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愛と正義の赤ちゃんごっこ【1ーA】

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【あらすじ・主な登場人物・もくじ】

 スマートフォンのディスプレイの中に、耳の垂れた灰色の仔猫がちょこんと座っている。 

「ほら、可愛くない? スコティッシュフォールドっていうんだよ」 

 そう言って、愛ちゃんはスマートフォンを僕の顔に近づけた。 

「可愛いね」 

 僕はあいづちを打ちながら、一緒に画面をのぞくふりをして彼女の目元を盗み見る。長い睫毛に縁取られた二重瞼の目。大きな薄茶色の虹彩が液晶画面の光を反射し、きらめいている。左の目尻にある小さな泣きぼくろが色っぽい。 

 突然電車が大きく揺れた。吊り革につかまって踏ん張る僕の体に彼女が寄りかかってくる。まだあどけなさの残る顔に不釣り合いな胸が僕の腕に押し付けられた。純白のブラウスが上から二つ目のボタンまで開いていて、はだけた襟元からのぞく肌が薄桃色に染まっている。思わず喉が鳴った。 

 六月の湿気が車内に満ちている。おまけに夕方のラッシュアワーだ。ふだんなら不快極まりない状況のはずだが、今の僕には何でもない。 

「この耳がいいよねえ。ほら、foldは『折れ曲がる』って意味じゃん? スコットランド原産で、耳が折れ曲がってるからスコティッシュフォールド」 

 スマートフォンをのぞいて溜め息をつき、肩にかからない長さのダークブラウンの髪を耳元ですきながら、困ったような笑顔で愛ちゃんが言った。 

「この画像ね、実はネットで拾ったんだ。本物が飼えたらいいんだけどね」 

 ひょっとすると僕らは、周囲の乗客からは恋人同士に見えるかもしれない。そんなことを思って恍惚とする僕を、現実へ引き戻すかのようにドアが開く。もう新宿に着いてしまった。 

 人波に押されてホームに降り、改札へ向かう。 

「赤地(あかち)君ってどの辺に住んでるの?」 

「え、あ、荻窪(おぎくぼ)だよ」 

「じゃあ途中まで一緒だね。あたし吉祥寺(きちじょうじ)だから」 

「そうなんだ。意外と近くに住んでたんだね」 

 改札を抜け、乗り換えのため中央線のホームに上がる。 

「そうだ、再来週から期末でしょ。単語覚えられてるか、テスト出し合わない?」 

 そう言うと愛ちゃんはバッグから教科書を取り出し、期末試験の範囲に指定された英単語を読み上げた。少し鼻にかかったアルトで響く英単語を、僕は一つ一つ訳していった。 

「savage」 

「残酷な」 

「sensible」 

「賢明な」 

「じゃあ、sensitiveは?」 

「敏感な」 

「さすが赤地君。今度はあたしが訳すから、熟語言ってみて」 

 電車が来るまでの間、僕らはホームで代わるがわる口頭試問を続けた。到着した電車は、人身事故のために遅れたとかで、山手線以上に混雑していた。 

「もう始めてるんでしょ、受験勉強」 

 周囲の乗客に遠慮してか、少し声を落として愛ちゃんが訊ねた。 

「いや、まだ全然」 

「またまたあ。こないだのテストも一番だったくせに」 

 僕の肩をちょんと押して、愛ちゃんはにこっと微笑んだ。

 どうやら彼女は僕の存在を、学年一の秀才として案外はっきりと認識してくれていたらしい。一年の時はクラスも違ったし、ほとんど口をきいたこともなかったのに。 

 胸の鼓動が高鳴っていく。 

「桃下(ももした)さんはもう、本格的に?」 

 僕が訊ねると、彼女はにこにこしたまま答えた。 

「うん、先週から塾に通いだしたんだ」 

 愛ちゃんと同じ塾に通うことができれば、受験までの苦労を共にして、ただのクラスメイトとしての関係を超えられるかもしれない。再来年には、過酷な受験を乗り越えた者同士、特別な感情が芽生える可能性もないことはないはずだ。そんな打算が瞬時に働いた。 

「実は俺も、そろそろ塾に入ろうかと――」 

「ほんとに? じゃあさ、よかったらあたしと同じとこに来ない? 吉祥寺にある塾だから、赤地君ちにも近いし」 

 思わぬ好展開に顔が崩れそうになるのを堪え、僕は無表情で頷いた。 

「そうだ、この後空いてる?」 

 愛ちゃんは上目遣いで、手招きするようにスマートフォンを振って訊ねた。 

「空いてるけど?」 

 僕の答えを聞いた瞬間、彼女は白い歯を見せて言った。

「あたしこれから授業だからさあ、一緒に来て、とりあえず見学したらいいよ。行こ?」 

 夜道に輝く看板が猥雑に立ち並ぶ繁華街を抜けた先に、愛ちゃんの通っている塾はあった。井の頭通りに面した八階建ての建物で、駅から徒歩3分ほどの好立地だ。

 授業見学の手続きを済ませ、教室に入る。非常に人気のある講座らしく、最前列を除きすべての席が埋まっている。二十人はいるだろうか。僕のように地味な、いかにも優等生といった感じの者もいれば、髪を明るく染め、一見軽薄な青春の日々を過ごしていそうな者もいる。愛ちゃんが言うには、ここは塾内で一番レベルの高いクラスだそうだ。二年生のこの時期だと、ごく一部の一流進学校を除き、まだ本格的に大学受験を意識した勉強を始めている生徒は少ない。そういう意味では、ここに集まった生徒たちは皆、見た目はどうであろうと志は高いのだろう。 

 ふたりで最前列の席に着いたところで、ちょうど講師も入室してきた。講義が始まると、愛ちゃんは真剣な表情で黒板を見つめ、ノートの上にペンを走らせた。 

 しばらくすると、ペンを握る彼女の手に違和感を覚えた。そうか。愛ちゃん、左利きだったのか。初めて間近に座った僕には、彼女の一挙一動がすこぶる新鮮に感じられた。 

「どうだった? あの英語の先生、ここで一番人気なんだよ」 

 筆記用具を片づけながら、愛ちゃんが僕にそう訊ねた。 

「そうだね。良かったと思う」 

 実際のところは、授業の内容なんてどうでもよかった。 

「俺もここに決めたよ。入塾手続きの書類、もらいに行かないと」 

「その前にちょっと休んでかない? あたし喉渇いちゃった」 

 教室を出た僕らは、談話室の自動販売機の前で休憩することにした。室内では、男子生徒と女子生徒の集団がそれぞれ陣取っていて、電車以上に周囲の目が気になる。彼らは愛ちゃんと僕を見て、どう思うだろう。やはり恋人同士に見えるだろうか。 

 周囲の嫉妬と羨望を一身に受けているような、我ながら過剰な自意識を抱きつつ、僕は自販機で買ったウーロン茶を飲んだ。 

「赤地君、これ飲んだことある?」 

 そう言うと、愛ちゃんは自販機のディスプレイを指差した。新発売の炭酸飲料だ。僕も先日飲んでみたが、マスカットの風味が爽やかで、わりと気に入っている。 

「うん。結構おいしかったよ」 

「ほんとに? じゃあこれにしよ」 

 まるで僕の鼓動のように、大げさな音を立てて転がり出てきた缶を自販機から取り出すと、愛ちゃんはそれをやわらかそうな唇に当て、一口飲んだ。ぷはあと息継ぎをすると、まだ中身の残っている缶を差し出して言った。 

「赤地君も飲む?」 

「え? ああ、うん……」 

 その無邪気な申し出に、あろうことか僕の声は裏返ってしまった。すぐさま缶を受け取り、一口飲んだ。慌てているせいで、げふげふとむせ返ってしまった。小学生じゃあるまいし、こんなことくらいで動揺するなんて大失態だ。 

「大丈夫?」 

 愛ちゃんはそう言って、僕の顔を心配そうに見つめていた。 

 駅までの道は酔っ払いと客引きとでごった返している。愛ちゃんは無言ですたすたと歩いていき、僕は少し後ろから、先ほどの一幕を回想しながらついていく。あれで彼女はたぶん、僕の想いに勘づいてしまったのだろう。沈黙が重苦しい。どうせこのまま気まずい関係になってしまうのなら、せめてその前にこの想いを告白するだけはしておきたい。 

 鼓動が高まるのを感じながら、僕はタイミングを見計らう。次の信号で言おうか。いや、その次の信号で……。いつまで経っても踏んぎりがつかない。そもそも、こんな繁華街で恋の告白をしようだなんて、我ながら無謀すぎる。道行くすべての人間が、僕の邪魔をしているようにさえ思えてくる。 

 結局何も言えぬまま駅前の交差点に着いた。不意に愛ちゃんが僕の顔を見上げ、手を差し出した。 

「今日は付き合ってくれてありがとう」 

 予想外の行動に、僕はまた声を裏返らせた。 

「え?」 

 おそるおそる差し出した僕の手を、ぎゅっと握って愛ちゃんが言った。 

「これからもよろしくね、赤地君」   

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