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子は親に何を求めてる?雑感

いつもそうですが、今日は特にとりとめがなく、だらだらくるくるしています。ほんとに、無理に読まなくていいです。私の思考の垂れ流しです。興味の続いた方だけ読んでいただければと思います。


子は親に何を求めて成長していくのだろう。あなたは、親に何を求めていましたか?それは与えられましたか?

この疑問には一つのトラップがある。
(1)「自分が与えられたから、与えられて良かった」と感謝している場合と
(2)「与えられたけど、そんなの当たり前だろう」とあまり感謝していない場合と
(3)「与えられなくて、とても求めていたのに残念だった」と思っている場合と
(4)「与えられなかったけど、自分の中ではその状況を納得」していて何とも思っていない場合と
があるから。
「子が親に求めるもの」の答えには、普遍的なものと個人的なものの間には大きな開きがあるだろう。

例えば、お金や世話や環境面で言うとこうなる。
親が働いているのが当たり前。三食のご飯を出してくれるのは当たり前。学費を払ってくれるのは当たり前。習い事をさせてくれるのは当たり前。お小遣いをくれるのは当たり前。どのあたりまでが当たり前だろうか。

留学させてくれるのは当たり前。予備校、浪人、私立中学高校大学でも行かせてくれるのは当たり前。車を買ってくれるのは当たり前。宝石やブランド品をプレゼントしてくれるのは当たり前。

赤ちゃん→保・幼→小→中→高→大(院)→社会人

とだいたい25年くらいの間に親子関係の濃い結びつきはまとめられる。

子どもの自分は、何を求めていただろう。何をもらって、何をもらえなかったのだろう。
おそらく親が子どもだったころの感覚と、自分が子どもだったころの感覚と、自分が大人になったときの子どもの感覚は、また違うのだ。
時代の「普通」が違うし、また感じている人の個性もあるから。

沢山のものを与えてもらったうえで、尚私が求めていたのは、より具体的な「知識と世界の関わり」だったと思う。どんな仕事があるのか。どんな企業があるのか。どんな勉強をして、どんな仕事につけるのか。自分が知らないことも知らなかったので、本当に知らなかった。
書き出して気づいた。親の、個人的な世界との関わりを、あまり聞かせてもらえなかったのだ。だから、勉強と仕事と世界がつながっていなかった。変なの。
父親の内面的な世界を全く知らない。社会での苦悩も喜びも全く知らない。変なの。
覚えている。聞いても答えはいつも「言っても分からない」だった。それはそうなのだろう。おかげで、父のことを分かりたいという気持ちが消えた。そして父親の向こうにある社会についてののびのびした好奇心がしぼんだ。聞きたいという気持ち、知りたいという気持ち。そういう柔らかい興味の目がことごとく死んだ。
社会については、自分なりに歩んで、自分なりの道を見つけた。父については、相変わらず良く分からない。今は、聞く気もない。ただ、そこにいる。

いや、そんなものは自分で見つければよいことなのかな。どうなんだろう。

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森博嗣さんの本が好きで以前よく読んでいたのだけれど、彼の子育て論がシンプルで面白かった。森さん曰く子育てで大事なのは「死なないようにすること」(確か。うろ覚え。)だそうだ。シンプルすぎて、逆に含蓄を勝手に読み手が考えてしまった。
要は、どう生きるかという具体的で細かいことは子ども本人の中にそれを決めていく力があるので、親はうるさくいわない。親の側は子の生命を保つ、子の危険を回避させるということをまずはしっかりと実践するということであった。「心配しすぎない」というのも大事なのかなぁと心に留めておいたものである。
でもそうはいうものの、決して本当にただ命を保つことだけしかしなかったわけではなかろう。見せる物、聞かせる物、一緒に体験させる物、言外に伝わる家族の様々な立ち振る舞いや考え方、教えがあったはずである。

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家庭に何かが無くて、その欠けのせいで、育った家庭が嫌いになる人もいる。
一方で、同じものが欠けているのに、それでもなお、育った家庭が好きで大切な人もいる。
なにが、欠かすことのできないエッセンシャルなものなのだろう。

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子は親に何を求めているか。子は親に愛されたいし、親を愛したいと思っている。それはそうだ。子は親を愛している。ただ、子どもだったころの自分の気持ちを細分化していくと、そんな愛のようなピュアなものというよりは、「私の望むような親であってほしい」という自己中心な願いと不可分な思いだったと感じる。

でも、親の与えてくれる世界しか知らないので、その世界の中で「私の望むような親であってほしい」というのはとても切実な願いなのだ。それが叶えられなければ窒息して死んでしまう。親は、子どもの世界だから。

すこしおかしな表現になるのだけれど、いい意味で「適当な親」って、すごくいいんじゃないかと思うのだ。子どもが意見すると、なんとなく変わってくれる親。変わってくれたように思わせてくれる、というか。奥行きがあって、ふわふわしていて、楽しそうで、でも真面目そうで。厳しすぎないこと。堅すぎないこと。

子どもである自分の意見が、親にとっても重要なものであって、家族という自分を取り巻く世界を変化させていく力を持っているという自信を持たせてくれるから。

子は親に対して「あなたは、私の望むものを望むように与えてくれる親ですよね」という期待をもつ。それは無邪気でもあり身勝手でもある。でもわがままというよりは健やかで、それが当然なことだと思うのだ。

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おそらく、「自主性」というのは非常に重要なテーマであって、親がこれを侵害すると大きな問題が残るのでは。
親が当たり前に提供してくれる世界の中に載せられて、その上でいくらかの自主性を発揮しながら自分の生き方を決めていく子ども。でもどこかで、少しずつ自分だけの世界を作り上げていき、自分だけの友達、自分だけのお金、自分だけの時間を楽しむようになり、いつの間にか親の知らない世界へと巣立っていく。

子育てとは、そんなふうにいつか子が自由に旅立っていくための、様々な準備期間なのだな。

何をしても、しなくても育っていくのだろうけれど、うーん、げらげら笑ったりわがままになったりする場所を無くさずに大人になってほしいかな。というか、家庭がそういう場所でありつづけたいかな。

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長くなったのですが、もう一つ書きたいことが。

よく、どんな人が好きですかという質問に「やさしいひと」ってランクインします。
また、子どもにどんな大人に育ってほしいですかという質問にも「やさしいひとになってほしい」という答えも多く聞く。
でも、それってどういう意味で言っているのだろう。
「やさしいひと」って、実際にはどういう人のことを言っているの?その人は、どんな人格で、どんな人間関係を構築しているの。

「やさしいひと」は幸せな人生を送っているのかな。

やさしくされる喜びと、やさしくすることの大変さを知って欲しいとは思う。

でも、結果として「やさしいひと」になるかどうかは、本人が自分の納得いく形で選んでくれないと意味がないじゃない。「親がいつも「やさしいひとになりなさい」と教育してきたので、私はやさしいと思われる行動を取って生きてきました」ってなんか不自然な気がする。すごく気持ち悪い。

道徳や倫理を教えるのって難しい。というか、教えられない。言葉で伝えることは出来るし、考えさせることは出来る。でも身をもって経験しないと分からないだろうし、それでこそ意味がある。強制はむしろ歪みにつながる気がする。

そんな、答えのない問答を、人生を振り返りながらくるくると考えている。

もし最後まで読んでくださった方がおられましたら、本当に有難うございました。きっと、私の言葉の端々から発される何かを受け取ってくださったのだろうと感じ、痛み入ります。

#親子 #子育て #家庭 #自主性 #やさしさ

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