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それゆけ中二病

自分には何か不思議な能力があると妄想して授業中にニヤニヤしたり、飲めもしないブラックコーヒーを我慢しながら啜ったり、急に洋楽を聴き始めたり、椎名林檎に影響されて旧仮名遣いや漢字を多用したり、ハンドルネームの両脇に「†」を添えたり…


こうしたいわゆる「中二病」の時期は、誰にでも多少あったと思う。
もちろん私も患った。しかし無駄に包帯を巻いたり第二の人格に乗っ取られたフリをしたりWelcome to Undergroundと友人の耳元で囁いたり、そういった派手な、有名コピペのような中二病ではなかった。
そもそも中二病なんて言葉自体知らなかったが、今思えば確実に罹患していた。
おそらく相当重症の部類に入る。中学を出ても症状に改善は見られずずいぶん長い間そのままだったし、三十をとうに超えた現在も完治しているかどうか怪しい。



私のやったことは「なんかかっこいいタイトルの小難しい哲学書を読む」だった。有名コピペのような派手さはないが、地味にリアルな背伸びの仕方は想像に難くないはずだし、症状としてもわりとあるあるだと思う。

普段教室でギャーギャー騒いでいる何も考えていなそうな中学生が小難しい(そしてなんかかっこいい)哲学書を読んでいる…そういったギャップを演出したかった。ああバカバカしい。

特定の誰かに「へえ意外だな…おもしれー女」と思われたかったわけではなく、まあなんというか、同級生や周囲の大人、通りすがりの人でもいい。とにかく「えっ中学生があんな難しそうな本を読むなんて!」と思われたかった。
「他の子とは良い意味で少し違う」「なんか深い」と、全人類にそう思わせたかったし、自分を賢そうに見せたかった。今思えばありふれたバカの発想でしかない。



中二病関係なく読書自体は好きだったため、頻繁に市の図書館へと足を運んでいた。
頭の程度に合わせてかいけつゾロリやこまったさんでも読んでおけばいいのに、なぜかパスカルの『パンセ(瞑想録)』なんてものを手に取ってしまった。これが中二病発症のきっかけだったと思う。


表紙もシックな感じでかっこいいし(新潮文庫版だったと記憶している)、なんか中身も「人間は考える葦である」とかなんとか書かれててよくわかんないけどこれまたかっこいいし、古い本だからか文字がめちゃくちゃ小さくて読みにくいけどそれもまたかっこいい気がするし、んもうかっこよさにやられてしまった。
私が男子だったら背表紙を指でツツーとなぞりつつバキバキに勃起していたに違いない。正直それくらい興奮していた。
これでは伝わりづらいと思うが、あのかっこよさをバカ剥き出しの語彙で表現することは困難を極める。


何が出来るわけでもないくせにとにかく自分を大きく見せたい、一段高みからものを見たい、隙あらば斜に構えて非凡な目線で俗っぽいことを小馬鹿にしたい、そんな思春期特有の肥大しすぎた自意識に「よくわかんないけど小難しくてかっこいいタイトルの哲学書」がぶっ刺さってしまった。
小難しくてかっこいいタイトルの哲学書を小脇に抱える、ただそれだけのことで自分がいきなり賢く高尚な人間になったような気がした。ハイブランドに身を包む人もこのような感覚なのだろうか。

もちろん小脇に抱えただけで急激に賢くなるはずもない。かわいらしい脳ミソではかっこいい哲学書の内容なんて到底理解できるわけがなかった。
それでもしつこく小脇に抱え続けていたところ、図書館から「延滞してるぞさっさと返せ」といった旨のハガキが届いてしまい、それを見た父からしこたま怒られた。おそらく高尚な人間にそんなハガキは届かない。
結局上巻を四回借りたが内容は全く頭に入らなかったし、下巻に辿り着いたかどうかは記憶にない。


その後もしばらく「小難しくてかっこいいタイトルの哲学書を読んでいる自分」に酔い続けた。
元々読書を習慣としていたのだから、別にかっこつけて哲学書を読まなくても「文学少女」というカテゴリに入れたはずなのだ。しかし文学少女は母数が多い。言ってみればまだまだ「普通」の範囲内だ。

本当にバカバカしい話だが、普通の文学少女ではもの足りず、そこから更にひねりをきかせたかったのだ。
わかりやすい物語を読んで感動するよりも、難解な思想を読み解き何か深そうなことを考えるのがかっこいいと思っていた。そういう時期とはいえ、いくらなんでも浅すぎる。

というか哲学書なんてものはタイトルからしてかっこいい。今思えばメジャーなものばかりだが当時は授業でふれる機会がないというだけで「こんなの知ってるの、この教室で私だけでは?」と、マイナーなものを知っている自分にうっとりできた。己の無知を知らないこと、これは本当に恐ろしく愚かなことだ。



カバーを付けずこれみよがしに周囲に見せつけながら読んだり、教室の机の上に無造作に置いたりはしなかった。
それはさすがに恥ずかしかったし「あいつあんなの読んでるけどかっこつけてるだけじゃないの」なんて思われたくなかった。大正解だからだ。こちらとしては大正解を叩き出されては立つ瀬がない。それだけは何としてでも避けたかった。

読書感想文の題材として哲学書を選ぶことでさりげなく「私こんなの読んでます」アピールをしようかとも考えたが、そもそも読んで出てくる感想が「かっこいい」「わけわからん」「作者ヒマなのかな」くらいしかないため泣く泣く諦めた。諦めて本当に良かった。私にしては賢明な判断だ。


周囲にさりげなくアピールしたい、気付かれたい、知らしめたい、そんでもって一目置かれたい。しかしそんなアピールがバレた場合を想像すると恥ずかしすぎて耐えられない。
身の丈に合わない自己顕示欲やら、尊大な自尊心やら承認欲求やら、とにかく自意識が肥大しすぎていた。

結局ブックカバーを付けてタイトルをわからないようにした哲学書をペラペラめくりつつ「アッ私今めちゃくちゃ賢そう…」「人と違う感じ、出てるゥ…」「我思う、故に我あり…か…ふーんそういうことね完全に理解した(わかってない)」と悦に入る、これが私の限界だった。バカな中学生が思いつく賢そうな振る舞いなんてその程度だ。


こちらから見せびらかすことはしないけど、何読んでるの?と聞かれたいな…もし聞かれたらサラッと自然にタイトルを答えるんだ…「そんなの読むの?」「えっ難しそう…」なんてリアクションが返ってきたら「え?難しいかな?別にそんなことないよ?」みたいな、私にとっては普通のことなのに皆何驚いてるの?哲学は昔からあるものですよ?というか哲学はあらゆる学問の根源ですが?みたいな空気をこう…うまいこと出す感じで…これはかなり賢そうなのでは?エヘへ…
暇さえあればこんな妄想ばかりしていた。
もしも私が現在中学生だったなら「また俺何かやっちゃいました?(キョトン)」といったセリフを吐く無自覚系最強主人公に憧れを抱いていたかもしれない。


実際「何読んでるの?」と聞かれたことは何度かあったが、残念なことに私の望む「凄い…町子って意外と深そうなことを考えてるのね」「実は賢い子だったのね」的なリアクションは全く返ってこず「フーン知らないや。てか早く部活行こうよ」くらいのものだった。現実は非情である。



前述の通り「アピールしたいけどかっこつけてるのバレたら恥ずかしい」なんて思いが強かったため、周囲に向けてこの中二病っぷりを発信することはそこまでなかったと思う。なかったと思いたい。

そして残念なことに、根本的に知能が足りていないためかっこつけて読んだところで全く理解が追いつかず「この思想は素晴らしい!」「これこそが世界の真実!」と特定の哲学者にどっぷり傾倒することもなかった。要はハマりきれなかったのだ。

「こんだけどうでもいいことずっと考えてられるのはやっぱ金と時間に余裕があるからこそなんだろうな。明日の飯に困ってたら『存在とは…』なんて言ってらんないもんな」と俗っぽい考えが浮かんでしまい、感銘を受けようにも受けられなかった。どこまでも凡人なのだ。

中途半端に理解できる知能が私にあったとしたら、おそらく周囲に「ゼノンのパラドックスって知ってる?(溢れ出るドヤ)」「なぜカントの思想が素晴らしいかというとね…(何もわかってない)」「超人とはつまり…(聞かれてもいないのに説明を始める)」と知ったかぶり哲学者ぶりベラベラ喋り倒し気持ちよくなり、後ほど大恥をかいただろう。


包帯を巻いたり眼帯をしたり、邪気眼系の中二病はおそらく大恥をかく機会が多い。本人にとっては黒歴史だろうが「友人や家族から指摘されて大恥かいたおかげで治りました」というケースも多いと思う。
しかし私は大恥をかかなかった。つまり改善のチャンスがなかったということだ。

歳を重ねるにつれ「そもそも私わりとバカだしこんなん小脇に抱えたところでバカが際立つだけでは…」「他人はそこまで私のことを気にしていないのよね実際」と多少冷静にはなったものの、痛い目を見ていない分「でもやっぱちょっとかっこいいよね」なんて考えが捨てきれていない。



冒頭「三十をとうに超えた現在も完治しているかどうか怪しい」と書いたが、怪しいどころの騒ぎではない。普通に完治はしていないし今さら矯正も難しい。

中学二年生の子供がいても不思議ではない年齢の私が中二病を名乗るのもおかしな話なので、もう単なる「そういう痛い人」として生きていくしかないのだ。

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