「いい」が指す条件の曖昧さ
オリエンタルラジオの中田敦彦さん(あっちゃん)の、「いい夫やめます」という記事を読んだ。
記事はこちら。
妻がほかの女性たちと話す中で「いい夫」比較をしてしまい、求めるラインがどんどんうなぎのぼりになってしまっていたのでは、と。
妻のために求められることに応えてきたのに、結果的にそれが妻の中で「当たり前」になってしまい、夫婦にとってよくなかったのでは、と。
カウンセリングを受けてみたら、自分自身にもストレスが溜まっていたことに気づいたのだそう。その結果、「いい夫を、いい夫であろうとすることをやめた」という記事だった。
人は与えられるものに対して鈍感だ。ありがたみは薄れ、感謝をいちいちしなくなる。しないだけならまだしも、当たり前のものと思うようになる。結果、「してくれない」ことに不平不満を述べるようになる。
感謝されるためにしていない人であっても、することが当たり前とされ、しなかったときに文句を言われるようになればイラッとくるだろう。見返りとして感謝を必要としていた人であるならば尚更だ。
そこの点はよくわかるし、身につまされる部分もあった。「もっと、もっと」と夫に求めるものが増えていってしまう部分は否定できない。
ただ、これは「いい夫」を求めてのことではない。そもそも「いい夫」という漠然とした表現が、「結局、どんな夫なんだ?」となる。仕事もして、家事も積極的に分担し、子育てにも参加する。それが「いい夫」?
相手に求めたい「何か」は、夫・妻ともに違うものだ。あっちゃんの件では、そこにズレが生じていたのかもしれないなあ、と思う。
「ほら、やさしいでしょ?」「親切でしょう?」とイケイケどんどんとプッシュしても、相手が欲しているものと食い違っていたら、あまり大きな喜びにはならない。
嬉しいなと感じても、「ちょっと違うんだよなあ」という残念感が芽生えるものだろう。場合によっては、「いや、それは大きなお世話だよ」となることだってあるのでは。「いい夫・妻」は自称に過ぎず、自己満足でしかなかった、なんてことだってあるだろう。
相手にとって何が必要か、何をすれば喜んでもらえるのか。こうしたことを考えるのは、別に夫婦じゃなくたって大切にしたいものだと思う。いや、夫婦だからこそ難しいのだろうけれど。
そして、もちろん、大切にしたいのは欲している側の伝える努力もだ。推察する努力と伝える努力はセットだと思っている。
ただ、ややこしいなと思うのは、必ずしも夫なり妻なりが、自分の不満や欲している部分について、明確に言語化できているとは限らないところだ。
だから、何となくモヤっとする。何となくイライラする。「何となく」だから相手にも伝えられない。「なんで?」と問われても答えられないから。
わたしにもこの「モヤッと」があったから、その正体を悶々と考え続けていた。たとえばわたしは夕方から夜まで毎日ひとりで家事育児を担っているのだけれど、果たしてそれが不満の元凶なのか?と問われたら、NOだと思う。
今後もし転職するのであれば、こうしたことを改善できる仕事も選択肢に入れてほしいと思うけれど、現状では仕事なのだから仕方がないと思っている。
わたしの場合は、夫の子育てへの当事者意識の欠如が不満の元だった。具体的に言えば、「脳みそを使う部分への無関与」だ。
たとえば、子どもに関する書類の記入、提出、期限の把握。集金の用意。持たせるものの把握、準備、そしてそれを当日持たせること。行事や病院のスケジューリング、そしてそれらの参加(通院)。
わたしなんかは適当だから、基本的に子どもがやれるものは子どもに振りまくっている。だけど、それでも、わたしに降りかかるものは多いし、重たい。
「こなせばいい」タスクとは違い、育児には試行錯誤をして悩んで決断しなければならないことも日常的に起こるから、それをひとりで担っていると疲弊するのは当たり前だろうと思う。
夫は、そこのところがやっぱり足りない。自分がやれなくてもわたしがいると思っている節があるし、どう子どもと接すればいいのか悩んでいても、「一緒に考える」ことは正直いって、ない。
この、「一緒に課題に向き合う」心構えをわたしは欲していて、そこが足りないから不満が消えないのだなあというのが、現時点での結論だ。
このように結論が出ているのであれば伝えるべきだろう。夫に変化を求めるのであれば。伝えた上で変わらないときには「もう!」と思ってもいいと思うけれど、伝えずに「もう!」と思っているのは、悪循環しか生まないから。
ただ、伝えたら変わってくれるものとは思わない方がいい。受け取ってどうするのか決めるのは相手の自由だからだ。その答えによって、また自分の出方を決めればいい。別れることだって、選択肢のひとつだ。
「いい」夫や妻なんて、そんな曖昧なものは、どだい目指せないものなのではないか。みんなに「いい夫・妻だねえ」と思われている人のパートナーは、「いや、でもね」の気持ちを抱きづらくなるようにも思う。まるで自分が贅沢やわがままを言っているように思えてしまうから。……贅沢ではなく、「そこじゃないんだよなあ」のギャップが原因なだけかもしれないのに。
あと例の記事を読んで思ったのが、向いているベクトルだ。カップルのときは互いを見つめていればいいけれど、夫婦になったときにうまくいくのは、見据える先に同じものがあることだと聞いたことがある。
わたし個人は、背中合わせで別の方を見据えている夫婦も素敵だなあと思えるのだけれど、どちらにせよ、相手だけを見つめているのではうまくいかないのでは?と思う。
見据える先は何でもいいけれど、子どもがいるのであれば、「子ども」を見つめることは非常に大きなポイントだ。ここがズレてしまい、子どもではなく妻ばかりを見て家事育児をしている男性は少なくないのではないだろうか。あっちゃんがどうであったかはわからないけれど。
正解は各家庭、各夫婦ごとに異なるし、ようやく見つけた正解だって流動的に変わる。子育てが絡んでいれば、子どもの成長とともに抱える課題も様変わりする。
いい夫、いい妻、いい夫婦。これらは、「一般的」とか「客観的」という視点からではなく、当事者である自分たちにとっての「いい」を模索するなかで見つけられたらいいな、といった類のものだ。「いい」が指す条件の曖昧さに捕らわれて苦しむ羽目になるくらいなら、目指さなくてもいいと思う。(特に完璧主義者は、あえてその思考を手放す方が追いつめられなくていいと思う)
「これでいいはず」と思い込んで止まらずに、柔軟に思考と行動を変えていけること。これが大切なのかな。縁あっての夫婦なのだから、互いが考え続けられる間は、何とか進んでいけたらいいと思う。
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