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『伝統』ってそんな大事かな?

『伝統的な~』とか『何百年と続く~だから』とか。

確かに何十年何百年と続く伝統や文化を尊重や重んじたりすることは悪いことではないと思うのですが,それが過剰になりすぎて前に進めなくなってしまっては元も子もないと思うんですよ。

まだカンボジアに在住していた時,友人がカンボジアに来てくれて,いろいろ案内したり話をしたりして良い時間を過ごしたと同時「えー」となってしまうようなことも聞きました。

トップの判断による出来高制?

これはちょっと余談ですが…

僕が聞いたのは,特に公務員・準公務員に与えられている出来高制。

仕事に対する意欲や貢献度、働き方など様々な判断基準があって,それに基づいて評価をABCで付けていくというもの。特にボーナスに大きく反映するようですね。

これだけ聞いたときは「え,めっちゃいいじゃん!やれば上がるんでしょ!」と思ったのですが,そのあと事実を聞いて唖然としました。

『トップが不平等にならぬよう、ABC評価を順番に回している』

簡単にいうと,どんなに一生懸命働いてもサボっていてもAの時もあればCの時もある。理由は,不満を抱だかせないためと公平さを保つため。

もちろんすべての会社がそうゆうようにしてるわけではないと思いますが,それを聞いたときは正直「は?」ってなりました。

だってサボっていても順番が来たら,A評価もらえてボーナス1番高いんですよ。その時一生懸命働いた人はどう思うんですかね。それこそ不満を彷彿させるだけだと思うのですが…


僕の友人は,とある地域の新設学校に勤めていて,カリキュラムから何から何まで1から作らなければならないという学校だそうです。

もちろん国から定められているものはありますが,その学校独自の指導を生み出すために日々奮闘しているとのことでした。

僕はなんて幸せな職場で働いているのだろうと思いました。

1から作り出すことに携われるなんて!!

と思い話を聞いていたら,友人からこんなことを言われました。

友人「同じ地域に専門が同じ学校があるんだけど,そこと協力して色んな事をしたいと思ってアポ取ったんだけど断れちゃって…」

G「え?なんで?」

友人「当校は伝統ある学校で既に行事等も決められているのでって』

・・・はぁ!?

と正直なりました。

せっかく新しいことを取り入れられるチャンスがあって,そこ繋がりも出来るというのに,『伝統』があるからという理由で無下にするなら、はっきり言ってその伝統いらなくない?と思っていまいました。


◎『伝統』のベクトルは誰に向いているの?
僕が言いたいのは,その『伝統』というのは,生徒のためなのか学校のためなのかということです。

学校というのは,社会に送り出すために在るはずなのに,他の者との交流を極端に遮断したりしてるようにしか思えません。

実際に,学校祭や文化祭で他校の生徒は入場禁止とか親御さんですら事前に申請をしなくてはならないといったとこもあります。

これは問題を起こさないようにトラブルを起こさないようにしているんだと思うんですが,本当にそうでしょうか。

問題が起きれば事情はどうあれ「〇〇学校は~」というようになってしまうのを恐れているだけなのではないか。そう思います。

そうなったら完全にベクトルは生徒ではなく学校を守るためですよね。


確かに『伝統』通りや学校内で事を済ますことが出来たら,問題は少ないだろうし,スムーズに運べると思います。

でも,生徒のためを思うのならば,多少のリスクはあっても,新しいことに挑戦し,新しい行事,新しい取り組み,新しい繋がりを得た方が生徒の糧になるのではないか。

生徒の可能性,個性を見出し伸ばしてあげなきゃならないのが学校教育なのに,その学校がその可能性をつぶしてしまう。本末転倒ですよね。

今回は学校のことでしたが,どの職業にも言えるのは,伝統とか文化とか規則とか風習とか,確かに守らなければならないことはたくさんあると思うけど,時代が流れているこのご時世『今まで通り』だと掴めるものも掴めなくなります。

つい最近,相撲でもこの伝統関係で問題ありましたよね。『伝統』と『人の命』を天秤にかけるという

常により良いものをアップデートしていかないと,時代に取り残されてしまいかねないし,守れるものも守れない。

僕も日々アップデートするよう心がけています。昨日の自分を越えるため。

サポート頂けたら,飛んで喜びます。語学に関してどんどん執筆していくのでよろしくお願いします!