連載小説【フリーランス】#30:おかえり私

 二日目の朝、幸代が旅館のフロントに降りていくと、先にチェックアウトを済ませていた正和が「女性は支度に時間がかかるよね」と声をかけた。幸代は「そう?」とだけ言った。

 駅前でお土産を買って、最後にお昼ごはんを食べようということになった。帰りの電車の時間もあるし、近場で手頃な店を探そうとしたのだが、適当なときに適当な店というのは見つからないものだ。

 結果、二人が入ったのは、店主が無愛想で不味いハンバーグ屋だった。先に扉を開けた幸代が「2人なんですけど」と告げると、店主は黙ったまま頭で奥の席を指した。他に店員や客の姿は見当たらず、テーブルに着いても水やおしぼりはおろか、呼ぶまで注文を取りにすら来なかった。幸代はポークカレー、正和はハンバーグカレーのセットを頼んだ。そこまで店主は一言も声を出さなかったが、ほどなくして厨房で電子レンジの音が聞こえた。

 しばらくすると、同じ店主がやって来て、カレーとサラダ、スープの載ったトレーを幸代と正和の前に置くと、そのまま何も言わずに厨房へ戻って行った。私語厳禁がルールであるかのように、幸代も正和も、それぞれに無言でスプーンをとって、黙々と食べ始めた。ポークカレーはびっくりするほど美味しくなかった。こんなに愛想のない、やる気も感じられない、食材にも料理にも接客にもまるで興味のなさそうな人が、どうしてレストランなんかやっているのか、そもそもやろうと思ったのかと考えると、幸代はたまらなくおかしくなって、思わず湧いてきた笑いをポークのかけらとともに奥歯で噛みしめた。グラスの水を飲むついでに正治の顔を目の端でとらえると、ハンバーグとカレーを交互に口に運んでいるだけで、幸代が見ていることにも、笑っていることにも気づかなかった。美味しくはなかったけど、残したら負けのような気がして、幸代は全部食べ切ってやろうと思っていた。幸代が食べ終わったとき、正和はもうスプーンを置いていたが、皿にはハンバーグとカレーが半分以上残ったままだった。

「信じられない」

 会計を済ませて店を出るなり正治が言った。

「え?」

 と顔を上げた幸代の後ろで店の扉が閉じた。結局あの店主はどんな声をしていたんだろう。

「あのハンバーグ冷凍でしょ。レンジに入れてるの隠そうともしてなかった」
「ああ」
「態度も悪いし。金払って不味い上に不愉快な思いまでして、最悪だな」

 そんなに気に入らなければ店主に直接言えばよかったじゃない、と思ったのは口の中で飲み込んだ。この店にしようと言ったのは私だ。幸代は責められているような気がしてきた。そうでないのはわかっている。この人は私を責めるつもりなんかない。でもつもりがあろうがなかろうが、幸代は気分がよくなかった。この人はこの先も、気に入らないことがあれば自分は手も汚さず恥もかかずに正論だけを言って、誰かのせいにするんだろう。そしてそのことに気づきもしないだろう。いつだって自分が正しいんだ。それは事実なのかもしれない。でも私が欲しいのは正しさなんかじゃない。たとえ間違っていても、一緒に泥まみれになって笑えればそれでいいのに。

 ぽつん、と落ちてきた点がにわかに線を描き、あっという間に大降りになった。幸代たちは連なってバス停の屋根の下に走り込んだ。

 濡れた肌にタオルをすべらせながら屋根の外を見上げると、山の斜面を沿うように階段が這っていて、その上に病院の看板を掲げた建物がそびえていた。白がくすんだ壁一面に大きな歪んだひび割れの線が走り、かなり年季の入った建物のようだった。幸代は頭からタオルをかぶったまま何気なく言った。

「あれ病院なんだ。気味が悪いね」
「だって廃病院でしょ」 

 そうだ。あんな壁面に何本も亀裂の入った建物がそのままの状態で営業しているわけがない。まして病院だ。廃墟に決まっている。ちょっと考えれば、あとちょっとすれば、幸代もそうとわかるはずだった。ただ少しの時間差で言葉が頭より速かっただけ。言葉のほうが先に出てしまっただけ。思ってから口に出すか、口に出してから思うかの違いに正しいも間違いもない。なのに正和は言葉より頭が先で当然だと思っている。疑いもしていない。でもそうとは限らないんだ、絶対に。

 病院を見上げたまま幸代は言った。やっぱり言葉のほうが早かった。

「別れよう」

 隣で正和の顔がこちらを向く気配がした。首から上だけをそちらに傾けると、知らない外国語を聞いた人みたいな目をしていた。聞かなくてもわかった。「何を言っているのかよくわからない」。それで私にも、今、自分が何を言ったのか、はっきりわかった。

「じゃあ言い方を変える」

 もう一度、今度はちゃんと、体ごと正和のほうに向き直った。

「別れたい」

 バスが来た。ドアが開く。二人が動かないので運転手が様子をうかがうような視線を送ってきた。少しの間。でも私たちに乗るつもりがないと判断したのか、運転手は黙ってドアを閉め、バスは走り去った。それとともに雨脚も遠ざかりつつあった。

「さようなら」

 そう言うやいなや、私は全速力で、これまで歩いてきた道とも、バスが向かった道とも違う、あさっての方向へ走り出した。後ろは一度も振り返らなかった。卑怯だって構わない。背中に山ほど背負っていた荷物をすべて放り出して、ふいに体重が軽くなり、今にもふわりと浮いて舞い上がりそうな心地だった。心臓がドキドキしていた。それは懐かしい感覚だった。ああ、やっと私が帰って来た。ただいま私。おかえり私。

 もう返信を待たなくていい。
 いつ、どんなメッセージを送ろうか、返そうか、考えなくていい。
 連絡が来なくて、連絡が遅れて、心配したり不安になったりしなくていい。
 着信や受信通知があっても開かなくていい。
 そもそも電話やメッセージが来てるんじゃないかとスマホをチェックしなくてもいい。
 相手の都合を考えながら予定を調整しなくていい。
 相手の機嫌をうかがいながら何かを言ったり言わなかったりしなくていい。
 相手が何を考えているかわからないからって困らなくていい。
 自分がどう思っているのかわからないからって悩まなくていい。

 関係を続けるためのありとあらゆる気遣い、優しさ、わずらわしさ。そんなものはすべてどうでもいい。 

 私は完全な空っぽだった。空っぽの状態こそが真理だった。取り戻すべき私なんてはじめからどこにもいなかったし、帰るべき部屋もなかった。ただ一切は私という体を通りすぎるだけ。空の肉体に暫定の人格が仮住まいしてはまた出ていくのを繰り返すだけ。この五年が平和だったのかどうかはわからない。長い静かな戦争だったような気もする。だとしたら私は今から平和に戻ろうとしているのか、また別の戦争に向かおうとしているのか。それとも?

 でも、ああ、これだ。知っている。これを待っていたんだ。負荷のかかっていた時間の分だけ、それを手放した解放感の波が、体中を駆け巡る。風船男のときもそうだった。もしかすると私は、またこれを味わいたくて、そのために五年もの間、正和とつき合っていたんじゃないか。

 もしそうだとしたら、なんだか相手に申し訳ないなという気持ちに一瞬肩をつかまれそうになったけれど、今の私には追いつけない。追いつかれてたまるものか。そんなふうにしか他人と向き合えないなら、私にはきっとバチがあたるのかもしれない。でもそれでいい。私は甘んじて罰を受ける。喜んで悪者になる。私は私にそれを許す。私以外の世界中の誰もが許さなくても、私だけは私を許してあげる。

 この瞬間、私が私の未来を自分の手にしていると感じられるのは、一瞬の錯覚にすぎないかもしれない。それでもかまわない。取り戻したばかりの目の前の自由が、まだ誰の手垢もついていない束の間のまっさらな未来が、今だけはぜんぶ、ぜんぶ私のものだから。

 このまま電車に乗ってあの部屋に行こう。もう住むことはないけれど、取り戻すものがある。私の代わりに爆弾を巻きつけられて待っている人質を迎えに行くんだ。そして私のこけしに名前をつけるの。【完】


⏪#29:Google Earthより遠い背中
⏪#28:荒波を立ててでも
⏪#27:旅先のカレー
⏪#26:何を言ってるのかよくわからない
⏪#25:部屋の人質
⏪#24:名前をつけるな

⏪#23:口に出されなかった言葉たち
⏪#22:似ている誰か
⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない

#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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