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【超短編】性善説の申し子

信じるのは性善説か性悪説か。悪と名付けられた例の男はどう答えるのか、世界はもう知ることもなかった。銃声のような音が誰かのイヤホンを突く。アスファルトに滲んだ体液はもう、誰も彼のものとは思えぬほどだったろう。

そんな男にも少年だった頃があった。そして青年、壮年、重ねた嘘と優しさとが到底等しくなれぬまま、男は呼吸を繰り返してしまう。
しかし自惚れとは恐ろしいものだ。男は勤める先で圧倒的な自信、信頼、人脈、人気など、勿論ひとつの実績もなしに得たわけではないそれらを両腕に抱えていた。男は世渡り上手であった。

それをすべて覆してやりたいと願うのが報復である。男の携帯電話は休日だというのに何度も悲鳴を上げていた。痛いほどに。
着信は男の上司からだった。男がブレスを継ぐ前に電子板が叫び出す。あくまで仮初であるその声に肺を貫かれたようで堪らない。
世間は男を、悪と名付けた。

「僕らにはとても分かりませんね。ただ、ご自分でどうにかなさってください」
嫌味を嫌味と悟られず言えないもんかね、と男は内側で毒づく。上司からの着信で、自分の名がSNS上で騒がれていると知った。出社早々あらゆるひとに尋ねてみたが、先程の台詞である。
仕方なく男はノートパソコンを立ち上げ自身の名を検索する。男は楽観的で、大した噂でないと思っていた。ところが実際目にしたのはでかでかとした自分の顔、高校卒業アルバムの写真。添えられていた文章は「許すな」だった。
「これ、何の冗談です?俺の個人情報を流したのは誰なのですか」
「だから、ご自分でどうにかなさってください。僕らはもうあなたに関わらない」
男はそれこそ、冗談だと思った。

どうやら投稿をしたのは、いつも集合写真の枠外で生きていた青年であった。久々に思い出す存在。名前も顔も浮かばないような。行ったことのない店が壊されちまったら、たとえいつも通る道だったとてそこに何があったか思い出せないような。ただ、青年の泣き顔だけはやけにしっかりと脳裏に焼き付いていた。
拡散されている情報は以下の通りである。
「高宮アユムを許すな」
「約十五年前、二年七組にて男子生徒ひとりに暴力暴言を繰り返した」
そして、男ーー高宮アユムの顔写真と勤め先。

男は焦っていた。既にこの情報により同僚や部下たちによそよそしい態度をとられたばかりなのだ。このままでは会社での地位も信頼も失われてしまう。意味もなくページのスクロールを繰り返していたそのとき、画面上でリアルタイム投稿が更新された。
「高宮、出社後パソコンを開き呆然」
男は叫んでしまいそうだった。しかも写真付きだ。誰かが自分を見ている。見ていて、この正義に加担しようとしている。誰だ、と社内を見回すが、全員が目を合わせようとしない。

罪の自覚は薄らあった。それでももう時効だと勝手に思っていた。鳴りやまない通知の音を自傷のように聞きながら目を瞑る。出勤を放棄してから一週間が経とうとしていた。
カーテンの隙間から弱く見える明かりで昼か夜か判断する。このまま自身の候笛を裂いて、優しさすら覚束ないほどの遠くへ逃げてしまいたい。
何故俺だけが。人間なんて一度は意識的にも無意識的にも、ひとをいじめたことくらいあるだろ。画面上では正義ぶって説教なんかしちまって、俺を許せねえかそうかよ、好き勝手言ってくれ。
男はきっと自惚れも言い訳も得意であった。青年のことを気に入らなかった理由ならきっといくらでも思い付く。青年が忘れ物をしても彼の母親が届けに来ていたこと。それを青年が恰も最初から持ってきていたように振舞ったこと。そのくせ真面目なひとと思われて教師らから信頼を得ていたこと。男の人生にはなかったものだ。

通知音は変わらず鳴り響いていた。時々画面を覗いては、死ね!と言われていることにもはや安堵まで覚えるようで、そろそろひとの形を保っているのも限界かもしれない。
「高宮、お前はプロジェクトから除外された。今のお前を使うのは流石に不適切だと、上からの指示だ」
痛みが目に見えないことが、唯一の救いであった。

「確かに俺は貴様らの言う通りの悪だ、今更どう弁解したってそれは変わらない、だが貴様らだって一度はひとを憎んで恨んで蔑んだことくらい!」
ゲオスミン。会社の屋上に入れるのは社員の特権だ。柱に立てかけた携帯がその光でだけ照らされた男を凝視して内通者となる。突如SNSに現れた自殺配信の主は今まさに注目を谷びている高宮アユムそのひとだった。
「貴様ら、俺に死ねと言ったよな。それは俺が彼にやったことと同じじゃないのか?俺は彼が羨ましかった、全世界から愛されているように見えた、俺が必死で学費を稼ぐあいだ、あいつは忘れ物をして笑っていたんだ!」
でも、いじめはよくない。男にはそんなコメントも綺麗事としか思えなかった。
「赦してくれなんて願えないね。俺は彼を殴ったことを後悔していない。懺悔があるとすればここで灯が絶えちまうことくらいだ」
飛べよ、と世間が叫ぶ中男は望み通り飛んだ。生粋の悪役を演じてみせた。男はもうじきアスファルトで死ぬ。

「あっさり死んじゃって、殺されなかったのが悔しいな」
「全然反省してなくって笑っちゃった、だからいじめとか無くならないんだろうね」

解散していく正義の集まりに、ぽつりと表示されたコメントがあった。
「高宮アユム、世界の秘密をたったひとりで背負ったような男だったな」

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