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「最恐のカリスマ」を見る

「回路」と「カリスマ」と役所広司

過日、黒沢清監督の映画「回路」(二〇〇一年)がBS松竹東急で放送されていたので、録画して視聴した。最近は、テレビ番組をそれが放送されている時間帯にそのまま見るということはとても少なくなった。今春で、いつも土曜日の夜に見ていた「ブラタモリ」が終わってしまうらしい。これによって、さらにまたリアルタイムの視聴の回数は減ることになるだろう。基本的に見たくなるような番組が少なくなったせいもあるのだが、だいたい見たいと思うものは事前に録画予約をしておいて、自分の好きなタイミングでゆっくりと視聴するということが多い。

テレビ放送される映画などは特にそうで、一気に全編を見ると(歳をとったせいか)疲れてしまったりもするので、録画したものをぶつ切りで何回かに分けて見ることにしている。今回の「回路」も三回に分けて三日がかりでじっくりと見た。この作品は、かなりぶっ飛んでいた問題作「カリスマ」(二〇〇〇年)の後につづく黒沢監督の映画であり、その序盤ではまた植物がいっぱいの温室(「カリスマ」の神保教授の研究室を思わせる)がある観葉植物の会社が物語の主な舞台となっている。そういった、それぞれの点と点がなんとなくつながりそうなにおいが冒頭から漂っている設定だけでもう、ものすごくぞくぞくしてくるものがある。

「回路」は、一般的にはホラー映画に分類される映画なのであろうが、あまりホラー映画らしいホラー映画ではない。なにか恐ろしい(姿形や形状の)ものが画面にいきなりばぁんと登場して、登場人物がぎゃあと絶叫するような場面は、ほとんどない。しかし、いきなりぱっと登場してくることはないのだが、そのかわりに恐ろしいものはごく普通に画面にずっと映り続けていたりする。そういう意味では、こういったホラー映画らしいマナーやら見る側への親切さを欠いた恐怖の描き出しかたというのは、ごく普通のホラー映画らしいホラー映画よりも(ある意味)格段にこわいものがある。そして、画面のなかで、静かにだが、じわりじわりと、確実にその恐怖の深度は深まってゆく。

だがしかし、この「回路」という映画の場合、ある程度まで恐怖が目に見える形で画面全体の前面に出てくるところまでくると、その恐怖の度合いの深まり方があまりにも急激になり、あまりにも加速度を増して飛躍して、見るものを置いてけぼりにしかねないような、非常にぶっ飛んでしまっている展開を映画の終盤に見せるようになる。そして、そこがまた、黒沢監督の得体のしれない怖さであったりするのである。あれだけ画面に恐ろしいものが繰り返し映し出されていたというのに、それが本当に恐ろしいもののほんの一部分でしかなかったことを、映画を見るものは映画の終盤になってようやく暗に示されることになるのである。そのあまりにもなんだかよくわからなすぎる感じが、本当になんだかよくわからなすぎて逆にとても怖くてたまらないのである。

ただし、映画のタイトルにもなっている「回路」というものが、いったいなんの回路のことだったのかは、結局なんにもよくわからないままなのである。しかし、今のこの時代を生きる人間の感覚でこの「回路」を見返してみると、これは実はパンデミック映画であったのだということが、まざまざとわかるのである。そういう見方で見てみると、映画の前半は心霊ホラーというよりもコンピュータ・ウィルスの蔓延や感染についての話であり、後半はそのウィルスがなんらかの形で現実の市中に解き放たれ世界的なパンデミックを引き起こしているという話としてみることができるであろう。

映画の中では、現実世界からは隔絶されて封印をされていた心霊ウィルスようなものが市中に解き放たれるのは、赤いビニールの粘着テープで(封印のための)目張りされていたドアを、人間が(何らかの連理引き的な力に誘き寄せられて)自らの手で開けてしまうことによって引き起こされる。しかしながら、これは新型コロナ・ウィルスが、人間が食用の動物を捕獲するために自然の奥地まで入り込んだことにより、未知なるウィルスを保有するコウモリやハクビシンやセンザンコウと接触し、またはウィルスを保有する動物と接触した動物を捕獲して市中の市場で販売したことで、未曾有の感染爆発が起きてしまったことを思い起こさせる。いずれも人間のもつ貪欲なる欲望や好奇の感情によって引き起こされたパンデミックだということなのである。

映画の後半、気がつけばそこら中にウィルスが蔓延して完全に都市機能が麻痺してしまっている街で、ミチ(麻生久美子)と川島(加藤晴彦)が人探しをしたり逃げ惑うシーンは、ちょっと韓国のアニメ映画「ソウル・ステーション/パンデミック」(二〇一六年)を思わせる雰囲気があった。このヨン・サンホ監督による「ソウル・ステーション」もまた新型コロナ・ウィルスのパンデミックより以前に作られた、まるで来るべき未来を予言していたようなパンデミック映画であった。

アニメ「ソウル・ステーション」では、そのラスト・シーンにおいてあちこちで火災や爆発が発生しソウル市全体が一夜にして壊滅的な状態に陥ってしまった光景が描かれていたが、「回路」でも東京の都市部からウィルスが急激なスピードで蔓延してゆき、もはや日本全体にまで壊滅的な被害が広がってしまっている様子が暗示的に描かれている。そして、その最終盤ではミチのすぐ頭の上を飛んでいった旅客機が、パイロットや乗務員がすべてウィルスに感染して制御不能になってしまったせいなのか、旅客機を管制する着陸空港の機能が停止してしまったせいなのか、近くのビルに火を噴きながら突っ込んで墜落し大破するシーンがある。

あの旅客機の事故のシーンは、まるで9・11の同時多発テロを思わせた。世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだテロ事件は、「回路」が公開されたのと同じ年に起きている。「回路」の公開は、世界貿易センタービルのテロが起きる七ヶ月前の二月であった。黒沢清監督は、この二一世紀が始まってすぐに公開された映画の中で、二一世紀という時代が分断とテロリズム、感染症とパンデミックの時代になることをすでに予見をしていたかのようにも思える。そこがもう、ごく普通のホラー映画よりも格段にこわいのである。

新型コロナ・ウィルスによるパンデミックは、現代人という生き物は社会の中で個々にばらばらに生きているようにも思えていたが、実際はまだとても密接な人間関係の中に生きているのだということを、あらためて思い知らせるような出来事となった。見た目にも感覚的にもちっとも密接でない人間関係の希薄さが感じられていた社会であっても、ある程度の至近距離に人と人がいれば、ただそれだけで知らず知らずのうちに人間は飛沫を浴びせかけたり浴びせかけられたりする関係をもってしまっているのである。そして、ひとたび外出をすれば、不特定多数の人々が手で触れたところをべたべた触ってしまうというようなことも避けられないことであったりする。

そして、最終的には、バンデミックの世界において人は人として生きてゆくために、そうした人と人との見えないつながりの「回路」の外に脱出するしかなくなってしまうのである。サチと川島は港からモーターボートで海に逃げ、まるでノアの方舟のように避難民をのせて日本を脱出し出港していた大型船に合流する。このウィルスにより壊滅的な状態にある陸上を離れて一旦海上に避難するというストーリーは、どこか新型コロナ・ウィルスのパンデミック期間中に二一世紀に起きることを予言していたと話題になった小松左京原作・深作欣二監督の映画「復活の日」(一九八〇年)を思わせるものあった。

人類滅亡の危機をノアの方舟のような船にのって生き延びた少数のものたちが、いつか再び地上へと戻り文明崩壊後の地球で再び新たな人類の歴史を築き上げてゆく物語が、この後に続くのではないかということを想像させる、ほんのかすかな希望のようなものが、そこには見えていた。その「回路」におけるノアの方舟のような雰囲気をもつ船の船長を演じているのが、黒沢監督の作品には欠かせない役者である役所広司だ。

役所広司といえば、「カリスマ」では薮池五郎という刑事役を演じる主役であった。だが、「回路」では、船長として映画の最初と最後の船のシーンにちらっと登場するだけである。ただし、同じ役所が演じているあの刑事とこの船長は、実は演者としても役柄としても同一人物であるというのである(ドッペルゲンガー?)。真偽のほどはさだかではないが、そういうこととなると「カリスマ」も「回路」も物語の奥行きが一気に(まさにウィルスの感染爆発のように)広がってゆくことなる。このあたり、ヨン・サンホ監督の「新感染 ファイナル・エクスプレス」とその前日譚である「ソウル・ステーション/パンデミック」における別々の映画が物語的にはひとつに連結している形態とも少し似ている。

「カリスマ」では、「世界の法則を回復せよ」というメッセージを受け取った藪池刑事(役所広司)は、最終的には世界の法則の封印を解いて回復させるという役割を担うことになる。つまり、一番最初に回路を作動させたのは、藪池刑事であり船長であったということになるのではないか。「回路」のミチや川島は、その回路の機能が加速し増幅してゆく過程で、ただただそれに巻き込まれて翻弄されていただけにすぎない。となると、あそこで起きていたことはウィルス蔓延によるパンデミックというよりも、船長というか船長に憑依したカリスマが仕掛けた大規模なバイオテロというか神的な暴力そのものであったということになるのであろうか。

藪池・船長は、いったい何のために封印を解き回路を作動させたのか。間違った方向に進んでしまっている現代社会を一旦リセットするためだったのか。世直しをしたということなのか。だから方舟なのか。正気なのか。はたまた狂っているのか。だがしかし、封印が解かれて回路が作動してしまった後では、正気も狂気もそう大差はないのかもしれない。いずれにせよ、もはや世界の法則は回復されつつあり、歴史は終焉し、本物のポストモダンが到来してしまっているのだ。そして、そこでは人類の大半が地上から消滅していて、後期資本主義社会を生きた(地球上最後の)現代人という種族もまた跡形もなく絶滅してしまっている。

NHKBSで放送されている「フロンティア」の「古代文明 同時崩壊のミステリー」の回では、紀元前一二〇〇年ごろ青銅器時代から鉄器時代への移行期の地中海世界に出現した海賊行為を行う謎の海の民の存在に焦点があてられていた。時代が大きく揺れうごいていた時期に、どこから海の民はやってきたのかという謎に最新の研究結果などから迫り、彼らは地中海沿岸の複数の崩壊した都市から逃れ脱出してきた避難民の寄せ集め的な集合体であったのではないかという有力な仮説が紹介されていた。

当時、地中海世界の一帯は深刻な長期間に及ぶ干魃の最中にあり、そこに現在も地震の巣であるトルコのアナトリア半島では巨大地震が頻発し、さらにその被災地で蔓延した疫病が地中海沿岸の交易都市へと次々と人と物資の移動とともに広がり、それまで栄華と繁栄を誇っていた港湾都市の都市機能は完全に麻痺して、あちこちでドミノ倒しのように死の病に取り憑かれた都市が崩壊していった。そして、そのような立ち行かなくなった都市を捨てて、地上から海の上へと避難した人々が、地中海へと船で漕ぎ出し、それらの避難民が避難民同士であちこちで合流し、海の民を形成するに至った、というのだ。

海の民といわれる人々は、元々はみなばらばらの土地に住んでいた人々であり、さまざまな言語を喋り、肌の色もそれぞれに異なり、非常に多様な民族や人種の人々がそこには混淆していたものと考えられている。彼らの中に共通したものがあったとすれば、それは新たな安住の地を希求するという意志だけであり、その強い頑なな意志のもとで新たな居住地を求めて海の民は地中海を移動しつづけていた。それは、あきらかにゲノッセンシャフトでありアジールでありミステリー・ゾーンでもある集団(内田樹)だという意味において、非常に興味深い存在でもある。

ここで映画「回路」における船長の方舟のことが思い浮かんでくる。この船に乗り込んでいる地上を捨てて海に漕ぎ出した人々もまたある種の海の民といえる存在なのではないかと。そして、船長の方舟も航海の途中で各地で寄港し各地の避難民たちと合流して、古代地中海世界の海の民のような新しい海の民を形成してゆくのではなかろうか。すると、これが中山介山の「大菩薩峠」とも相通じるものがあるのではないかということに思い当たる。どこか船長の方舟と海の民は、幕末期に封建的な社会風土がしみついた日本という国に見切りをつけたカリスマティックな駒井甚三郎と機帆船・無名丸に乗り込んだ人々を思わせる。無名丸も新天地(ユートピア)を求めて船長の方舟と同様に太平洋の大海原を進んでいった。

ただし、ちょっとだけ気にかかるのは、ミチの母親のことである。まだ街が平穏だったころに一人暮らしのミチの部屋の掃除と片付けをしに来てくれるという形で映画には登場するのだが、このミチの母親を演じていたのが風吹ジュンであった。風吹ジュンは、「カリスマ」ではあの樹木について研究する植物学者の神保教授を演じていた。ということは、あの母親と神保教授の二人も船長と薮池刑事のようにリンクしており同一人物であったのであろうか。「回路」での麻生久美子の役名は工藤ミチであり、教授と姓は異なっているが、両親が幼いころに離婚していたなどという事情があれば、それはさしたる問題とはならないはずだ。

風吹ジュン演じる母親が植物の研究者であったことから、その影響を受けて育ったミチもまた母親と同じような道に進み、温室のある観葉植物関係の会社で働いていたということなのか。そういう意味では、工藤ミチという人物は最初からこの(「カリスマ」から「回路」へと跨る)物語における最重要人物の一人であったということになる。悪性のウィルスが猛威をふるうなか、たびたび危険な目に遭いながらも生き延びることができたのは、そのためなのだろうか。ということは、船長こと藪池は、やはり最初からミチがモーターボートで都市を脱出して方舟に合流して来ることをあらかじめ知っていたのではなかろうか。

ヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクト・デイズ」(二〇二三年)で主役の平山を演じているのは、今や世界的にその演技が高く評価されている役所広司だ。役所は、この「パーフェクト・デイズ」に監督からのご指名で主役のトイレ清掃員に起用されたのだという。そして、ヴェンダース監督は「平山はユートピア的なキャラクター」だとインタヴュー記事で語っている。

ということは、ユートピアを希求して大海に漕ぎ出した海の民の船長と極私的なユートピアを生きる平山は、その実践の方向性の違いこそあれかなり近しいタイプの人物だといえるのかもしれない。一方は回路を作動させ世界の法則を回復させるカリスマであり、もう一方は都市に埋没しながら無人島のロビンソン・クルーソー的に世界の法則を回復させる選択的没落貴族。だがしかし、そのタイプは真逆であっても、それぞれの眼前には、まさに距離感ゼロでそれぞれのユートピアが常態的に存在しているはずなのである。

麻生久美子が演じるミチも小雪が演じる春江も、いつもノースリーヴのニットや胸元の大きく開いたカットソーを着ていて、颯爽としていて実にかっこいい。若くアクティヴな女性というイメージ(二十世紀末から二十一世紀初頭の東京の街中でもよく見られたイメージであり、クラブなどに遊びに来ている女性も結構あのような感じの颯爽としたファッションであったように記憶している)である。これに対して大学生の川島は、どこか決定的に頭が弱くて全体的にふにゃふにゃとしているイメージに描き出されている。そんな男の若者が役に立つのは車が故障した時ぐらいなのだが、そんなものは都市機能が麻痺して崩壊してしまえば何の役にも立たないものとなる。

カットソーといわれて思い出すのは、渋谷駅前ビルのビアオオイである。店先にはいつもカットソーがおすすめ商品だと喧伝するテープがエンドレスで流れていた。学生時代、あの横のたばこ店でアルバイトをしていたので、それをいつもいつもずっと聞かされ続けていた。大学の授業はほとんど昼過ぎまでで午後はループで流れるカットソーという言葉を聞きながら、たばこ店の小窓のなかから目の前のスクランブル交差点を行き交う人々をずっとぼんやりと眺めていた。そして、そのころにわたしが通っていた大学の構内が、後に映画「回路」のロケ地として使われることになる。

「回路」と「CURE」と「ドッペルゲンガー」

映画「回路」は、BS松竹東急の「最恐のカリスマ」と題された黒沢清監督特集のうちの一本として放送されたものを見た。また、この特集企画では、「回路」とともに「CURE」と「ドッペルゲンガー」も放送されている。「CURE」も「ドッペルゲンガー」も、どちらの映画も主役には役所広司が起用されている。一九九七年に公開された「CURE」では、役所は高部賢一という刑事を演じている。この刑事役というキャスティングは「カリスマ」での役所(やくどころ)と同じである。

「CURE」での役所・高部刑事は、萩原聖人が演じる謎の男・間宮邦彦を追い詰め抹殺することで、世界の法則が回復するのを阻止することに成功しているかのようにも見える。だがしかし、その凄惨な結末こそが謎の男・間宮が目論み望んでいたものであり、見えないところで動き続ける回路をその座標点のような場所でそのまま引き受けてしまっているようにも見えたりする。停止させたのか回路を繋いだのか、そこの部分まではあまり映画の中では明白には描き出されていない。

しかしながら、明らかに映画の冒頭の頃の高部と終盤の高部とでは、まるで別の人間のように変化してしまっている。あるいは、高部刑事の分身として出現した高部がそこにいるかのようにも見えるのである。もともと高部刑事の中にいた別の高部を、高部刑事が受け入れることで、高部は別の高部に変化・変身したという風にもいえるであろうか。そういう意味では、世界を回復させるための回路は、その刑事・高部から新しい高部への変化・変身という現象によって(暗暗裏に)繋がっ(てしまっ)たことが明かされているといえるようにも思える。

二〇〇三年公開の「ドッペルゲンガー」は、自分と瓜二つのドッペルゲンガー(二重身)を目撃すると、その人は必ず死ぬというドッペルゲンガー現象(自己像幻視)の古くからある言い伝えをもとに、人間の分身や変身についてを描き出している作品である。心霊や霊魂よりも人間そのものが最恐であることを人間そのものを二重に映し出すドッペルゲンガーという現象を用いて、これでもかと言わんばかりに描いてみせる、実に黒沢映画らしい黒沢映画だといえる。

「ドッペルゲンガー」では、役所広司は医療機器メーカーで要介護者の活動や行動の介助や補助を目的とする車椅子型のロボット=人工人体を開発している技師、早崎道夫を演じている。そして、その人工人体の開発に行き詰まっている早崎の前に、ある日突然自分と瓜二つのドッペルゲンガーが現れる。当初、早崎は自分の二重身の存在を必死に否定しようとする。だがしかし、早崎が分身の早崎をどんなに至近距離で目撃しても、さらには分身と会話を交わしたり口論さえするというのに、言い伝えられているドッペルゲンガー現象のように早崎が死んでしまうというようなことはない。早崎は、ドッペルゲンガー現象が起こる以前の早崎よりも、より早崎道夫の人生を(二重に)生きるようになるのである。

映画に登場する早崎道夫と早崎道夫の分身を見ていると、まるで善良な役所広司(元の早崎)と悪どい役所広司(ドッペルゲンガー)という俳優としての役所広司の二面性を執拗に一画面の中で見せつけられているような気分になってくる。善と悪に分裂した早崎は、どちらもまったく同じ役所広司であり、見た目にはちっとも見分けがつかないが、その二人の早崎が役所広司によって見事なまでに演じ分けられるている。「ドッペルゲンガー」を見ていると、役所広司という俳優は、どの役所(やくどころ)も役所広司という人間のドッペルゲンガーとして演じているのではないかという妙な思いが頭の中に浮かび上がってくる。つまり、どの役所(やくどころ)も見た目はまったく同じ役所広司なのだが、そのすべての役所(やくどころ)は役所広司のドッペルゲンガーとして現象しているのである。

そのような視点から見てゆくと、「回路」の船長と「カリスマ」の刑事が同一人物であると考えることもまた何ら不可思議なことではなくなってくる。どちらかがどちらかのドッペルゲンガーであるのかもしれないし、一旦は分裂してしまった刑事が再び統一されて船長という新たな分身となっているのかもしれない。演じているのはドッペルゲンガー俳優の役所広司であるから、刑事から船長へと変化・変身するためのさまざまなドラマがあったこともすんなりと受け入れて納得できるだけ演技の説得力は十二分にある。そして、何よりも救いなのは、船長が善良な役所広司の要素を多く分有してそうな雰囲気をもっている点である。そういう意味では、「回路」の船長には、最悪の危機的状況に地球が陥っている中にあっても、どこか明日への希望のようなものがうっすらとだが垣間見えるような気がしてならないのである。

「ドッペルゲンガー」は、人間の分身と変身に関わる現象を扱った少し風変わりなホラー映画である。そこで執拗に描き出されているのは、すべての黒沢映画に共通しているテーマでもある、何らかの出来事や何らかの外的な影響を受けて変化してゆく人間、原形をとどめながらも(時にはとどめずに)とめどなく移り変わりゆく人間の姿と心である。役所の演ずる早崎だけでなく、映画が終盤に近づくにつれてすべての登場人物が画面に登場するたびにどんどん目まぐるしく変化してゆくようにも見える。そのたびに、これは本人ではなく分身のドッペルゲンガーなのではないかという思いが何度も何度も頭をよぎる。永井由佳(永作博美)も君島(ユースケ・サンタマリア)も村上(柄本明)も、早崎がそうであるように本人なのか分身なのかの区別がまったくつかなくなってくる。

少し前までここにいたはずの人間が、次の瞬間にはまったく別の人間のようになって現れる。あっという間に人間は変化する。常に変わってゆくのが人間という生き物の特徴なのだ。だから、常にころころころころ変わってゆく。早崎も永井も君島も村上も、すぐにさっきまでの人とは違う人のようにすぐになってしまう。そうした、ある人が別人のようになる変化は、まるで本人からその人の分身に入れ替わったかのような変化・変身のようにも感じられる。一人の人間が複数化し、二重化しているように見える。その現象こそがドッペルゲンガーなのである。だが、そのような人間の変化・変身というのは、実はとても人間の人間らしさの表れでもあるような現象なのだともいえる。つまりドッペルゲンガーとは、人間の本質的な人間らしさそのもののことでもあるのではなかろうか。だからこそ、そうした人間そのものに関わる変化や変身の方が本質的にホラー的で最恐に怖いのであろう。決して変わることのない人工人体のような存在は、ちっともホラー的ではないし怖くもなんともない。

人間の変化・変身の現象において、元々のその人の人格というものは新たに出現した分身としてのドッペルゲンガーの内部に吸収され埋没してしまってゆくようにも見えるし、逆にドッペルゲンガーが元々の本人に入れ替わるように変身してゆくようにも見える。ただし、見た目には、それは本人が分身と/または分身が本人と、入れ替わっているだけのことにしか見えない。見た目は瓜二つのドッペルゲンガー現象なので、入れ替わっても見た目にはまったく問題がないようなものでないと、ドッペルゲンガー現象にはならない。だがしかし、元々の本人が人生に行き詰まってしまっているときや弱り果ててしまっているときなどに、それを打開して乗り越えるだけの人間的な度量の大きさや強度を備えているのは、やはりどういうわけかドッペルゲンガーとして現れる分身の方なのである。そう考えると、もしかすると人間が常に己の人生を切り拓き前進して生きてゆくためには、本人と分身との入れ替わり(変化・変身)の(ドッペルゲンガー)現象というものが、おそらく必要不可欠なのではないかと思えてきたりもするのである。ただ、そのときに見た目にはなんの変化も起きてはいない。それはその人の内面が、その人によって引き起こされたドッペルゲンガー現象によって、まったく別の新しいその人に変化・変身しただけのことであるのだから。

映画の序盤、まだ早崎がドッペルゲンガーの存在を認めようとせず、その現象を頑なに直視しようとはしない段階で、主にマンションの自室などの密室で本人とその分身が二人きりで口論したり言い争ったり喧嘩している場面がある。あのシーンは、いかにも映画的な演出で善い役所と悪い役所が一人二役で激しく言葉を交わしているかのように見えているが、実際には早崎が一人きりで自分の部屋の中でああでもないこうでもないと葛藤しているだけなのではないかと思えたりもする。つまりドッペルゲンガー現象というよりも、この場面の早崎はまるで分裂症患者のように見えるのだ。しかし、実際には永井由佳にも君島にも早崎と瓜二つのもう一人の早崎が見えているので、早崎は精神的な分裂症患者ではなく実際に二人の早崎に分裂してしまっていることを確認することができる。そして、最終的には、早崎はドッペルゲンガーとして出現した自らの分身を(自らの手で止めを刺して撲殺し)消し去ってしまうことで、その(元から自分の中に秘匿されていた)自分の(分身の)存在を受け入れるのである。要するに、早崎は自分の中に隠されていた自分と初めて真正面から向き合うことで(自己の中に伏蔵されていた自分を不伏蔵性へと至らしめ)、わたしの分裂を克服し一人の人間として統一されるのである。

本人と分身という形に分裂し、別々に現象してしまっていたものが、またひとつになる。人間というものは、もしかすると誰もがこのようにいつだって分裂しているものであり、それを何らかの荒療治のようなものを経て統一させることで、さまざまな物事に対応できるように変化し変身してゆく生き物であるのかもしれない。だから、「ドッペルゲンガー」の後半部の登場人物たちは、すべてみなそうした分裂と統一を短い周期で繰り返しているようにも見えるのである。そして、自分の中の別の自分とうまく統一できないものや、変化しないもの/変身しないものは、次々と襲いかかってくる過酷な現実を乗り越えて進むことができなくなって停止してしまう(君島と村上のように)。そして、人間の似像のようなものとして象徴的に「ドッペルゲンガー」の物語に関係していた人工人体もまた、自らの分身を己の中で生み出す人間的な複雑さをもちあわせず、突拍子もない変身を自らに促す意識や思考のノイズももたぬため、その自らの決して人体にはなりきれない人体としての存在そのものを恥じたのか映画の最後には自ら崖から身を投げてしまう。人間に何か変化が起きるとき、そこにドッペルゲンガーの現象が起こり、自分自身から分裂して出現した別の自分を受け入れて、変化・変身してゆくものだけが、その先の世界へと生き延びてゆく。

映画「回路」は、未曽有のパンデミックという地球規模の危機を乗り越えて、新しい世界で生き延びてゆこうとするものたちの物語でもある。ということは、やはりそこには人間の変化・変身というものが、なくてはならないものとして関係しているはずなのである。そこで思い出されるのが、映画「ドッペルゲンガー」の冒頭部分のエピソードである。そこでいきなり永作博美が演じる永井由佳は、弟の隆志の本人と分身の両方を立て続けに目撃する(ドッペルゲンガー現象)ことになる。そして、古くからの言い伝え通り、分裂してしまった隆志(本人)は不可解な自死を遂げる。だが、さらに不可解なことには、その弟の死の後に永井由佳は、自室で小説の執筆を続ける隆志の分身との同居を続けているのである。これは、本人がもう出口が見つからないほどに行き詰まってしまったと感じていた仕事を、その分身が引き継いで続けているということなのである。永井由佳は、その弟・隆志の分身の仕事を見守って、サポートし続けているのだ。ここであらためて気付かされるのは、元々の本人が死を選択しこの世から消滅してしまったとしても、ドッペルゲンガー現象の分身だけでも生き続けることができている、ということなのである。元々の隆志は、古い行き詰まってしまった隆志として自死したが、ドッペルゲンガーとしての分身の隆志が新しい隆志へと変化・変身して、その先の新しい世界を生きているのである。

ただし、この新しい隆志は、姉・永井由佳の献身的なサポートを受けて、小説の執筆を続けているのだが、早崎道夫の分身としての悪い早崎によって無惨にも撲殺されてしまう。このとき、悪い早崎は、面倒見のよい姉の弟に対する思いを断ち切り、その思いを自分(早崎本人)へと向けるためには手段を選ばぬ、血も涙もない人間へと変身している。だが、この新しい隆志であった弟の分身の突然の消滅によって、姉・永井由佳の中で何かが吹っ切れたのか、元々売れない小説家の弟の面倒を見ることを鬱陶しく思う部分がどこかにあったのか、早崎が内心抱いていた思惑通りに変化・変身してゆくようになる。そして、自身も分裂し変化・変身している早崎の思いを真正面から徐々に受け止めてゆくことで、永井由佳もまた永井由佳の分身のような人間としてさらに目まぐるしく変化・変身を繰り広げてゆくことになる。

映画「回路」のラストで、役所広司が演じる船長と麻生久美子が演じる工藤ミチは、現代の方舟といえるような大型の旅客船の甲板にいる。船長とミチは、新しい世界を目指して航行する方舟に搭乗し、新しい海の民になろうとしている。回路の外側で生きる新しい自分へと、分裂し統一し変化・変身しようとしている。ここで、この「回路」のラストシーンと「ドッペルゲンガー」のラストシーンが、どこかとても相似していることに気づかずにはいられなくなる。早崎と永井由佳(ドッペルゲンガー)、船長と工藤ミチ(回路)が、さまざまな困難や危機を乗り越えて、元々の自分とはまったく異なる自分に変化・変身し、次のフェイズへと向かおうとしている姿が、そこでは描き出されているのである。そこには、何だかよくわからないが、ほのかに明るい明日への希望のようなものが感じられたりもするのである。

分身が出現する分裂は起こるべきときに起こり、そこを起点にして人間は変化してゆき、別の人間へと変身をしてゆく。現実の世界も、そうした人間たちの変身に反応して、時代が移り変わり、何もかもが変化してゆく。そういう変化しあう大きな動きや小さな動きがあってこその人間の世界なのである。人間の世界もまた変身するのだ。そして、その人間の世界の変化・変身の内的・外的な核心部分では、いつだってドッペルゲンガーの現象が起きている。もしも、未来に希望があるとしたら、ドッペルゲンガー的でユートビア的な分身による変化・変身というものが、生の躍動としてそこでは必ず起きるはずなのである。「回路」と「ドッペルゲンガー」のラストシーンを見ていると、そう思わずにはいられない。いつだって、新しい世界に新たな一歩を踏み出すのは、古いわたしを乗り越えて変化・変身する新しいわたしなのである。

真実は、会話、共有される笑い、友愛、エロティシズムとともに始まるのであり、一人の人間から別の人間へと移行することによって初めて生じるのである。

ジョルジュ・バタイユ「有罪者」

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