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考える道具としての言語。伝える道具としての言語。

私が頭の中で何か真剣に考え事をしているときは「〜である」口調の日本語を使っていることが多いです。真剣ではないときはもう少し砕けた感じの口語に近いですが、基本的には変わりません。

一方、誰かに何かを伝える意志が強くはたらいているとき、ここ数年は「〜です/〜ます」口調を使っています。相手を強くイメージし、その人とコミュニケーションをとることを強く意識します。その人に話しかけるようにすると、自然と丁寧語に近い言い回しになります。私にとって「〜である」口調が【考える道具としての言語】で、「〜です/ます」口調が【伝える道具としての言語】なわけです。

今回は、この【考える道具としての言語】と【伝える道具としての言語】の違いについて考えてみます。

今、社会的に大きな力を持ちつつあるのは、一人ひとりの発信が容易になっている【伝える道具としての言語】にあると思います。相対的に【考える道具としての言語】の優位性は失われつつあるような気がしますが、希少であることからそこに価値を見出すことはできるのではないか、というのがこの記事の主張です。

以上について、もう少し深く掘り下げます。

「考えること」と「伝えること」では言語を使う目的が違う

人間の祖先は、考えることと伝えること、どちらが先だったのでしょう。

これは私の予想ですが、「伝えること」の方が先だったのではないかという気がします。集団を形成し、その中で生きていくためには意思疎通は必要だったに違いありません。そして、「お腹が減った」でも「痛い」でも、そういった感情を訴える行為は、基本的に相手がいないと口にする意味がありません。伝えることに意味を見出すためには、相手が必要です。

では、人間はいつから「考えること」をするようになったのでしょう。なお、ここでいう「考えること」というのは、高度な思考・思慮・学習を伴うものと広く捉えたものと仮定します。

言語を思考の道具と捉えたヴィトゲンシュタインの哲学に私は賛同します。考えるためには、様々な概念や観念、事物事柄を示す記号としての言語が必要になります。そしてその記号は「伝えること」の中で生まれたものがおそらく起点になっているのでしょう。

しかし、思考が高度化すると、今度は「考えること」として生まれた言語の中から、より抽象的な概念を示す言語が生まれます。抽象的な概念の集合からまたさらに新たな知識が生まれる。このようなプロセスを経て創造された概念や知識は、日常生活においては必ずしも必要とは限らないのだけれど、思慮深く物事を推し量る際に非常に有用となると予見されます。

考えるための言語と伝えるための言語は、同じではない

言語の起源は伝えることから始まったと思いますが、あるタイミングから、概念や知識の高度化によって生まれた【考える道具としての言語】と、主にコミュニケーションのためにある【伝える道具としての言語】に乖離が生まれたのではないだろうか、というのが私の仮説です。

高い知識を持つもの同士でのコミュニケーションでは【考える道具としての言語】がないとコミュニケーションができないという状況が生まれます。細かいことを一から順に説明しては時間がいくらあっても足りないので、そのコミュニティ内でみんながよく使う用語や言い回しは、暗黙の了解として難しい言葉のまま使用されると思われます。つまり、ある特定のコミュニティの中では【考える道具としての言語】があたかも【伝える道具としての言語】として使用されるわけです。

しかし、難しい言葉を頻繁に使用していると、その言語がどこでも伝わるものだと錯覚しやすくなります。その結果、同じ日本語でも異なるコミュニティでは全く伝わらない言語になってしまう。特定の業界、特定の学術領域ではそういったことがよく起こるし、閉鎖的なコミュニティであるほど言語の問題はより深刻さを増すことになります。

そういった悲劇を減らすためには、【考える道具としての言語】と【伝える道具としての言語】の違いを自覚し、意識的に区別し、可能であればより平易な言葉に翻訳するという作業が必要になってきます。

考える道具としての言語は、怠惰になっていた

ところがここで大きな問題が発生します。

そもそも【考える道具としての言語】は【伝える道具としての言語】で説明できない、あるいは説明できるが冗長であるものを別の形で表現したものになり、このプロセスは原則的に不可逆的であると考えられます。すでに完成した料理を元の材料に戻すことができないのと同じで、一度確立してしまうと元には戻せません。

そうなってくると、意識的か無意識的かに関わらず、【考える道具としての言語】を【伝える道具としての言語】に翻訳することよりも、伝える相手に【考える道具としての言語】をさっさと覚えてもらったほうが良いという考えに至りやすくなります。基本的に知識人はこれまで社会的に優位な存在であったので、知識のない者に対して知識習得を求めるのは容易であったし、逆に知識をもつことが脅威となりうる場合は、学習機会を奪うことすらあるでしょう。

ところが、今の時代はどうでしょうか。知識そのものの社会的有用性自体は揺るがないにしても、知識そのものは(正誤を問わず)手に入れるハードルが非常に低くなりました。さらに、インターネットの登場により、コミュニケーションにかかるコストも格段に小さくなり、誰もが簡単に世界に向けて言葉を発信しやすくなっています。

そうなってくると、【伝えるための言語】の優位性の方が【考えるための言語】よりも一層高くなってきます。すると、分かりにくい【考えるための言語】より、正確ではないけれどわかりやすい、噛み砕いた言語の方がより有用性が高くなり、そこに生まれる価値もまた高まっていきます。例えばある事象について、その領域の専門家よりも、YouTuberのより簡潔で明瞭な説明の方が共感され、拡散されていくような現象が起こります。このような状況は、言い換えれば、【考えるための言語】ばかり使ってきた人は自分自身が変化しないと社会に価値を認められづらい状況になっていると捉えることができます。

考える道具としての言語の価値を再発見する

だからといって、【考えるための言語】に価値がなくなったかと言えば、そうではありません。優位性はあやふやになったとしても、希少性は変わっていません。もし価値を高めるのであれば、希少性こそ武器になることでしょう。

【考える道具としての言語】の希少性は、私は概念構造そのものにあると考えています。高度な知識を生み出すためには、首尾一貫したロジックを複数の概念から組み立てる必要があります。【考える道具としての言語】の価値の一つは、そのロジックの組み立て方それ自体にあるのではないでしょうか。より共感や説得力のある表現で人に伝えなければならない場面でこそ、明瞭なロジックは不可欠です。伝える技術が必要な今だからこそ、伝えるためには考える力、つまりロジックを組み立てること(論理的思考)の必要性が増していると捉えることができます。

一般の人が専門家の話が分かりにくいと感じる状況の中には、専門用語の意味が分からない場合と、ロジックが分からない場合の2種類があると考えられます。もし後者の場合、専門知識を別の言い方に置き換えても、ロジック自体を改善しなければ、やっぱり伝わらないわけです。そのような失敗を避けるためには、【考える道具としての言語】を【伝えるための言語】に変化する際には、用語だけでなく組み立てられ方に着目していく必要があります。

おわりに:考える道具としての言語にもっと注目したい

今回は、この【考える道具としての言語】と【伝える道具としての言語】の違いについて考えてみました。

その気にさえなれば誰でも情報を発信し、伝えることができる時代になったからこそ、【考える道具としての言語】を見直し、その価値を再発見していく必要があるのではないかと個人的に強く感じます。また、その際には、用語ではなくロジック、さらに言えばそのロジックを使う文脈まで掘り下げることにより、より伝わる言語へとうまく変換できるようになるのではないでしょうか?

もし共感していただけたら幸いです。ぜひあなたも考えてみてください。

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