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彼女の泣き笑いは

老女 その2ーー彼女の泣き笑いは

【その1と同じ物語。三人称かつ、〈今〉過去時制、〈かつて〉現在時制、または〈今〉を現在時制、〈かつて〉を過去時制を選ぶ】

彼女はペンを置いた。夜の薄暗いような電気の下では、文字を書くことがとても大変になった。しょぼつく目元を揉み、孫の針金で紙を引っ掻いたような文字が並ぶ手紙を脇に、深いため息をついた。齢八十八にもなると、書を極めた気でいた彼女も、自分の字に衰えを感じた。何年も人に書道教室で書を教え、何回も書道の大会で優秀な成績をおさめた。それは彼女の人生の勲章のようなものだったし、なにより、誇り高い彼女のプライドだった。
孫からの手紙は、年始の挨拶と、小遣いにとやったお年玉の礼だった。ご丁寧に挨拶は書いてあるが、型通りというか、上っ面だけというかで、急いで書いたような文字に、真の感謝の気持ちのようなものは、彼女の常識からすると、あまり感じられなかった。
ふと、この孫の名前はなんであったかと分からなくなった。この手紙は孫の母親である、彼女の娘から手渡されたものだし、封筒にも手紙の文末にも、名前はなかった。それでも、しばらくの間、彼女は懸命に差出人の孫の名前を思い出そうと、孫の名前を順番に紙に書出し始めた。だが、どれもピンとこず、どれもがそれらしく思えた。紙に書出したものも、漢字はこれで良かったかと迷いが消えず、自分の老化によるもの忘れに直面して、ゾッとして身震いした。しかし、ほっとしたことに、手紙の主の孫の顔は思い出すことができた。あの子だ、あの子。勝気で
、口が達者で、ちょっと図々しいところがあって、彼女の幼い頃、若い頃にそっくりな性格のあの子。幼い頃には、ほかの孫たちを舌足らずな口調でありながらも、独自の論理でやり込めては、いつも手下を引き連れるようにして、この家を闊歩していた。あの小さな孫を思い出すと、彼女は自然と血は争えないと感じたものだった。孫の小さい頃を回顧していると、ツンと一枚の写真を思い出した。
あれは、彼女の姉が女学校に行くお祝いの、家族で記念写真を撮った時のことだ。彼女は父母、姉の四人家族で、両親は、その頃まだ珍しかった洋菓子を専門にする菓子屋を営んでいる。問題のその記念写真の真ん中には、なんとシャープペンシルとバナナを天に突き上げるようにして掲げ持った幼い彼女が写っている。記念撮影の主役であるはずの姉は、父に両肩を支えられるようにして隅に立ち、はにかむような笑みを薄く浮かべている。彼女の姉は引っ込み思案な所がある、おっとりした性格のお嬢様で、闊達な彼女とは真反対の性格である。姉を口先ひとつでおたおたさせたり、時にはめそめそさせるのに、いつもある種の快感を覚えているような、いじめっ子体質の子供だった。その写真撮影の際も、出来上がった写真を見ると、記念写真のど真ん中にはシャープペンシルとバナナを持った妹が陣取っており、母は「せっかくの記念写真が」とぼやき、姉はめそめそと泣いた。彼女は酷いじゃないとなじる姉に対して、いつものように「シャープペンシルもバナナも、お姉ちゃんも持っているのだから、一緒に持って写れば良かったんじゃないの」と言い返す。「そんなの恥ずかしくてできない」という姉に、「だったら何をそんなに、シャープペンシルやバナナごときで泣いてるの?」と言う。五つも年下の妹にこの調子で言い負かされる姉は、この時も悔しそうに顔をゆがめ、またぽとりぽとりと涙を落とす。
彼女はふんと鼻を鳴らした。未だ名前をまだ思い出せない孫も、言い負かされて赤い目をしたほかの孫たちを前に、胸を張って笑うような子供だった。あの子の名前は何だったか。もやもやしたまま、彼女は再びハガキに向かった。署名のない手紙に、名前がひとつも出てこない返事。これでいいのかという迷いは、如実に字の震えとなって現れた。「おばあちゃんも歳をとりました。元気な様子、嬉しいです。お手紙ありがとう。今度は元気な顔を見せに来てね」と書いた次の瞬間、「ああ、この子はこんなことだけを書いたんじゃ、この家には来ないね」と、彼女はペンを机に投げ出した。突き落とされるような悲しみと、笑いが込み上げてきた。「もっと特別な用事を見繕ってやらなきゃ、来やしない」彼女は震えるような1月の寒さの中、笑いを止められなかった。


三人称視点にすることで、物語れる範囲が変わる。世界が変わる。その違いを味わう課題。

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