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コーヒー牛乳と天秤

今日も、アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ』を読んで、文章の練習。

【ほのめかし】
〈2〉語らずに出来事描写ーー何かの出来事・行為の雰囲気と性質のほのめかしを、それが起こった(またはこれから起こる)場所の描写を用いて行うこと。その出来事・行為は作品内では起こらないこと。

*
部屋中にコーヒーの匂いがした。大量の牛乳で薄めたコーヒーの匂い。コーヒー牛乳の匂い。

壁に、床に、家具に、窓に、カーテンに、コーヒー牛乳のしぶきや、水滴が飛び散っている。

「これはかわいそうなことなのよ。仕方ないことなのよ」疲れた顔で母親が言った。繰り返し、繰り返し、自分に言い聞かせるように、ひとりごとのように。自らもコーヒー牛乳まみれになったまま。母親はぼんやりと、彼女があちこちのコーヒー牛乳を拭き掃除するのを見ている。

かわいそうなんかじゃない。これは身勝手で、わがままで、子供のすることで、ちっとも仕方ないことじゃない。少なくとも、自分が掃除をしなきゃならない義務はないと、彼女は思っている。

「あの子も、どこに怒りをぶつけていいのか分からないのよ」

まるで、彼女の心の声が聞こえて、その言い訳をするかのように、母親は力なく呟く。

「早くしないと、暑くなって部屋中が腐った牛乳の匂いがするようになるよ」
「そうよね。でも、お母さんも疲れたの」
コーヒー牛乳まみれの母は、薄笑いを浮かべて、彼女を見上げた。
「お母さんが、悪いのよね? こんなふうになったのは、あの子を追い詰めたのも、お母さんが悪いのよね?」
彼女は黙って拭き掃除を続ける。母親の責任かどうかなんて、どうでもいい。彼女の頭の中は、苛立ちと悲しみでいっぱいだった。〈あいつ〉がやったことが一番悪くて、彼女がその掃除をする不自然で、なんでそういう当然の理屈が分からないのかと、喉の奥がかっと熱くなる。

結局のところ、母親は自分がかわいそうなんだと、彼女は切って捨てたくなる。でも、ここで自分まで母親を見捨てたりしたら、この家はどうなってしまうのだろうと思うと、彼女は掃除を続けるしかない。母親の代わりにこの壊れた家族を繋がなくてはと、導かれたように思ってしまう。

きっと壊れた家の中が、これ以上どうにかなるなんてことはないし、子供の彼女が責任を負うことなんてひとつもないのに。彼女の拭き掃除の手が止まる。

「ねえ、お母さん。いつまでも私がこの家にいると思わないでよ」
「分かってる。分かってる。あなたも辛いのよね。あの子だけじゃなくて、あなたも私が追い詰めてる」

コーヒー牛乳の腐った牛乳の匂いがし始めた。

まずは張本人の〈あいつ〉が掃除をするべきなのに、本人は不在で、まったく関係のない彼女が、母や父の代わりに掃除をする。だって、仕方がないから。

コーヒー牛乳の雨を浴びた母親は、座って、自己憐憫しているだけ。父はゴルフの打ちっぱなしに逃げてしまった。
この家に〈あいつ〉は必要なんだろうか。自分より必要とされているんだろうか。彼女は、心の中で、〈あいつ〉と自分を天秤にかける醜い自分をどうしようもなく止められず、雑巾を握りしめた。

答えなんて、ないのに。


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