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愛と正義の赤ちゃんごっこ【1ーB】
「にゃあ」という声がして、ふり向くとそこには薄灰色のネコがいた。毛なみはいいみたいだけど、首輪がないからたぶんノラネコ。私が持つ生ゴミの袋を大きな目でじっと見つめている。
「ごめんね。でもこれはダメなんだ」
ものほしそうな彼の視線を気にしながら、ゴミをバケツの中に入れる。そうだ、たしかおべんとうの残りがあったはず。私は急いで店にもどった。
「休憩入ってもいいですか?」
消毒した手をふきながら、店長にそう聞いてみる。
「もうそんな時間か。うん、行っといで」
金曜の夕方なのに、きょうはあんまりお客がいない。それで店長もなんとなく気がぬけているみたいだ。
「桃下」
「はい?」
休憩室に入ろうとすると、店長に呼びとめられた。
「冷凍庫のアイス、好きなの持ってっていいよ」
「ありがとうございます」
このファミレスで働いていてよかったと思うのは、こんなふうによくあまったデザートをもらえることだ。でもまあ、そのせいで私はこの1年、見事にぷくぷく成長してしまったんだけど……。
そんなことを考えながら、バッグの中のおべんとうを取り出す。きょうはむし暑くて食欲がなかったから、おかずに入れたトリのからあげを残しておいたんだ。
ゴミ捨て場にもどると、ネコはまだそこで待っていてくれた。私はからあげを手のひらにのせ、しゃがみこんで彼に声をかけた。
「ほら、おいで」
次の瞬間、私の手からさっとからあげを奪うと、そのまま彼はむこうに行ってしまった。
「食い逃げかよ……」
思わずそうつぶやいてしまった。ちょっとくらいさわらせてくれたっていいのになあ……。
冷凍庫でお気に入りの抹茶アイスを見つけ、キッチンでスプーンを借りてから、私はまた休憩室にもどった。部屋にはもう白衣に着替えおわった石黒さんがいた。この人はいつもなにかと親切にしてくれた。見た目はちょっとチャラチャラしているけど、いい先輩だった。
「おはようございます」
「愛ちゃん、いまから晩メシ?」
そう言うと、石黒さんはゴツゴツしたシルバーの指輪をはずしてテーブルの上に置いた。
「いえ、店長にアイスをいただいて」
石黒さんのむかいに座ってアイスのフタをあける。
「そのべんとう箱は?」
「お昼の残りです。きょうはあんまり食欲なくて」
「食欲はなくても、甘いものは食べれるんだ?」
「だって、せっかく店長がくれたものをムダにしたら悪いし」
にやにやしている石黒さんにかまわず、私はアイスをほおばった。上品な抹茶の甘みが口の中にまったりとひろがっていく。
「あっ、そういえばさっき外にノラネコがいて、おべんとうの残りをあげたんですけど、さわろうとしたら逃げられちゃいました」
私がそう言うと、石黒さんはコック帽をかぶりながら笑った。
「ネコ好きなんだ、愛ちゃん」
「はい。いつか飼えたらいいなあって」
「バイト代で買えば?」
「それがですね、お給料入るとついムダづかいしちゃって」
「ダメじゃん」
ふたりで爆笑してから、ふいに石黒さんがため息をついた。
「きょうで最後かあ……」
しんみりとした感じが嫌で、私は笑顔をキープして言った。
「いままでほんとにありがとうございました」
「さびしくなるなあ」
「そろそろ本気で受験勉強をはじめなきゃなんで」
「そっか。がんばってね」
そのまま部屋を出ようとした石黒さんが、「そうだ!」と言ってふり返った。
「愛ちゃん、今週土日とかヒマ?」
「えっ、えっと、あしたは塾があって――」
「あさっては? あさって送別会やろうよ」
「でも日曜はお店いそがしいんじゃ――」
「だいじょぶ。みんなにはオレから伝えとくから。時間と場所は後で連絡するね」
ちょっと強引にそう言って、石黒さんは厨房に行ってしまった。
家に帰ってベッドでゴロゴロしていたら、石黒さんから電話がかかってきた。
「あのさあ、送別会のこと、いちおうみんなに伝えてみたんだけど、ひょっとしたらミドリちゃん以外来れないかも」
「えっ? あの、それなら別に無理してやってもらわなくても――」
「それでさあ、どうせならミドリちゃんの友だちとかも呼んで、盛大にやろうってことになったんだ。オレも大学の連中誘うから、愛ちゃんも友だちつれて来なよ」
どうして店の人たちの中で、よりによってミドリさんだけが来ることになったんだろう。ミドリさんはよく後輩をいびっていて、特に私にはおそろしくきびしかった。私が仕事で間違っても「違う」と言うだけで正しいやり方を教えてくれず、あわてる私をさらに責めるような、ひどい先輩だった。気持ちよくやめるために、せっかくあの人が休みのきょう、最後のシフトを入れてもらったのに。石黒さんも石黒さんだ。わざわざミドリさんなんか誘うことなかったのに……。
とにかく味方をつれて行かなきゃ。石黒さんとの電話を切ると、すぐ一実(かずみ)に電話をかけた。
「なに?」
いつも以上にかわいげのない、機嫌の悪そうな声がする。
「ごめん、もしかして寝てた?」
「いいから、なに?」
「あさって空いてる?」
「なんで?」
一実はちょっと変わり者だけど、中学時代からの親友だ。私とは正反対のスラッと背の高い頭のいい子で、学校の成績がいいだけじゃなく雑学にもくわしい。去年までいっしょに美術部にいたんだけど、今年になって私がやめ、3人いた先輩も卒業して一実しかいなくなり、いまはほとんど活動していないらしい。美大専門の塾に通っているから、最近ふつうの塾に通いだした私と生活のリズムがなかなか合わない。
「あのね、バイト先の人たちでパーティー開くことになったんだけど、来ない?」
「なんで私が?」
「いろいろあってさあ」
「やだ。そういうの苦手だもん」
「そんなこと言わないで」
「赤地くんでも誘えば?」
「赤地くん?」
赤地くんは私たちのクラスメイトだけど、1年生のときは違うクラスだった。その赤地くんの名前が、どうして急に一実の口から出てきたんだろう。
「見ちゃったんだよ、きのう、駅でだれかさんが、赤地くんと仲むつまじく歩いてるのを」
「ああ、あれね。そんなんじゃないよ。あれはただ、塾に誘っただけだから」
「そういや言ってたな。友だちを入塾させると図書カードがもらえるんだっけ?」
「そう、3千円」
「おまえなあ、純朴な少年を誘惑して利用するなんて――」
「違うってば。赤地くんも塾探してるって言ってたし、荻窪に住んでるから吉祥寺まですぐだし。それに赤地くんにならいろいろ教えてもらえるし、男の子といっしょならチカンに狙われないし」
「結局利用してんじゃん」
「とにかく――」
「とにかく私はもう寝る。じゃっ」
電話を切られ、待ち受け画面をながめてため息をつく。画面の中のスコティッシュフォールドは、そんな私をじっと見つめ返していた。
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