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What is my voice? #249

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designの『Professional Communication』という授業の中で、"Voice"と題した自分の心の声に耳を澄ませるパートも今回で最終回。今週も「自分らしさをポスター1枚で表現する」という課題である。ポスターには自分が(人生で&修士論文で)取り組みたいテーマと、そのテーマに取り組む方法の2つを記載する予定である。

How to stay sane in an insane world

まずはテーマについてだが、これは"How to stay sane in an insane world"で以前から一貫している。

資本主義と注意経済

私は社会トピックの中でも特に資本主義に興味がある。多くの国が資本主義を採用しており、基本的には資本主義社会の中で生活を送ることになる以上、「資本主義とは何か?」「資本主義社会でどう生きていけばいいのか?」といった疑問を抱き続けている。

近年ではAttention Economy(注意経済)なる言葉も注目を集めている。私はジェニー・オデルによる『何もしない』でこの言葉を初めて知り、『デジタル・ミニマリスト』でも取り上げられていたことで、さらに興味を持った。

ミクロレベルでは自分の生活費を確保するために、マクロレベルでは経済成長のために自分の人生を捧げなければならないのが資本主義である。やるべきことがあるのにダラダラとSNSを使ってしまうことを促すのが注意経済である。

ただ、「資本主義や注意経済をやめよう」という運動がしたいわけではない。完璧な社会システムなどは存在せず、必ず何かしらの不備があるものだ。たとえ不備がない社会システムが存在するとしても、その社会システムが自分に合うものであるとは限らない。

社会をより良くする努力はもちろん大事だが、むしろ私が興味があるのは「資本主義&注意経済の世界の中で、自分の考え方や生き方をどうアジャストすればいいのか?」という問いだ。未来の社会を考える前に今の自分をどうするべきかを知りたい。


マインドフルに生きる

様々な社会問題の中から資本主義&注意経済をピックアップしたが、こうした社会問題を想定した中で自分の人生をより良くするにはどうすればいいのだろうか? 資本主義に起因すると思われる”Hustle Culture”がうつ病や燃え尽き症候群をもたらすというのも扱いたいテーマである。

この問いに対する回答の一つとして、マインドフルネスやミニマリズムが役立ちそうという直観はあるのだが、その論理的な説明はできないでいる。マインドフルネスもミニマリズムも自分の注意をどこに向けるのかを扱っているという点で注意経済への反逆の活動と言えそうではあるが、まだリサーチが必要だ。


無用の用

ここまでの取り組みにおいて大切になりそうなキーワードが「無用の用」である。英語だと"The usefulness of the useless"などと表すそう。老子の言葉とされており、「役にたたない実用性のないようにみえるものに、実は真の有益な働きがある」という意味である(コトバンクより)。ちなみに、「無用の用」の大切さは『何もしない』で繰り返し引用されてもいる。

資本主義では生産性や効率が重んじられる。注意経済ではフォロワーの数がその人の価値と同義になる。そんな風潮の中では無駄に見えるかもしれないが実は自分の人生を生きるという観点から言えば有意義であるという時間の使い方はどんなものかを考えてみたい。

ただ、「自分にとって意味のある、有意義である」とは何を指しているのだろうか? この答えは誰かから与えられるものではなく、自分自身で考えなければならないだろう。だからこそ、自分の時間や注意を自分のために確保するのが重要になる。そのための手立てを修士論文で考えていきたい。


方法論に抽象化してみる

ここまでをまとめると、資本主義(特に注意経済)の社会ではマインドフルになる時間が必要なのではないかという話であった。次に、ここまでのプロセスを抽象化して方法論(のようなもの)を考案してみる。

Lifestyle as Art (Social Practice)

ここまでのプロセスを抽象化すると、「世界を変えたいならば、自分の生き方を変える」ということになるだろうか。ある特定の問題を解決したとしても、まだ別の問題は残っているし、新しい問題も次々と現れるのがこの世の常。もぐら叩き、いたちごっこに終始することになる。

であるならば、「問題を解決することも大事だが、問題とともに生きる術を考えるべきではないだろうか?」というのが提案するアプローチである。従来のデザインが問題解決を志向するのに対して、問題との共存を目指すという違いがありそう。

そこでは、どんな生き方が自分にとっても社会にとっても良いのかを自ら考えることが大事である。この「社会に目を向けながらも自分の生き方を磨く」という方法を”Lifestyle as Art (Social Practice)”と名付けてみる。芸術を通して社会問題にアプローチすることを「ソーシャル・プラクティス」と呼ぶことがあるそうだが、そこから拝借した命名である。


Autoethnography as Design

さて、自分の生き方を自分にとっても社会にとっても良いものにしていくだけでも十分ではあるが、そんな生き方を自分だけで独占することなく他の人にも共有する方法も考えてみる。その方がより良い社会の実現は近づくだろう。

でも、どうすれば「生き方」を他人と共有することができるのだろうか? そもそも他人に自分の思いや考えを伝えることはできているのだろうか? 『意識と本質』で触れられていた言語による対話可能性などにも話は及ぶのかもしれない。

ただ、人間同士が頭の中をできるだけ正確に共有し合うためには言語を使うのが最も効果的だろうと仮定しておく。自分がこうして文章を書くということが好きなのもあり、生き方を文字によって表現することを扱ってみたい。新しいテクノロジーを使った手法はこの先も残り続けてくれる保証はないので、文字に残すことが長い目で見ればいいのではないかと思ったのも理由の一つである。

では、生き方を文章で記録するとはどうすればいいのだろうか? その記録を読んだ人が実践しやすいように必要な工夫とはなんだろうか? そんな問いと向き合っていくことになるだろう。こうした問いに自分なりの答えを見つけ、実際に誰かの(自分の?)生き方を記録することが一つのアウトプットとして形になるかもしれない。

そして、こうした誰かの生き方の記録を知ることをきっかけに、別の人が生き方を省みる。この「自分の生き方をまとめた記録が他人の生き方に影響を及ぼす」という方法を”Autoethnography as Design”と名付けてみる。

不射の射

ここで大切になるキーワードは「不射の射」だと思う。ちなみに、私は『オデッサの階段』というテレビ番組で紹介されていて初めて知った。『列子』の「弓を持たずして鳥を射とめてしまう弓の達人」の逸話に由来し、「真の行いはなすことなく、真の言葉は言うことなく」という意味である。

「不射の射」をデザインに応用すれば、プロダクトやサービスをデザインすることで他人の考え方や生き方を変えるという従来のデザインとは異なるデザインが生まれそうである。

先ほどの”Autoethnography as Design”で言えば、ある人の生き方を記録して他の人がそれを知れる状態にしておく。その記録を読んでその人の生き方に共感して生き方が変わったならば、それは他人の考え方や生き方をデザインしたと言えるのではないだろうか。

このように、社会を真正面からデザインすることなく結果として社会をデザインするというアプローチを探求してみたい。「真のデザインは、デザインすることなく」というのが私が理想とするデザインかもしれない。


まとめ

注意経済にマインドフルネスで立ち向かう生き方を選び、そのプロセスを記録するというテーマの修論になりそうだ。まだ具体的に何をしていくのかは決まっていないし論理的でない部分も多々あるものの、全体像や方向性は少しずつ固まってきた気がする。

また、「無用の用」や「不射の射」などの東洋的(道教的)な思想に基づくデザインを模索することになりそうである。もしかすると、西洋的なデザインとは異なる新たなデザインになる可能性を秘めているのかもしれないという期待もしつつ、引き続き取り組んでいくつもりだ。

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