共感とは自己愛の一種である、私の本音②
1.引用
他人の書いたnoteについてコメントをつけるという書き方は実に楽ちんである。
自分の書きたいことを書くというのが私のスタイルだが、特に他人の文章を読んでいると、そのツッコミどころの多さに応じて何かを書き殴りたくなる。
ここはそういったことを自由に表現できる場なので、この際何もかも気にせず書いてしまおう。
今回紹介する記事はこちらである。
共感は、群れでの立場を確保するためのストラテジー。
これが、彼または彼女の主張のようだ。
個々人は侵されるべきでない、みたいな風潮は
どうあがいても欺瞞なのに、往々にして理想とされるから
世の中大変だな~って思います。
なかなか興味深い考えである。
2.一般論
私が見たところ、世の中は個人の感性が優先されるという考えと共感が大切であるという考えに大別される。
これは、脳機能の発達が感情機能と思考機能のどちらに偏っているかの影響を色濃く受ける。
感情機能が発達していると共感を重視し、思考機能が発達していると共感を軽視する傾向が出てくるということである。
しかし、感情機能に優れているからと言って、必ずしも共感に価値を見出すとは限らない。
その人の記憶や経験によって、その培われた感情機能そのものが共感の価値を否定することもあるからだ。
これは逆のことも言えて、思考機能が発達している人が共感というものに憧れを抱くという例もある。
社会全体として、片方に寄らないところが人類としての生存戦略なのだろう。
3.本音
上記の通り、共感とは人間が地球の歴史の中で手に入れた社会的機能という言い方もできる。
しかし、あえて私の言葉で表現するなら、共感とは自分の中の他人という虚像に自分の感情を想起して投影する行為、と言える。
それに対して、理解とはその他人という虚像を実像に近づける行為と言えるだろう。
私に言わせれば、「共感とは自己愛の一種」だということだ。
そして、他人に理解を求めるならともかく、共感を求めるということは、他人に自己愛の表現を求めるということで、一種の「羞恥プレイ」に他ならない。
また、他人に適当に合わせるとは、共感したフリをするということで、そういうことを大事にしたいという人がいるのであれば、そう感じる人がそうすればいいだけのことだ。
それを他人に求めるという人がいるとすれば、それは「自分の厨二病に付き合ってくれ」と言うくらいに恥ずかしいことなのだ。
あくまで、私の見解である。
私も日々暮らす中で、他人に共感する機会は多々あるし、そういう共感は自然と湧き起こってくるものだ。
しかし、他人が共感を期待している姿を見ると、途端に気恥ずかしさを感じて、彼らを生暖かい目で見守ってしまうのは、私が歳を取ったと言うことなのだろうか。
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