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わかりあえない。わかりたくない。でも、わかってほしい。 #241

『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』を読んでの感想を書いてみる。個人的に気になった箇所を参照するだけなので、要約にはなっていないことをご了承ください。


わかりあえない。

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの「脱領土化」の概念を紹介することから始まる。ここでの領土は環世界と近い概念だそう。人間は絶えず異なる「領土」に移動しているということだ。

未知の領域に向けて足を踏み出す動き以外に、新しい知識は獲得できないし、自らの立つ領土の輪郭を認識することもできない、ということだ。そして、わたしたちは領土を脱した後に、別の場所を再・領土化する。この運動を繰り返すうちに、無数のモジュールあいだを行き来する。

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ドゥルーズが「領土」という概念を用いる時、彼は生物学者フォン・ユクスキュルが発明した「環世界」[Umwelt]という概念に依拠している。環世界とは、それぞれの生物に立ち現れる固有の世界のことを意味する用語だ。

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最近、「環世界」というキーワードを常に考えている。私が読む本にはなぜか環世界という言葉が頻繁に出てくる。以前読んだ『暇と退屈の倫理学』でも環世界が紹介されていた。

もともとは人間と他の生物で見えている世界が違うという考え方だったものが、人間同士でも異なる視点で見ているという考え方に拡張されていったようだ。文化人類学などはこうした環世界という考え方を前提として、自分以外の人の視点を理解しようとする学問であるようにみえる。

環世界が教えてくれるのは、私が見ている世界とあなたが見ている世界は違うということ。「同じ世界を違った見方をしている」ならばわかりあえる余地がありそうだが、生きている世界自体が違っているのならば、わかりあうことなど到底できそうにないと感じられる。


わかりたくない。

また、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンも紹介し、彼の思想が著者にも大きな影響を与えたことに触れている。ここでは、ベイトソンのメタローグを取り上げたい。メタローグとは対話形式の文章であり、ベイトソン自身は著作の中で自分と娘の架空の対話という形式を取っている。

メタローグとは、深い関係を結ぶ相手の視点を自分のなかに住まわせて、そこから世界を見ようとする営みだとも言えるだろう。

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それは、自らの認識方法を変えることで、相手との関係性を設計デザインするということだ。親子という生物学的に固定した関係性においても、架空の対話を記述したり話す言語を変えることが、共進化を起こす。

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「自分が尊敬するあの人だったらこうするだろう」と思って決断するというのも、メタローグ的と言えるかもしれない。相手の環世界を想像して、それを自分に憑依させるという感じだろうか。

自分の意志で相手の環世界を理解したいと思ってベイトソン的メタローグを行う時もあれば、自分の意に反して相手の環世界が自分に流れこんでくるような「意図せぬメタローグ」もあるのではないかと思った。

私は日常生活の中で「私の中に入ってこないで」と拒絶したくなると感じる時がある。誰かの会話を聞いたりSNSなどの情報を見たりすると、自分が他人に乗っ取られるような感覚になるのだ。だから、私は耳栓やイヤホンを常につけているし、SNSでは誰もフォローしないようにしている。

情報をシャットアウトしたくなるのは、他人の環世界が干渉してくるのを拒否しているという説明もできるだろう。私は「意図せぬメタローグ」が苦手で、いつも強力なATフィールドを展開している。

このように自分自身のデフォルトとして他人のことに興味がないということを自覚している。だからこそ、他人を理解しようとするということはどういうことなのかを理解したくて人類学を勉強しているのかもしれない。


わかってほしい。

一人ひとりが異なる環世界の中にいる。それでも「その孤独さを誰かと共有したい」という気持ちが私の中にあるのも確かだ。相手をわかろうとすることと同時に、相手にわかってもらうための努力として自分の環世界をどうにかして表現することも必要なのだろう。わかってもらおうとする努力をせずに「自分のことをわかってもらえない」と嘆かないようにしたいと思った。

こうしてnoteで文章を綴っているのも、「こう思った、感じた」という私の環世界をわかってほしいからかもしれない。私の場合は、自分の環世界を文章にするというスタイルが今のところしっくりきている。本書の著者も文章を書くことが安らぎ・助けであったと書いている。

リアルタイムな反応を強いる身体的コミュニケーションの世界と異なり、自分のペースで時間をかけて記述することは、それ自体が大きな安らぎの源泉だった。書くことによって本来の自分を表現できると考えていたし、ティーンエイジャーの脆いアイデンティティを支える大きな助けとなっていたのだと思う。

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ちなみに、文化人類学にはオートエスノグラフィー(自己エスノグラフィー・自伝的民族誌)というものがあるらしい。従来のエスノグラフィーは異文化を記述することを重視するのに対し、オートエスノグラフィーでは自分の経験を記述するようだ。オートエスノグラフィーとは自分の環世界を自ら綴ることであると言えるのかもしれない。


感想

娘を持つ父親や日英仏のマルチリンガルなどのアイデンティティによって生じる経験と、脱領土化や環世界といった哲学的な概念を巧みに織り交ぜて論じていく文体は、ドミニク・チャンさんならではである。本書が高校の「論理国語」と「文学国語」の両方に採用され、評論文でもあり文学でもあるという評価を受けたのも頷ける。

この本を最後まで読んだけれど、彼の考えを全て理解できてはいないだろう。それでも、彼の考えを理解したいという思いが私の中にあったことは間違いない。本書の表紙にも採用されている文章を引用して終わりとする。

結局のところ、世界を「わかりあえるもの」と「わかりあえないもの」で分けようとするところに無理が生じるのだ。そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。「完全な翻訳」などというものが不可能であるのと同じように、わたしたちは互いを完全にわかりあうことなどできない。それでも、わかりあえなさをつなぐことによって、その結び目から新たな意味と価値が湧き出てくる。

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