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コーヒー好きな少女が語った「大人っぽさの弊害」と2つの階段。

僕の友人には奇想天外な方々がいっぱいいるが、その中でも「バーのママ」、「子持ち?」といった言葉をかけられてる19の女の子がいる。それも中学生くらいの頃から。(悪口ではない)要は年上に見られがちなのだ。

「この前初めてカラオケで年齢確認されてん!」と喜んで話す彼女の目から諦めと寂しさを読み取ることは容易かった。

今日ここに書くのは彼女の話から垣間見えた大人っぽさの弊害について。こういった悩みを持っている人は彼女以外もいるのではないだろうかという願いを込めて綴ってみようと思う。

本日も何卒。

大人っぽいって言われたら嬉しいよね。ふつう。

特に自慢するわけでもないが、僕自身もよく年上と勘違いされることが多い。現に僕は19で、最後の十代を何かに追われるように満喫しているのだが、多数の人の目にはもう少し大きく写っているだとか。そういった人たちの推理が終わり僕が実年齢を打ち明けると彼らは決まって目を丸くし「しっかりしてるね」と話す。僕も人間だ。そう言われると外面では謙遜しつつも内側ではデレデレだ。「大人っぽく見られてる。」この感覚はどうもくせになる。

しかし彼女はそうでないらしい。なにか少し寂しそうなのだ。

少し脱線するが、ここで僕の最近閃いた考えを聞いて欲しい。人間の飲料は歳を重ね、ストレスを浴びる環境がレベルアップするほど、アンロックされる飲料も幅が広がっていくのではというものだ。

牛乳→ジュース→炭酸飲料→紅茶、コーヒー→酒

といったように。要は精神年齢は飲料と相関関係があるのでは…ということだ。ここではこの論をジュース論と名付けよう。これについてはまたの機会で描こうと思う。

「コーヒーを目当てにカフェにいく友達がいない」という理由で僕らは集まり日夜新たなカフェを開拓しては「ここうめぇ」と飲み歩いている。おいしそうに…というか全感覚を舌に集め体に染み込ませるかのように飲む彼女の姿はとても手慣れていて、大人の色気のようなものを感じることができた。バーのママと擬えられてしまうのもなんとなく納得がいった。

話の発端は大阪でカフェを開拓中、とある街中のカフェに入った時、僕は彼女のコーヒー好きの始まりについて改めて聞いてみようと思った。

「小4…だったかな。」

耳を疑った。先述した考え(ジュース論)に照らし合わせると彼女は小四の時点で大人の階段を登り始めていたらしい。

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幼い頃から両親が家で豆を挽き、細いやかんで丁寧にコーヒーを作って、何もない時間を楽しんでいたらしい。そんな大人な余裕だったり時間だったりを横目に見て育った彼女はいつの間にか自らの手でコーヒーを作り始めたそうな。

豆の種類から、煎り方、焙煎方法に家で美味しく注ぐ方法など。幼い頃の豆との出会いをきっかけに様々な角度からコーヒーという営みを研究し、今や「この店のコーヒーが美味しい理由」などを密かに分析しているんだとか。

「別にスイーツが嫌いとか、コーヒーわからない人を軽蔑してるとかではないんよ」

彼女のインスタからは友達と出掛けた際に食したであろう、いかにもかわいいケーキや、彩度高めなスイーツを覗くことができる。それについて聞くと彼女はそう答えた。どうやら最近トレンドなカフェ巡りには大きく二種類あるらしい。

コーヒーか、コーヒー以外か。

某カリスマホストの名言を拝借する形で申し訳ないが、彼女の話をまとめるとこの言葉に収束できる。前者は豆だとか、煎り方だとか、マスターの性格、キャリアだとか、彼女が幼い頃から追求してきたコーヒーを目当てにしたカフェ巡りである。対する後者は雰囲気、パンケーキ、スイーツ、パスタ…など。両者間で甲乙をつけるようなことはしないが、彼女はどちらかというと前者な楽しみ方をしたいのではだろうか。「コーヒー目当ての友達」を探していることから勝手に勘ぐってみる。

中学生の頃、自己紹介で「趣味はカフェ巡りです!」と目をきらびやかにさせて話す同級生をみてカフェに誘っては、その人が後者であることに何度か肩を落としたこともあるらしい。

…そうしていくうちに今時の女の子はコーヒー以外なんだと感じ始め、自分と周りの人たちの趣味の乖離を隠すようにそちらの路線も楽しんでいる。

「明日もカフェいくんだ。パンケーキだけどね。」

カフェ巡りに限らず、プリクラだとか、タピオカだとか、いろんな種類の流行に仲間を追って乗ろうとしては、違和感を感じてしまうこともぬぐいきれていない。かわいいと思うし、美味しいとも思う。楽しいとも感じるし、幸せとも感じる。でもこれは自分自身の感情ではなく、どこか他人任せな感情だと思った。

そういった体験を通し、自分の趣味がどうやら周りとは少し異なっていると自覚し始めたのも高校くらいだと。それを自覚し始めると趣味に限らず、物事の考え方や、話し方、立ち振る舞い…様々な部分でみんなとの乖離に気づき始めた。挙句周りからは「バーのママ」と言われ、周囲からの信仰も厚い。それは同い年や年下に限らず、大人からも例外ではない。大人びた彼女には相談が絶えず舞い込み、幾度も誰かを救ってきたのではないだろうか。

「なにも考えない生き方もしたいなぁ」

彼女のいう「何も考えない」は ”無邪気” という言葉があっているのだろうか。そう優しく呟く彼女を照らす、ぬるそうな西日はとても芸術的だった。

本人はこういった悩みにはとっくに折り目をつけ、自分はそういうもんだ。と今日も一人でコーヒーを飲んだり、友達とパンケーキを食べたり…と忙しそうだ。

大人っぽさの弊害

さて、ここまで少し大人びた彼女について綴ってきたが、ここからが本題だ。" 大人っぽさ " と その弊害 について少し考えてみようと思う。

これは僕の体感だが、「大人っぽい」という言葉は少し深い意味合いを持つと考える。

大人だからといって、全員が「大人っぽい」かと言われればそうではない気がする。逆に「子供っぽい」という言葉があるように。

では大人っぽいを超越した大人とはなんだろうか。

僕は大人っぽい彼女の話を聞いて、「精神的な階段を登る人」だと考えた。

「物理的な指標としての年齢」と「精神的な年齢」は異なることは周知の事実だが、後者の「精神的な年齢」にも特有の階段があることを忘れてはならない。

この二つの階段の決定的な違いは 期日の有無 だ。

人間は生まれてから、何かの期日に迫られ、気づけば定年を迎えていることが多い。宿題から始まり、テスト勉強、就活、取引先への納期に、ローン返済、夢。我々は期日に急かされていて、まるで壊れていく階段から落ちないように、怪物から逃げるように、大人の階段をのぼる。テンプルランみたいに。(知ってる人いるやろか)

対して、大人っぽいと言われる人たち、経営者さんや、バーのママさん、それこそコーヒー好きの彼女は、期日機能をもつ実年齢の階段をあまり意識していないように感じる。

期日機能がないからこそ、無自覚に得た経験や趣味、環境、トラウマなど様々な要因が、押し上げてくれる精神年齢の階段を登っていると僕は考える。彼女の場合はこれがコーヒーだった

しかし、精神年齢の階段は明確な数値の基準がなく、それこそ趣味であったり、考え方、行動が精神年齢として周囲から相対的に「大人っぽい」と判断されるのだろう。そして自分自身もそういった周りの反応から自分の位置を知るのだ。

その結果、精神年齢の高い人たちが大人っぽさを極め、大人と判断されていくのではないだろうか。

それにしても無意識に精神年齢の階段を上ってしまった人たちだからこそ、その高さをコンプレックスに感じ、平均的な精神年齢を望み、仕舞いにはあえて演じたいとも思ってしまうということは少し皮肉なもんだ。

無意識に登ってしまった階段の高さ。それゆえ起こる、考えや意識、言語の違い。これが大人っぽさの弊害なのだろう。

weekly ochiai などでディスカッションする各界隈のプロフェッショナルが意気揚々としているのは、同じ階の仲間がいて、言語が通じるといった喜びからかもしれない。

まとめ

さてここまで長々と、大人っぽさの正体とその弊害について書いてみたがいかがだっただろうか。僕のように実年齢の階段だけで自分を測り、大人っぽくみられることを喜んではいけない。本当の意味で大人になるということは共通言語がなくなっていき、だんだんと孤独になっていく、すこし残酷な現象のことだ。

僕自身はそんな少数派のもつ考えや、言葉をよりわかりやすく、みんなに伝え、僕も、みんなも彼らと同じ言語を話し、笑い合えるような世界を実現したい。大人と子供の境目がなくなるような。そんな淡い願いを込めて明日もここに文を綴る。

読んでくれてありがとう。また明日。

K.














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