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条件反射で泣けてくる-記憶の補完と保管-

信じてもらえないかもしれないが
私には0歳児の記憶がある。
次に古い記憶が3歳頃。
幼稚園以降はもっと鮮明だ
運動会の練習がきつすぎて
「具合悪くならないかな」と思ったこと、
その年代に見た怖い夢の
内容まで詳細に覚えている。

そんな私だが、幼少期の出来事は
覚えていないことの方がもちろん多い。

少し前、二人の幼馴染のお母さんに会った。
久しぶりに会ったAちゃん母もBちゃん母も
私との再会をとても喜んでくれた。

病気がちだった私は他の子と
同じようにできないことがたくさんあった。
「ウラちゃんもウラちゃんのお母さんも
すごく頑張っていたのよ」
「あの時、ウラちゃんはこんなことを言ってた」
と、いろんな昔話をしてくれた。

どれも私が全然覚えていないことばかり。
でも、その時の私を
こうやって覚えていてくれる人がいる。

そう気づいた時、
「ああ、人はこうやってお互いの記憶を
補完して保管しあっているのだな」と思った。

私には子どもがいないが、
若い頃(暇だったので)、
親戚の子どもをたびたび預かっていた。

彼らと過ごした日々は宝物のような時間で、
今もあの頃のあの子たちの表情や言葉、
喋り方まで鮮明に覚えている。

すっかり大人になった彼らと会い
昔の話になると、
「あの時こう言っていたよね」とか
「こんなことがあったよね」
とつい思い出話をしてしまう。

すると彼らは恥ずかしそうな、
だけどちょっと嬉しそうな顔で
「全然覚えてない」と笑う。

だから私は
「大丈夫、私が覚えているから」
と答えるのだ。

少し前から母が頻繁に
物忘れをするようになった。

孫の発表会や受験合格など
嬉しいことは忘れないが
大変だったこと、辛かったこと
どうでもいいことはどんどん忘れていく。

薬を飲まなければいけないのだが
飲むことを忘れてしまう。
料理も掃除も問題なくこなすが
作り過ぎてしまう。
子どもたちが一緒に住んでいた時代の
感覚に戻っているのかもしれない。

「お母さんが昔よく作ってくれた
イワシの蒲焼き、時々作るよ」

少し前にこう話した時、
母は不思議そうな顔をした。

「そうだっけ? 美味しそうね。
今度作ってみてよ」

あんなに美味しかったのに。
母が作ってくれたものなのに。
母の記憶からは消えてしまったようだ。

夏になると母がよく作ってくれた
ゴーヤの佃煮の話をした時も、やっぱり
「そうだっけ? どういう味? 
どうやって作るの?」と返ってきた。

子どもの頃から苦労続きだった母が
長い主婦生活で培ったたくさんのレシピ。
その一つひとつが母の中から消えていく。

そんな自分を自覚しているのだろう。
みんなで話していると、母は時々
「もうダメね、みんな忘れちゃって」
と自分の頭をコツンと叩く。

そんな時、私の口は勝手にこう言うのだ。
「大丈夫だよ。私が覚えているから」
そうなのだ。
母が作ってくれた料理の味も
そのレシピも
その時の家族の思い出も
母が忘れてしまっても
私たちが覚えている。

記憶というのは、
自分一人のものではないのだと思う。
もちろん、人によって視点が変われば
見えるものは変わる。
だからこそ
記憶は補完するものなのだ。

それは家族の間だけではなく
一緒に時間を過ごした人同士
そうやって生きているのだ。

人は一人では生きていけない
という言葉があるが、
若い頃はあまり好きではなかった。

けれど、今は実感としてこう思う。
「人は一人では生きていない」と。


母自身は親を早くに亡くし
頼れる実家がなかったのに
私が実家で家事をしていると
「実家に来た時くらい
甘えなさいよ」と言う。
「うちに来た時くらい、
私の娘でいてよ」と。

末っ子で病弱だった私は
大切に育てられた。
私の身体を強くするため、
母は料理にかなりの
時間と手間を割いていた。

今でも母にとって私は
「守るべき娘」であり
母は「娘に甘えられる存在」
でありたいのだ。
そう気づいた。

帰る私を見送る時、母はいつも
見えなくなるまで大きく手を振る。
そんな母を見るたびに泣きそうになる。

まさに、条件反射で泣けてくる、である。

私はあと何回、こうやって母に
見送ってもらえるのだろう。
それはつまり、
母はいつまで私を
娘として認識してくれるのか──
ということでもある。

その時がいつか来ることを
覚悟しなければ。
静かにそう自分
に言い聞かせている。




















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