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ズボラごはん

ちゃんと出汁をとらないとか、スープの素を使うとか、ガス火を使わず、電子レンジを使うとか。時短で、簡単で、お手軽料理をズボラめし、ズボラごはんという。

私はズボラの何が悪いと思うタイプだ。

お菓子も作るし、料理だって何品も毎週作るけど、ズボラでもなんでも毎日健康で、楽しいご飯を味わえるのなら、私はズボラ最高だと思う。

ズボラという言葉は、なんとなくネガティブなイメージを持つ。

面倒くさがって、適当にやる。ちゃんと手順を踏まない。

ちょっとした手間が、美味しくなるコツなのですと言う、料理研究家の人もいる。

ふろふき大根の面取りをちゃんとするとか、味しみのために、こんにゃくに切れ込みを細かく入れるとか。

まだまだあるに違いない。

料理は、生きるための術だ。

食べないと人間は生きていけない。

一日一食しか食べなくても、一食はなにかしら食べる。

その料理に丁寧に、手間暇かけたい人と、特にこだわりのない人。お腹が(それなりに)くちくなって、生きていくに十分であれば、毎食同じでも構わない人。

色んな人がいるし、いていい。

食べることに重きを置かない人にとって、料理の時間は苦痛だろうし、面倒くさいだけ。料理自体が苦手な人だっている。

時々美味しいものを食べたくなるけど、毎日じゃなくてもいい。

そうであれば、ご飯は適当に作ってあっても、ズボラであっても、なんでもいい。

食べることが、生きる術という時点で、人によって食事や料理に対するスタンスが異なるのは、当たり前。

色々な都合から、料理が面倒だったり、やりたくない人、それでも自炊しなきゃならない人は、ズボラという言葉に惹かれてズボラごはんを作ったりする。なんとなく、後ろめたさ(?)や、妙な負い目を感じつつ。ちゃんと料理できないなんて、、、とか。ひねくれて、所詮私の料理はズボラですよー。とか。

どうして、ズボラがいけないのか。考えていると分からなくなってくる。

生きることに正解がないように、生きる術である料理にも、正解はないと思う。

どこか自分を卑下して、「私は、ズボラですけど」と断る理由は何のだろう。

雑誌にも、ズボラめし! ズボラごはん! のレシピはいくらでも載っているのに、本家の丁寧料理じゃありません。と断りを入れてるみたいで、私はいつも見る度、もやっとする。

本家の丁寧料理は、素晴らしいかもしれない。ズボラで手抜きしたものより、美味しいのかもしれない。

でも、ズボラがここまで多くの人の目に触れ、言葉としても、料理方法としても定着した今、わざわざ「ズボラ」をうたう理由もない気がする。

ズボラ、丁寧、ひと手間、どんなものを選ぶのかは自分自身だし、決めるのも自分自身。

やりたいように、できることをやって、自分の満足する生活ができたら、それでいいのに、と思う。

それに、ズボラ=簡単にできる=失敗に心配なくチャレンジできる

ということも、ズボラ料理の暗黙の了解である。

ズボラ、時短、簡単、お手軽、最高じゃないか!

【今日の英作文】
「GWに帰省する時のお土産は、何にしようと考えます。いっそ両親が『手ぶらで来てね』と言ってくれたら、楽なのになと思います。」

"I think what gifts I shoud bring for going back to the hometown. If my parents just tell me 'just bring yourself', it would be easier for me.''

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