連載小説【フリーランス】#22:似ている誰か

 マグカップが割れた。酔いざましのコーヒーを飲んでシンクの中に置いたら音もなく真っ二つになった。結婚式の引き出物でもらったそれはペアだった。一人暮らしの部屋で使うのは幸代だけだったので、一つしかおろしていなかったのだ。二つの破片を重ねて捨て、箱に入ったままだった二個目を初めて出してきた。ギフト用の食器やグラスはだいたいペアでワンセットになっているが、今の幸代に必要なのは、ペアではなくスペアだった。

 1Kのこの部屋を借りたのは風船男と別れた直後だった。学生時代から同棲していたアパートを引き払って、とりあえず一人で住む部屋を見つけなければならなくて急ぎ探したものの、長く住むつもりはなかった。だから大して迷いもせずに決めた。仮の住まいだと思えばこそ、これといったこだわりもなければ、多少不都合なところがあっても気にならなかった。前の家にあったものはできるだけ処分したので家具もほとんどなく殺風景な新居だった。どうせすぐ出て行くし、と思いながら、気づけば五年もたっていた。家財道具は多少増えたものの、今でも決して居心地がいいわけではないけれど、いつか出て行くと思えば大抵のことは許せる。

 風呂上がりの洗面台で化粧水をパッティングしながら鏡の中をのぞき込む。幸代は控えめに言っても地味な顔立ちだ。いわゆる和顔らしいというのか、こじんまりとして凹凸の少ないパーツがなだらかな曲線を描いている。それらは素朴でつつましい印象を与えるらしく、おのずからそのような人間だと思われがちだが、幸代にそのつもりはなかった。そうでなくても、ただでさえ柔和な目鼻立ちの輪郭が、このところさらにぼやけているような気がして、滅多に引かないアイラインを引いてみてもいる。それもメイクを落とすと跡形もなくなってしまった。ふと思い出して、不動産屋の井田スマイルにチャレンジしてみたが、我ながら最悪の出来だった。

 寝る前に久しぶりに絵を描いてみようと思った。大学時代はよく描いていた。風船男の似顔絵もいっぱい描いた。すべて処分してしまったけれど。誰かの絵を描くということは、それだけその人のことを考えるということだ。顔の作りからパーツの位置、バランス、髪の生え方までつぶさに観察して絵筆にのせるだけでなく、引いた線の一本一本、塗った色の一色一色に、思いがこもらずにはいられない。おそろしい行為だ。嫌いな人の絵を描くという拷問があったらかなりメンタルをやられるんじゃないかと思う。相手のことを好きでないととても描けない。好きだから描くし、描くことでもっと好きになる。そして今、幸代は正和の絵が描けない。スマホのカメラロールから正和の写真を引っ張り出してきて、自分の中にあるイメージと合わせながら描き始めたつもりなのだが、下書きも終わらないうちに、次はどこにどう線を引けばいいのか、どうしても決められなくなった。テクニックのせいではない。ここまでのラフなスケッチだけでもよく似ている。ミヤちゃんが見ても正和だと言うだろう。でも似ているだけなのだ。それは正和に似ている誰か、もしくは誰かに似ている正和であって、決して正和その人ではない。それが一層、正和の顔らしきものを構成している不完全な線の集合体をグロテスクに見せる。

 気持ちは描きたいのに手は描けない。どちらを信じればよいというのか。幸代は鉛筆を握りしめた。少しでも力を緩めたら涙がこぼれてしまいそうだった。しかし力尽きた。先端から柔らかくつぶれて温かなぬくもりを滲ませるはずだった4Bの鉛筆の濃い鉛の芯は、それ以上一本の線も引くことができなかった。ただの棒と化したそれの絶えられない軽さが手の中にじわじわと沈み込んでいくのをどうすることもできないまま、描けないことが悲しくて幸代は泣いた。⏩#23


⏪#21:同じカテゴリの男
⏪#20:食べた気がしない

#19:私だけのこけし
⏪#18:何もかも似合わない部屋
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく

⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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