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給料の謎と、就活とか

昨日は、お給料日だった。

先月より1日多く働いたので、先月よりその分多い。やったー!

お給料の確認は、各自ネットの明細と、銀行の記帳で確認する。

毎月思うのだけど、お金がもらえるというのは、なんだか不思議な現象だ。労働の対価として、もらったというわけなんだけど、例えば食堂勤務なので、「何食提供して、その分発生したお金=お給料」というような明確な定義ではないという意味。

時給いくらという発想は、一体なんなんだろう。

食堂が黒字でも、赤字でも同じように安定してお給料がもらえるのは、安心だし、嬉しい。でもなぁ。納得のいかない感じがする。

少ないとか、多いとかそういう意味ではなく、お給料の仕組みが不思議。

就職してから4回お給料日を迎えて、慣れてもいい頃なのに、不思議さが止まらない。

こんなにもらえたんだ!! と感動するし、こんなにもらっていいのだろうか、会社は私を買い被りすぎではとも思ったりする。最低賃金なんだけど。

前に給料や働くことについて、どなたかのnoteを読んだ。

障害者だと、健常者と同じようには働けないから、期待もされないし、だから社会的な地位も低いし、社会的な信頼もない、得られないというような記事だった。

そうかもしれない。

主治医に「あなたのいくところは、まずはデイケアです」と言われたことのある身として、その屈辱感みたいなものは、わかる気がする。

安定した職じゃないから、クレジットカードも作れないし、親が仕事をし、生きている間しか、引越しも何もかも、信用のある人として、安心してはできないだろう。自分には何一つとは言わないけど、決定権がないような気がする。

卑屈になっているわけではないけど、事実はそういうことだ。

でも、私は障害者で、障害者雇用の枠で就職して、周りから何を思われているか(ある意味)わからない中で働いているけど、就職して良かったなと思っている。

それが本当は、同年齢の人と比べたら、雀の涙のような金額のお給料でも、もらえると素直に嬉しいし、自分の食い扶持を自分でなんとかしている感が得られて、幸せだ。

確かに望むものの大概は、得られないかもしれない。

でも自分ができることを、自分ができるということと、やるということ、できないということ、またはやらないことは、決定的に違う。

できることを積み上げていくこと、やりたいことを明確にして、たとえどんなに小さな一歩に見えても踏み出すこと。

どんなに途方もないことでも、やりたいと思ったら、やろうとすること。

たぶん、それが一番大事。

諦めたら、悔しいまま。自分が辛いまま。報われなくても、それが大成功でなくても、なにかしら結果は出る。

私は7年かけて就活して、幸運にも就職できた。それは、本当にラッキーだったし、今もその職場で働けていることは、奇跡のようなものだと思っている。

7年の中で諦めかけたこともあったけど、就活を続けて良かったなと思う。願い続けることにも体力がいるから、今それができないからといって、努力が足りないとか、気合いが足りないとか、私は思わない。タイミングの問題だと思う。

私にも、7年の中には、停滞した時期もあったし、家にひきこもっている時期もあったし。

大事なのは、自分の夢やこうなれたらいいなという希望のようなものを忘れないこと。

そのタイミングがきた時、ジャンプできるように。

変な成功談みたいになっちゃったけど、読んでくれているあなたに、幸多かれ。

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