笑った顔を見ていたかった。

でも、きみと握手をすると、きみの指先はナイフのようにぼくのやわらかいてのひらを突き刺した。きみはぼくの手から流れる血に気付かずに、歌を歌っている。ぼくに聞かせることに夢中で、ぼくの傷には気がつかないんだ。ぼくは歌を聞くのがつらかった。

きみは突然怒り始めて、そしていなくなった。きみの後ろ姿は少しさみしかったけど、ぼくは追わなかったし、あのさみしさも後ろ姿も、すぐに忘れた。
もうこれで、きみのてのひらで怪我もしないし、歌も聞かなくていい。きみにぼくの好きな歌を鼻で笑われることも、ぼくが好きじゃない歌を好きなふりをしてじっと聞いている必要ももうないんだ。
ぼくの世界は静かになった。ぼくはそれがとてもうれしかった。
ごめんね、でもとてもうれしかったんだ。

なのに、呼び鈴が鳴る。
窓の隙間から姿が見えた。立っていたのは、きみだった。
どうして?どうしてきみはまだぼくの家の呼び鈴を鳴らすんだい?
きみの方から、いなくなったのに。

きみの歌を好きになってくれて、きみと握手をしてもてのひらを怪我しない人と遊べばいいのに、どうしてわざわざぼくの家に来るんだい?
きみはぼくも、ぼくの歌も、ぼくのこの家も好きじゃないと叫んで、きみの方からいなくなったのに。

もうぼくはきみの歌も聞かないし、きみと握手もしない。きみの歌を聞くためにきみの家にも行かないし、いつもきみが散歩していたあの道にももう行かない。きみがどんなに呼んだって。
てのひらの傷がじんじんと痛む。ぼくのこの傷が消えても、てのひらはたぶんその痛みを忘れない。ぼくの幸せはきみのいる場所にはないと、痛みの恐怖が教えてくれる。そしてきみの幸せをつくるためにぼくがこのドアを開けることは二度とない。きみが幸せを探しに行く場所は、ここじゃない。

帰って欲しい、とぼくはドアの前に貼り紙を出す。ぶるぶると震える指で文字を書く。でもきみはその文字を、きみの思うように書きかえてしまうんだ。ぼくがきみのために書いた文字は、それじゃないのに君は読まない。読まないで呼び鈴を鳴らし続ける。ぼくはそれでもこのドアは、決して開けない。

貼り紙を見て、ぼくのほんとうの友達が帰ってしまった。帰ってほしいと言ったのは、あの子にじゃない。ぼくの暮らしやぼくの幸せを、きみはぼくから奪ってしまうつもりなの?
きみの幸せが立っているのはこのドアの向こうじゃない。ぼくの行く先にもない。どんなに探しても、ここにはないんだ。

ぼくの歌を馬鹿にして笑ったきみのために、ぼくは二度とこのドアを開けない。血に赤く染まったてのひらを見て、傷だらけのぼくを見て、「そんなのたいしたことがない。自分の方が痛い」と笑ったきみのために、ぼくはこの部屋を明け渡さない。

ねえ、もう帰ってくれないかな。きみがそこに立っていると、ぼくは出かけられない。杖がなければまだ歩けないぼくの折れた杖は、ガムテープで補強してある。ぼくの歌を好きだと言ってくれた人たちがくれたんだ。ぼくはガムテープをくれた人たちのために、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

どうか、きみの歌を聞いてくれる人たちと、幸せを探してほしい。きみの歌を好きだと言ってくれる人は、ぼく以外にきっといるから。


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