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【掌編小説】臆病な私は、靴を脱ぐ

「笹谷は土足で人の心に踏み込まないだろ。そこに安心できたんだよな」

 その言葉は、わたしに緩やかに、それでいてほどけないようにしっかりと絡みついた。
 そんな風に言われてしまうと、わたしはこの場所から身動きが、取れない。


* * *

 席替えで席が前後になったことをきっかけにして、わたしは伊方と仲良くなった。好きになるまでに、時間は掛からなかったと思う。

 わたしの席の前だった伊方が、席に座ったまま上半身をわたしの方に向けるとき、机の上に置かれる左腕が特別なもののように思えて、触れたい気持ちを抑えるのに必死だった。

 わたしのものとは全然違う、ごつごつした手の甲が、男らしく見えてドキドキする。

 交わされる会話は、本当にささやかなものばかりで、女友達と話すくだらない内容と大差がないのに、話している最中、わたしはいつもふわふわと夢心地で、それでいて伊方の声に全神経を集中させていた。


 たぶん、その頃、わたしはクラスで1番伊方と仲が良かったと思う。


* * *

 伊方がゆづきのことを好きなのかもしれないと気づいてしまったのは、いつも伊方を見ているわたしにとって、当たり前のことだった。
 それに、ゆづきはわたしが1番仲の良い女子クラスメートだから、自然と伊方と3人で盛り上がることが多かったのだ。


 ゆづきはかわいい。
 顔がちっちゃくて、色が白くて、手足がすらりと長い。
 化粧っ気がないくせに、化粧をしているようなくっきりとした目鼻立ちをしている。それなのに、性格はさっぱりしていて、気取ったところがない。

 入学当初、高校入学で浮かれたノリと勢いで、ゆづきに一目惚れをした男子が何人か告白してきたことがあったらしい。そんな少女マンガのようなことを聞いても、「そうだろうなあ」と素直に納得できる。

 わたしが男だったら、好きになったんじゃないかと思う。実際に、友人として、わたしはゆづきのことが大好きだ。


 伊方は、ゆづきに話しかけるとき、わかりやすく目が優しくなった。声色が少しだけ高くもなった。そうした小さな変化に気づいてしまう、自分が悲しかった。

 胸の中にざわざわしたものを感じながら、わたしは2人の間にいて、いつでも、ちょっぴり大げさに笑っていた。


 目の前に伊方がいるのに、伊方の腕があるのに、手があるのに、わたしはそのどれにも触れることができない。

 伊方はルックスがかなり良いわけではないけれど、背が高くて、切れ長の目が涼やかで、鼻筋が通っていた。あごがシャープで、わたしにとってはルックスも好みのど真ん中だった。

 だからということもあるけれど、伊方とゆづきは、わたしから見るとお似合いのカップルに見えた。ゆづきも、伊方と話している姿は楽しそうで、わたしは胃と心臓がねじられたような痛みを抱えながら、2人がうまくいけばいい、そう思った。
 何より、伊方が笑っている顔を、わたしはずっと見ていたかった。


* * *


 帰りの電車が一緒になったとき、伊方にカマを掛けた。ゆづきのことが好きだということを、確かめておきたかった。できれば、1日でも早く。わたしがこれ以上、伊方のことを好きになってしまう前に。

 右手でつり革をつかんで、脱力したように体をブラブラさせていた伊方は、わたしのカマ掛けに、悲しくなるほどうろたえた。

「え、ちょっ、なんでわかったの!?」
 見る見るうちに頬に赤みが差していく。わたしは震えそうになる唇を上に持ち上げて、
「わかりやすすぎ。絶対他にも気づいている子、いると思うよ」
と答えた。
「相談とか協力、してあげよっか?」
「マジで」
「すでにいい感じに見えるけどね。がんばって告りなよ」
「いや、無理。今はまだ無理」
「そんなこと言って。ゆづきモテるんだからね。知らない間に誰かとつきあっちゃっても知らないよ」
「えっ、白河って好きなやついるの?」
「知らない。聞いたことはないけど」
 はああ、と無意識に出たのだろう大きなため息に、わたしは胸が痛くなりながらも、あたたかい気持ちになる。

 ああ、本当に、ゆづきのことが好きなんだなあ。

 一瞬見せる優しい笑顔は、きっとわたしに向けられることはないのだろう。
 鼻の奥がツンと痛む。
 電車の揺れに任せて、伊方の腕に触れてしまいたかった。


* * *


 伊方は振られた。予想外だった。
 振られた話は、ゆづきではなく、伊方から聞いた。伊方は、
<振られた>
とだけ連絡を送ってきたのだ。

 わたしはその文字を見てテンパってしまった。
<え、何、嘘。ほんとに?>
<ほんとに。俺、自信過剰だったっぽい。ダセえ>
 文字が痛々しい。スマホを持つ手の温度がどんどん冷えていくのを感じる。
<理由、聞いた?>
<なんか、付き合うことに興味がないらしい>
 わたしが返事をする前に、
<ま、そういうことだから>
と、無機質な文字が画面に現われた。

 教室で、わたしが伊方と話しているとき、ゆづきはこちらに来なくなった。ゆづきと話すときは、わたしがゆづきの元へ行く。

 ゆづきは、本当に付き合うことに興味がないらしかった。
「男子を好きになるっていうことが、そもそもよくわかんないんだよね」
 そう言って、あっけらかんと笑った。
「でも、いい雰囲気に見えてたけど」
「んー、友達としては好きだよ。でも、恋愛としてはよくわかんない」
 ゆづきはそう言うと、
「男の人自体が、元々苦手なの。親の件もあって」
と続ける。ゆづきの家は母子家庭だ。父親の記憶はない。ただ、母と祖父母の話では、相当ダメな父親だったらしい、とゆづきから聞いていた。
「男は~って、言われ続けてきたからね。抵抗感があることも事実かな」
 何も言えなかった。ただただ、悲しかった。

 いてもたってもいられない、とはこういう気持ちのことを言うのだろう。わたしは席に戻ると、思い切って伊方の肩をつついて、
「吐き出したいときは、言って」
と小声で言った。
「溜めとくのって、心に良くないから。事情知ってる人間だから、吐き出しやすいでしょ」
 伊方はほんの少しだけ目を見開くと、すぐにふだんの顔つきになった。そのあと、ほどなくして、
<ありがと>
とスマホに文字が浮かび上がった。


* * *


 わたしは、全然知らなかった。

 ゆづきが、伊方のことを振ったのは、ただ「付き合うことに興味がない」だけじゃなかったことを。

 ゆづきの友達が、伊方のことを好きになっていたということを。

 そのことを、ゆづきが聞かされていたということを。

 伊方がゆづきに振られてから、その子が伊方に告白していたということを。

 伊方がその子を振ったあと、その子から暴言を浴びせられていたことを。

 ――わたしは、何にも知らなかった。


* * *


<笹谷は土足で人の心に踏み込まないだろ。そこに安心できたんだよな>

 そんな言葉がきたのは、伊方からぽつぽつと気持ちが吐き出され始めてから、しばらくあとのこと。

<あいつは、かなりの勢いで踏み荒らしていってくれたからさ>

 あいつとは、伊方に告白して振られた子のことだ。

 確かに、彼女は「何て馬鹿なことを」と思える言葉を伊方に投げつけていった。踏み荒らす、という表現が、しっくりくるくらいに。

 ――でも。

<笹谷のそういうところ、いいよな>

 ――でもね。

<吹っ切れてはないけど、とりあえず落ち着いてきた気がする。ありがとう>

 わたしは、ちょっと、彼女のことが羨ましい。

 自分が嫌われることが怖くて、何でもいいから近づきたくて、連絡をしてきて欲しくて、繋がっていたくて、だからわたしは、土足でなんか、そもそも入ってなんかいけないんだ。

 計算をして、自分が好かれるようにだなんて、考えることもできない。ただ、今の伊方を楽しい気持ちにさせたかった。笑っていて欲しかった。

<笹谷も何かあれば言ってきていーよ>

 ……わたしは、伊方が好きなんだよ。

<ありがとー。何かあったときは遠慮なく頼らせてもらうね~>

 心臓の奥が痛くて、泣きたいのに泣けなくて、下唇を噛みしめる。

 ――伊方が好きなんだよ。

 ひとり、自室でデスクに突っ伏して、気持ちを堪える。これ以上、気持ちを大きく育てたくなんかなかった。表に出てきて欲しく、なかった。


 いい人、いい友達、そんなポジションを願っているわけじゃない。
 でも、せめて、女子の中で伊方と1番仲が良い、今の立ち位置にい続けたかった。


 だから、わたしは、靴を脱ぐ。靴を脱いで、揃えて、ノックをして、丁寧に中へとお邪魔する。


 そのことが、どんどんわたしを「女友達」にしてしまうのだとわかっていても。

 わたしは、そろそろと震える手で伊方の心に触れることしか、どうしても、できないんだ。


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