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やれゆけ中二病


一つ前の記事(↑)でつらつら中二病のことを書き、結局完治してねえじゃんという結論が出た。

こうなりゃ開き直るしかないので、中学生〜大学生の頃「ハァ…これを読んでいる自分…かっこよ…」とうっとりするためだけに使用した「小難しくてかっこよくて小脇に抱えたくなる哲学書BEST5(もちろん今でもちょっとかっこいいと思っている)」を発表する。

なお内容に関しての質問やコメントは一切受けつけない。全てメジャーな作品なので読了済みの方も多いだろうが、私の場合学術的な興味は二の次だったため内容を聞かれると非常に困るし大恥をかく可能性が尋常じゃなく高い。
元々コメントがほぼつかないことはわかっているが、赤っ恥を回避したいので念の為記しておく。
中二病真っ盛りのあの頃を思い出しながら、生暖かい目で読んでいただきたい。



第5位『純粋理性批判』カント著

か、かっこいい…

世界三大難解哲学書といった、これまた中二心にぶっ刺さる肩書きまでついている。5位以上のポテンシャルを秘めているが、あまりにも有名すぎるため第5位とした。
中二病患者は代表作を選びたがらない。有名な作者の書いたものだとしても、その中でできるだけマイナーなものを好みたがる。もちろん「人とは少し違う自分」アピールのためだ。中二病患者は斜に構えるチャンスを逃さない。

太宰治なら『人間失格』より『新樹の言葉』、夏目漱石なら『坊ちゃん』や『こころ』より『夢十夜』、星新一なら『ボッコちゃん』より『ノックの音が』、福本伸行なら『賭博黙示録カイジ』より『最強伝説黒沢』なのだ。中二病とは往々にしてそういうものだ。
ならばここでも『人倫の形而上学の基礎付け』あたりを持ってくるべきだが、どうしても純粋理性批判のかっこよさには抗えなかった。

なお、アホみたいに難しい上そこそこ長い。上下巻だったり出版社によっては三巻まであったりする。小脇に抱える際は下巻か二巻以降をおすすめする。実際は読んでいなかったとしても「あっ私ある程度読んでますんで」とアピールするためだ。
もちろん私は上巻数ページで挫折した。



第4位『ツァラトゥストラはかく語りき』ニーチェ著

ヒュー!かっこいいーッ!

なにがかっこいいって「かく語りき」の部分だ。めちゃくちゃかっこいいではないか。「かく語りき」には「ハハーッ」と五体投地し教えを乞いたくなる、そんな威厳というか貫禄がある。
残念なことに出版社(翻訳者)によってはタイトルが『ツァラトゥストラはこう言った』『ツァラトゥストラはこう語った』となっており、あまりかっこよくない。魅力半減どころの騒ぎではない。いくらなんでも暴論だと罵られようとも、私は「かく語りき」以外のツァラトゥストラは認めない。
なんだ「こう言った」とは。「ツァラトゥストラさんはこう言ったのね、フーンそうですか」で終わりだ。威厳が消滅してしまった。フォントで言ったら明朝体と創英角ポップ体くらい受ける印象が違う。

ツァラトゥストラは多少活字に慣れていればすらすら読める。すらすら読めてもすらすら理解はできなかった。
比喩表現が多すぎるしテンションは終始高いし、哲学書を読むというよりもミュージカルを観る感覚に近い。
勢いのある文章を読むうちに、自分が舞台に引っ張りこましれてしまったような気分になる。深夜読むと病状が悪化すること間違いなしだ。
これを読んでいる最中に日記なんて書いてしまうともう最悪だ。文体は影響され「!」が特盛になり、一限の単位を落としただけの話を「──おお!なにゆえ、かのような悲劇が我にふりかかるのか!」と天変地異にでも遭ったかのように嘆き始める。悲劇の原因は寝坊だ。己の怠惰でしかない。なにゆえもクソもない。「ふりかかるのか!」でもない。早起きしてればそんな悲劇はふりかからない。
そんな特級呪物が入ったUSBが実家のどこかに眠っている。さっさと見つけてへし折るまではうかつに死ねない。

ツァラトゥストラだけを読んでニーチェの思想を理解できたとしたらそれこそ超人だ。
凡人はおとなしく『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』でも読んで「深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いている…エッかっこよ…」と適当に酔いしれた後ツァラトゥストラに挑んだ方が無難だ。



この文章を読んでくれている方は、そろそろ(とっくに)飽きてきたかと思う。
この熱量であと三つ紹介していては読む人が疲れてしまうし、いちいち中二病エピソードを書いていては私が恥ずかしくなってしまう。すでに耐えられないところまできているため、残りはサラリと紹介する。




第3位『意志と表象としての世界』ショーペンハウアー著

もう何が何だかわかんないけどかっこいいーッ!



第2位『死に至る病』キルケゴール著

キャーーーッ!憂いを帯びててかっこいいーーッ!



第1位『論理哲学論考』ウィトゲンシュタイン著

抱いて!!!!!!!!!

中二病的な、あまりに中二病的なラインナップに目眩がしてきた。哲学に興味を持ったなら『ソフィーの世界』や『14歳からの哲学』といった入門書から読むべきなのだ。
基礎知識もないくせに「入門書なんてダサいじゃん、こっちの方が絶対かっこいいもんね」と難解な古典に挑戦するだなんて、身の程知らずのバカとしか言いようがない。

事実身の程知らずのバカだったため選ぶ基準を「かっこいい」に全振りしていた。ショーペンハウアーだのキルケゴールだのウィトゲンシュタインだの、まず作者名からして尋常じゃなくかっこいい。
タイトルに使われている単語も中二心がそそられる。
「表象」だの「論考」だの、堅苦しいしわけがわからない。わけがわからないものを理解する(フリをしている)自分はかっこいい。そう勘違いしたまま長期間過ごした結果、実家の本棚が岩波文庫の青帯とちくま学芸文庫で埋まってしまった。

「死」だとか「病」だとか、そういった暗い雰囲気は中二病の大好物だ。清く正しく美しく生命力に満ち溢れたものに惹かれる中二病患者はおそらく存在しない。
陰鬱な単語や音楽、退廃的な雰囲気をまとった作品、なんでこれをこう読むのさと突っ込みたくなる難読漢字、明るい主人公より影のある脇役(闇属性)にどうしようもなく魅力を感じてしまう、それが中二病なのだ。

色々書くうちに気付いたが、私は「哲学書読んでる自分かっこいい」と酔うだけでは飽き足らず「メジャーよりマイナーなものを好きな自分が好き」という死ぬほどメジャーな中二病にも罹患していた。少数派でいたがるその姿勢はものすごく多数派だ。
ただのサブカル好きなら害はない。それだけなら別に中二病とは言えないだろう。
しかし私の場合「これが好き」ではなく「これが好きってことにした方がなんかわかってる感あるしかっこいいのでは?」なんて不純な動機が根底にある。中高生の頃は確実にあった。

思春期を抜け、誰もそこまで他人(私)のことを気にしていないと気付いた。
気付いたところで中高大と長期に渡り中二病的なものの見方・選び方をしていたため、現在素直に「これが好き」と何かを手に取っても「本当に私はこれが好きなのか…?これが好きな自分が好きという気持ちはないか…?というかこの手の趣味はかっこつけてた時期からの延長だしああ私の好きとは一体」とあれこれいらんことを考えてしまう。

眉毛を書かずにコンビニに行けるほど他人の目を気にしなくなった今でも、自分の中の自分が「あんたいい歳こいて実はまだ『こっち選んだ方が人と違ってかっこいいな』とかそんなこと考えてるんじゃないのプークスクス」と際限なく疑いの目を向けてくる。逃げ場がないため他人からどう見られているかを気にしていた頃よりキツい。
今現在の自分の趣味嗜好を「あんた素直な気持ちでそれが好きって言えるの?」と疑いまくるも結局答えは出なかった。自意識過剰な中年が存在している、明らかになったのはそれだけだ。

誰しも「人とは違う自分」に憧れた時期はあるだろう。
しかし早めに治さないと思考に妙な癖がついてしまい、本当にろくなことがない。赤っ恥をかいて完治したとしても、成人後も「俺はなぜあんなことを…ウワーッ」と夜中のフラッシュバックに苦しみ、同窓会のお知らせに怯えることだろう。中二病はこういった後遺症の方がキツい。罹らないで済むに越したことはない。


流行り物を素直に楽しめることはいいことだ。
趣味に合わないのなら無理して好きにならなくてもいいが、わざわざ「私はそんなミーハーじゃないもんね」と意地を張って遠ざけてもいいことはない。
実際ある程度ミーハーでいた方が楽しい。同じものを楽しむ人が多い時期に自分もその流れに乗ると、同じ熱量でハマっている人と出会う確率が高く語り合う機会も増える。
流行ってるからとなんとなく遠巻きに眺めて結局後からハマった場合、もう誰もその話をしていない…なんてこともある。これは少し寂しい。

年齢を重ねてようやく「私はどう頑張っても『個性的な人』や『変わった人』のカテゴリには入れないし、実際どっからどう見ても凡人だから多少ミーハーでいた方が人生楽しいだろうな」と気付き、流行り物には乗っとこうの精神を得た。見た目もセンスも思考も十人並かそれ以下なのだから、大衆が楽しんでいるものを楽しめないはずがないのだ。

数年前タピオカミルクティーにキャッキャしながら挑戦したら、想像よりずっと美味しかったし楽しかった。
もしも二十歳の頃に流行っていたら死ぬほど小馬鹿にしていただろうし、叩くことはあっても飲むことはなかったに違いない。



三十路を超えた今は「変にこじらせてないで若い頃もう少し素直に流行りに乗っとけば良かった」と少し後悔している。
もしも今、中二病真っ盛りの自分に何か伝えられるとしたら「流行りには全力で乗っておけ」「みんなが楽しんでるものを小馬鹿にすることで優位に立った気になるな」「上巻読んでないのに下巻を持ち歩くな」と言い聞かせたい。

おそらく当時の私は「フン、頭の悪そうな凡人が何か言ってるわ。ニーチェの言うところの畜群かしら…」とすかさず説教をかっこつけの材料にするだけで聞く耳なんぞ持ちゃしないんだろうが、肩を掴んで揺さぶりながら「オメーも畜群だし凡人だよこのバカッ」と怒鳴りつけたいし、なんなら畜群パンチと称して二、三発ほどグーでいきたい。

現在完治こそしていないものの、己のバカさ加減を自覚している分まだ昔よりマシだろう。確かどこかの哲学者もそんなことを言っていたような気がするし。

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