連載小説【フリーランス】#13:ムーンボウの娘

 幸代の所属するNPO法人では、全国の子供たちにアートを教えるボランティア活動も行なっている。つき合いのあるアーティストを自治体に派遣したり、CLOSETにゆかりのパフォーマーを紹介することもあれば、スタッフが自ら出向くこともある。幸代は美術の教員免許を持っていたので、週末には各地の学校や幼稚園、図書館などにおもむいて絵や工作を教えていた。

 幸代と正和が初めて二人で出かけた山梨もその活動先の一つだった。山梨へ何しに行くのかと問われ、幸代が事情を話すと、正和は興味があると言って着いて来たのだ。ボランティアのときはたいてい一人なのだが、アシスタントで来てもらうには助かると思い、幸代は断らなかった。おまけに車も出してくれるという。あれは幸代と会うための口実だったと、後に正和は明かしたが、それから何度か幸代のアシスタントとして同行するうちに、正和は自分も何かやりたいと言い出した。

「ダンスのワークショップを開いたらどうですか?」

 適当な発言だった。その頃はまだ知り合って間もなかったし、正和がどれほどの気持ちで言っているのかもわからなかった。何よりこれから正和と長く親しくつき合っていこうなどとは少しも思っていなかったからこそ、無責任にそんなことが言えたのだ。でも何気ない幸代の一言は正和の背中を大いに押したらしかった。理由や動機を深く追求せずとも、現実的に行動さえすれば、何かを始めるのはそう難しいことではない。それをやってのけられるのが正和だった。正和は幸代のアシスタントに加え、フリーのボランティアとしても自分で受け入れ先を見つけて活動するようになった。

 山梨でのアートクラスはその後も一ヶ月に一回のペースで続いていた。半年ほど前、そこにユエナちゃんという女の子の生徒が新しく加わった。小学三年生だったが、同い年のほかの子供たちと比べても、どこか落ち着いて大人びた雰囲気のある子だった。現地の職員からは口頭で紹介されて、作業中に子供たちがつける名札もカタカナで書かれていたので、幸代はずっとその通りに呼んでいた。しかしあるとき本部への報告書で提出する名簿を確認していると見慣れない名前がある。不思議に思って職員に聞くと「ああ、ユエナちゃんですよ」と言う。漢字の月虹とあのユエナちゃんが結びつくまでに数秒かかった。「めずらしいですよね」と職員はこちらを慮った。キラキラネームというのだろうか、一筋縄では読めない子だったのだ。

 その日もクラスが終わる時間を見計らって、ユエナちゃんの母親がお迎えに現れた。子供たちは自分たちで描いた絵本を見せ合いながらお喋りをしていて、ユエナちゃんもその中にいる。娘の姿をとらえた母親が「ユエナ!」と呼ぶと、ユエナちゃんは一瞬振り返って手を振ってみせたが、すぐにお喋りの輪に戻った。

「素敵な名前ですね」

 母親への挨拶ついでに幸代はユエナちゃんの後ろ姿に目をやった。今ではその背中に「月虹」の二文字が見える。

「ありがとうございます」
「何か由来があるんですか?」

 ユエナちゃんの母親はユエナちゃんから幸代に視線を移し、ちょっとの間、幸代の眉間を見つめるような眼差しをよこした。自分が見られているはずなのに、目線は自分の眉間を通り抜けてそのはるか彼方へ送られているような、奇妙な気分だった。

「先生は夜の虹って見たことありますか?」

 幸代は首をかしげた。

「夜でも虹が見えるんですか? どこで?」
「ムーンボウと言って、月の光で現れる虹なんです。太陽に比べて光が弱いので、条件が揃わないとなかなか出てくれなくて、幻の虹と呼ばれているんですけど。私たちは新婚旅行のハワイで見たんですよ」
「じゃあ、ユエナちゃんがここに来てくれたのも、めぐり合わせのギフトですね」

 ユエナちゃんの母親は、またちょっとの間、幸代を見た。今度はしっかり目が合っているのを感じた。それから、変な聞き方をしてごめんなさいねと言って微笑んだ。

「あの子は東日本大震災のあった年に生まれたんです。私たち夫婦は南三陸に住んでいて、夫は出張先で行方がわからなくなりました。ユエナが生まれることがわかったのはその後です。だからあの子は父親の顔を知りません」
「そうでしたか」
「震災の後、私とユエナは夫の実家で義母と暮らしていたんですけど、その義母も去年亡くなりました。それで私の実家があるこちらに戻ってきたんです」

 少し背の高いユエナちゃんはほかの子たちと絵本を回し読みしながらニコニコと横に話しかけている。今までにもそんな瞬間はたくさんあった。今日からも変わらないはずだ。でも幸代はもう二度とユエナちゃんをただの「ユエナちゃん」として見ることはできないだろう。

「ハワイではムーンボウを見ると幸せが訪れると言われているんですよ、先祖の霊が虹の橋を渡って幸せを運んでくると。ユエナという名前は、その幸せを願ってつけたんです」

 自作の絵本を抱えたユエナちゃんがこちらに近づいてきた。幸代はきっと、これからユエナちゃんを目にするたび、その背景に今のお母さんの話を思い出す。ユエナちゃんが笑っていても、泣いていても、ただ黙っているだけだったとしても、そのことは花に寄ってくる蝶みたいにユエナちゃんの周りをパタパタと飛び回って、視界から追い出すことをやめられないだろう。そればかりか、お母さんと二人で帰っていく隣に、見たことも会ったこともないユエナちゃんのお父さんを見ようとさえするかもしれない。幸代はそんな未来の自分をあさましく思って、どうしようもなくうんざりした。⏩#14


⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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