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和魂洋才を、禅とデザインで試みる。 #282

今回の記事は、パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designの卒業制作で私が何をしているのかについて書いてみます。というのも、約二週間後に中間発表を控えていて自分の卒業制作の内容や目標を言語化する時期だからです。もちろん中間発表では英語で説明することになりますが、その準備として日本語で自分がこれまで調べたり考えたりしてきたことを整理しておきたいと思います。「Transdisciplinary Designってこんなことするのね」という参考にもなれば幸いです。

背景:Attention Economyの誕生

Attention Economy(注意経済)という言葉は、デザイン科学の提唱者として有名なハーバート・サイモンが1969年に提案しました。マイケル・ゴールドハーバーが1997年にこの言葉をあらためて取り上げたことで、広く知られるようになったとされています。

What information consumes is rather obvious: it consumes the attention of its recipients.(情報が何を消費するかは明らかである。それは情報の受け手の注意である。)

Simon 1971, pp. 40–41.

2007年にiPhoneが発表されてからは彼らの予言が現実のものとなっていき、2023年現在ではスマートフォンは生活必需品と言えるまでになりました。一方で、Doomscrollingという言葉が生まれているように、スマートフォンを使いすぎてしまうことによってメンタルヘルスを損なう恐れがあると人々は気づき始めました。

スマホの中毒性を何よりも象徴するのが、スティーブジョブズは自分の子供たちにiPhoneやiPadを使わせていなかったという逸話。iPhoneの開発者もスマートフォンの魔力には後になって気づいたそうです。

https://www.cultibase.jp/articles/4710より孫引き

こうした状況を踏まえて、対策を講じる動きもあります。たとえば、脱注意経済的なコンセプトのデザインの例としては、Calm Technologyが挙げられます。mui LabではCalm Technologyの専門家であるAmber Caseにアドバイザーとして参画してもらいながら、AmazonのAlexaと連携可能でありながら日常生活に馴染むように工夫された「muiボード」などのプロダクトを提案しています。

GoogleではTristan HarrisがDesign Ethicist(デザイン倫理学者)に就いた過去もあります。彼はTED Talkでも「いかにテックカンパニーが人々の注意を奪っているのか」を説明しています。

Facebookではフランシス・ホーゲンが「Facebookのアルゴリズムは怒りを増幅するコンテンツを選ぶよう操作されている」などの内部告発をしました。

この告発に応じて、バスボムで有名なLUSHはFacebookやInstagramなどのSNSから撤退することを表明しました。2021年11月26日以降、LUSHのアカウントは維持されているものの一部のSNSは未だに更新されていません(2023年2月現在)。

「私は生涯をかけて、人に害を与えるような原材料を商品に入れないようにしてきました。SNS利用時に私たちが危険にさらされているという証拠が、今や数多くあります。私は自分のお客様をこのような環境にさらしたくありません。今こそ行動を起こすべき時が来たのです。」

マーク・コンスタンティン(共同創立者兼商品開発者)

SNSと距離を置くように唱える本も数多く出版されています。私が読んだ本で言えば、『何もしない』や『デジタル・ミニマリスト』などはSNSから離れる時間の過ごし方を提案しています。

つまり、GoogleやFacebookのようなテックカンパニーの内部からも疑問の声が上がり、一部の企業はテックカンパニーのサービスを利用しないと表明し、ユーザーに脱SNSを勧める有識者も現れています。科学的にもSNSには中毒性があることが明らかになっているものの未だに目立った対策はされておらず、SNSとの付き合い方は個人の判断に任せられているというのが現状です。


倫理的なデザインとは?

「デザイナーがデザインしたプロダクトをどう使うのかはユーザー次第」というのはあまりにも無責任な印象です。製造者責任法もあることですし。なによりデザインを学ぶ学生として、デザインが「悪用」されている現状を見過ごすわけにはいきません。ちなみに、デザインを悪用してユーザーにとって不利益を与えている例をDark PatternDeceptive Designなどと呼ぶこともあります。

もちろん、デザイナーがデザインをどのように使うのかについて責任を持つべきであるという主張はすでになされています。たとえば、Ontological Design(存在論的デザイン)などは、"we design our world, while our world acts back on us and designs us"(デザインされたプロダクトが人間をデザインし返す)ということを指摘し、デザイナーの責任を問うています。

人間はデザインする側? される側?

また、Design Justiceという言葉もあるように、デザインの倫理が問われるようになっています。Design Justice Networkでは、デザイナーが意識するべき原則としてDesign Justice Principlesを提唱しています。

By Design Justice Network 
https://designjustice.org/news-1/2021/philanthropy-workshop

Transdisciplinary Designでもdecolonaization(脱植民地化)やJustice and Equityのある未来を目指すといった議論は頻出です。デザインを「お金儲け」のためだけでなく、社会正義や社会的イノベーションのために使うことが奨励される雰囲気があります。

ただし、ここで問題となるのは「倫理的であるとは何か?」ということ。倫理的な問題が難しいのは倫理的かどうかを決める基準がないからです。安楽死の是非など、どちらが倫理的であるかの賛否が分かれるからこそ難しいのです。

科学技術やデザインは不可能を可能にします。しかし、実現可能であることと実現するべきかどうかは別問題です。ただ、科学技術やデザインはあくまでも中立であり、それをどのように使うべきなのかまでは教えてくれないのです。では、どうすればデザインを倫理的に使えるようになるのでしょうか?


先人たちの知恵として仏教を参考にしては?

そこで、私が提案するのは「先人たちの知恵を借りればいいのではないか?」というアイデアで、先人の知恵として仏教はどうだろうかと考えています。仏教、特に禅を選んでいるのは日本人の私が当事者として採用しやすい(文化の盗用になりにくい)からという理由もあります。

しかし、おそらく私が恐れているのは最近のバズワードを採用して「これが倫理的だ」と見なしてしまうことだと思います。極端な例かもしれませんが、過去には優生学が「科学的」であるとされていて、遺伝的に「劣っている」とされる属性を持つ人の自由を奪うことが「倫理的」とされていたケースもあります。つまり、未だに賛否両論ある価値観を基準に採用することは長い歴史を踏まえると誤りである場合もあるということです。だからこそ、2500年以上の歴史の風雪に耐えて倫理的である(とみなせる)仏教を参照することを提案しています。

仏教とデザインは関係あるのかという疑問があるかもしれませんが、横山紘一の『唯識の思想』を読んでいて菩薩の定義を見つけた時、私は「仏教とデザインは同じ」と思いました。菩薩とは仏教における理想の状態の一つですが、以下のような悟りを求めようとした人を指すそうです。

上求菩提(じょうぐぼだい):悟りを得ようという請願
下化衆生(げけしゅじょう):苦しむ人を救うという請願

『唯識の思想』236ページ

これはデザイナーがリサーチをすることと解決策をする提示することと同じように思えます。ということで、「デザイナーは菩薩」説を勝手に唱えてみます。

仏教の教えをデザインに活かすなら

仏教の教えはあまりにも広範なので、まずは一部でもデザインに取り入れることを考えてみることにします。たとえば、仏教には仏教徒が守ることが推奨されている五戒というものがあります。

1. 不殺生戒(ふせっしょうかい)- 生き物を故意に殺してはならない。
2. 不偸盗戒(ふちゅうとうかい)- 他人のものを盗んではいけない。
3. 不邪婬戒(ふじゃいんかい)- 不道徳な性行為を行ってはならない。
4. 不妄語戒(ふもうごかい)- 嘘をついてはいけない。
5. 不飲酒戒(ふおんじゅかい)- 酒類を飲んではならない。

この五戒を参考にして注意経済におけるデザインの使われ方が倫理的でないと説明するならば、「人々の注意や時間を奪っているから(2. 不偸盗戒)」とか「人々をSNS依存症にするから(5. 不飲酒戒)」などと言えるかもしれません。

人間の煩悩を表す三毒も参考になります。三毒とは人間が苦しむ・幸せになれない理由を分類したもので、貪瞋痴(とんじんち)の三つからなります。
SNSは承認欲求や物欲を過度に刺激している(貪)、Facebookの告発のように怒りや対立を煽っている(瞋)、フェイクニュースや陰謀論などを拡散している(痴)などと言うことができるでしょう。

このように倫理的かどうかの基準を仏教に求めることで、デザイナーの主観で判断するよりも客観的な基準に沿った判断ができるようになるのではないでしょうか?


方法論をデザインしてみる

ここまでは「仏教に基づいて倫理的なデザインの使い方を考える」というコンセプトを説明してきました。では、どのようにして仏教の考え方をデザインに取り入れればいいのでしょうか? 以下にそのプロセスを5ステップに分けて定義してみました。

1. デザイナーの一部が仏教を体験する機会を設ける
デザイナーが「倫理的とは何か?」を考えるために、社外(今回の例ではお寺など)に通うようにします。全てのデザイナーに課すのは非現実的なので、一定数の参加者で十分であるとします。

2. 一定の修行をしたデザイナーが倫理規定を考案する
一定期間の修行を経て仏教における倫理観を学んだデザイナーは、デザイナーの視点から仏教を解釈し、仏教を同業者であるデザイナーにも分かる形で伝えるために倫理規定を作成します。

3. 倫理規定に基づいてプロダクトをデザインする
社内で倫理規定を共有し、社内のデザイナーは倫理規定に沿ってデザインするようにします。分かりにくい部分は修行済みデザイナーと相談しながら進めます。

4. プロダクトが倫理的かどうかを僧侶に問う機会を設ける
完成したプロダクトを僧侶に見せて、フィードバックをもらうようにします。僧侶がプロダクトが倫理的であるかどうかを判定するわけではありませんが、アドバイザーとして参加します。

5. 必要に応じて、倫理規定およびプロダクトを改善する
得られたフィードバックをもとにプロダクトを改善したり、必要ならば倫理規定に遡って改善をします。

卒業制作としてできる範囲は?

以上が私が提案する「仏教に基づいて倫理的にデザインをする方法論」です。卒業制作としてはこの方法論のスモールバージョンを試す予定です。以下にその概要を書いてみます。

・私はTransdisciplinary Designを専門にする学生でありながら、昨年11月からNew York Zen Center(NYZC)で禅を毎週体験している。今後インタビューも実施しながら、禅とは何かを学ぶ。(ステップ1)

・仏教関連の本やNYZCでの学びを基にデザイナーが参考にするべき倫理規定を作成する。(ステップ2)

・デザイナー(パーソンズ美術大学の学生?)を招いてワークショップを開催し、仏教に基づく倫理規定を見てもらう。ワークショップではこの倫理規定を満たしている既製品の例を挙げてもらったり、実際にプロトタイプをつくってもらったりする。(ステップ3)

・ワークショップの結果をNYZCの方に共有し、仏教・禅的な考え方と矛盾していないかなどの聞き取りを行い、倫理規定の妥当性を検証する。(ステップ4、5)

このようにデザインと仏教の間を取り持つ存在として私を実験台としながら試してみる予定です。現時点ではステップ2の途中ぐらいでしょうか。最終発表まで残り10週間程度とできることは限られていますが、やれるところまでやってみます。

もしもこの方法論が上手く機能すれば、テックカンパニーも倫理的なプロダクトであるというブランディングになるし、ユーザーも安心して利用できる。さらに、仏教が望む世界も間接的に実現していくことになる。関係する全てのステークホルダーの利害が一致するシステムが構築できるのではないでしょうか? なんだか楽観的すぎる未来予測ではありますが、そのための一筋の光となるような卒業制作に仕上げていきたいものです。


まとめ

今の自分が考えていることは一通り言語化できたと思います。まだ進行中のプロジェクトなので論理的な飛躍や考え切れていない部分も多々ありますが、私のやっていることが伝わっていますでしょうか?

Transdisciplinary Designerとして、デザインと仏教という一見すると相容れない領域を結びつけるプロジェクトにしていきたいです。私はデザインも仏教も専門家と言えるほど詳しくないかもしれませんが、両者ともに興味がありどちらにも足を踏み入れている当事者として、お互いが相乗効果をもたらす関わり方を模索してみます。

この卒業制作がきっかけで「デザイナーだったら仏教・禅は必修だよ」という未来がいつの日か実現でもすれば、デザイン界における日本・日本人の地位も向上するのではないかといった淡い期待もしてみたり。西洋由来のデザインを私のような日本人が使いこなすには日本文化の根底にある禅の精神を融合させる必要がある、という仮説のもとに引き続き取り組みます。

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