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パーソンズ美術大学留学記シーズン3 Week1 #232

パーソンズ美術大学・Transdisciplinary Designでの学びと生活を綴る「パーソンズ美術大学留学記」もシーズン3(2022 Fall編)に突入します。フライング気味にWeek0と初日についてはすでに記事にしていますが、今回から正式に始まります。

Week1は「TD Convening」という集中講義週間でした。この一週間はTransdisciplinary Designの考え方に慣れていくために、常勤の教授陣だけでなく卒業生やゲスト講師を招き、多様な人の活動や考え方に触れるという授業スタイルでした。今回の記事ではこうした授業の中から、個人的な学びをいくつか書いてみます。

Gabriela León

メキシコを中心に活動しているアーティストのGabriela León氏のお話を聞きました。

肩書きが先か? 活動が先か?

彼女は「『Artist』と名乗るようにしているものの、しっくりきていない」という話をしていました。アーティストといっても、何か美しいものをつくっているわけではない。活動家といっても、確固たる理念があるわけでもない。社会学者といっても、理論的に説明しようとしているわけでもない。

彼女は自分の好きなこと・興味のあることを追求しているだけらしく、彼女の活動を一言で説明しようとすると「Artist」が一番マシということなのでしょう。彼女の活動をピッタリ言い表す肩書はないのです。

彼女が肩書きに違和感を覚えるのは、Transdisciplinary Designがデザインを名乗っているのと同じ感覚だと思いました。Transdisciplinary Designに所属している先生や学生も自分たちが何をしているのかを一言で説明できず、「うーん、しいて言うならDesignかな」と苦し紛れに名乗っている印象があります。そんなDesignもどきのDesignを勉強中です。


経済システムと信頼関係

また、彼女は活動において資金調達や利益回収に悩むことはないそうです。というのも、自分のやりたいことはお金のかかるようなことではないのだそう。彼女のプロジェクトは、資本主義以外の経済システムの可能性に気づかせてくれます。

たとえば、「Cochera en Servicio」というプロジェクトでは、各家庭がつくった野菜などの食材を寄付したり、必要な分を持ち帰ったりできる場所、つまり、食材をコモン(共有財)としてやりとりできる場を提供しています。マルクスの「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」に通じるものを感じました。

もちろん、一部の人が欲張って多めに持ち帰ってしまうということはあるそうです。それでも、「彼らは共有する方法を知らないだけだから、懇切丁寧に教えればいい」と言っていました。trust(信頼)やgenerosity(気前の良さ)が必要になるとも言っていました。

思い出したのは留学のために乗った飛行機の中で観た『ラーヤと龍の王国』です。他人を疑うことが常識となった世界を題材にしたこの作品のメッセージは「信頼関係を築くには、まず自分が相手を信頼することから」というもの。資本主義であっても値段と質が対応しているか(ぼったくりでないか)を気にすることも踏まえると、結局はどんな経済システムであろうと根底には信頼があるのかもしれないと思ってみたり。

ちなみに、Financeの語源はFinishと同じ。お金のやり取りをするということは、その場で貸し借りの関係を「終わらせる」ということ。マルセル・モースの『贈与論』でも、関係性は物を貰ったという借りがあるから続いていくとあったのを思い出しました。


Erin Dixon

Reconciliation CanadaのErin Dixon氏の話も聞きました。

水とともに生きる

「故郷の水に思いを馳せる」というアクティビティをしました。「万物の根源は水である」とタレスが唱えたように、地球は水の惑星であり、地球上に栄えた生物は水なしで生きていけません。四大文明が興ったのも川のおかげです。自分がどんな水を飲んで生きてきたのかを振り返ると、自分が育ってきた故郷との繋がりに気づくことができます。

そういえば、「井戸端会議」も井戸という水の源を中心としたコミュニケーションの形。一緒に温泉に入ったら「裸の付き合い」で、親密な関係の象徴になる。水あるところに人々が集まり、そこから交流が始まるという法則があるのかもしれないと思ったり。


私の歴史。家族の歴史。

ところで、「あなたは誰ですか?」と聞かれたら、何と答えればいいのでしょう? その方法の一つに、自分の経験してきたことを語るという方法があるでしょう。自伝でも伝記でも、その人が生まれてから今までの出来事を語ることで、その人を説明しようとします。「故郷の水に思いを馳せる」のも、自分の歴史を知る方法の一つということのようです。

きっと人間以外の生物は家族の歴史を考えたりはしないでしょう。哺乳類だから親子の愛が重要に思えるのだろうし、人間として社会の中で生きていくためには、必然的に社会の歴史を知らなければならなくなったのでしょう。人間は社会的な動物だから、空間的にも時間的にも他者との関係性を考えざるを得ないということです。


観察眼を鍛えたい

ちなみに、「教室の窓の外を眺めての気づきを共有し合う」というアクティビティをして、先生数人と同じグループで話し合う機会がありました。そこで彼らは「木に枯葉が残っているのを見て、私たちは生と死の両方からなることに気づいた」とか「全てが地面に接触したり地面に向かって引っ張られているのを見て、私たちは重力の影響下で生きていることに気づいた」などという話をするのです。

窓の外を数分見ただけで死や重力などの目に見えないものをピックアップできるのですから、先生方の観察眼は凄まじい。私には見えていないものが見えているような気がしました。


Anthropology and Design

フィールドワークを取り入れるなどデザインは人類学の影響を受けていることを知って人類学に興味を持ったので、秋学期の選択科目として「Anthropology and Design」という授業を受けることにしました。

学生は10人強だったので、一人ひとりの自己紹介から始めることに。自己紹介のフォーマットとして、自分の名前に込められた意味を話すことになりました。名前の由来を知ると、家族が子に託した思いやその人が所属するコミュニティの文化なども知ることができ、まさに人類学といった趣がありました。

この授業を率いる先生はTransdisciplinary Designの指導も担当しているということもあり、Transdisciplinaryという言葉の意味も話し合いました。といっても、1年間学んでもTransdisciplinaryとは何かを上手く説明できないもので、「考えるな、感じろ」的な言葉なのですが。

「なんとかdisciplinary」の違い

人類学とDesignはTransdisciplinaryという共通点がありそうだということは確信しています。人類学者のジリアン・テットも、一つの領域の視点から世界を見ていると視野狭窄に陥るというサイロエフェクトを指摘していて、Transdisciplinaryの必要性を示唆しています。

私はデザイナーという立場を軸にしながら、人類学的な考え方を取り入れていきたいと思います。ただ、どちらが主でどちらが従であるということではなく、いいとこどり&適材適所で使い分けていきたいです。人類学者的なデザイナーであり、デザイナー的な人類学者でもあり。それが私の目指す将来像です。


まとめ

自分の名前、肩書、専門分野など「名前とは何か?」について考える一週間になりました。老子はタオを「道」と名付けたとき、それは道ではなくなってしまうと言いました。この世界に真理があるとするならば、それは名前をつけられない何かとしか表現できないのでしょう。

名付けによって固着してしまう視点を揺さぶることもTransdisciplinary Deasignらしさである気がします。名前という物語のタイトルから抜け出すのも「脱物語のデザイン」に求められる役目であるのかもしれません。

「脱皮できない蛇は滅びる」というニーチェの言葉を借りるなら、名前という皮にこだわっていると身を亡ぼすということです。そこに名前はあるけれど名前に縛られる必要はないというのが今週の学びでした。


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