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「なぜ世界は存在しないのか」を読む #101

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デザインスクール留学中の私が興味を持ったのは、「存在するとは何か」という哲学的問いでした。というのも、Ontology(存在論)の存在を教わったからです。

そこで、存在論の最先端とされる「新しい実在論(新実在論)」を学ぼうと、マルクス・ガブリエル著の「なぜ世界は存在しないのか」を冬休み期間を利用して読んでみました。個人的な解釈のまとめということで、解説や要約ではないのであしからず。


Ⅰ これはそもそも何なのか、この世界とは?

ガブリエルさんの主張はズバリこうです。

世界は存在しない=世界以外のすべては存在する

なんだか禅問答のようですが、本書を読み進めていくことでこの意味が少しずつ分かってくるから不思議です。この主張を理解していくために、言葉の定義をしていきます。まず、対象領域という概念が紹介されます。

対象領域とは、特定の種類の諸対象を包摂する領域のこと
第一に、どんな対象も何らかの対象領域に現れてきます。
第二に、対象領域は数多く存在しています。

堅苦しい表現ですが、数学で出てくる「ベン図の丸枠」のことだと理解すればわかりやすいと思います。この概念を導入した後に、宇宙と世界という単語の違いから、少しずつ「世界は存在しない」ことを証明していきます。

(宇宙は)数ある限定領域のひとつ、世界全体の存在論的な限定領域のひとつにすぎません。

宇宙とは、あくまでも物理学的な観点で「宇宙」を捉えた時に存在する対象であって、宇宙=世界ではないということです。


Ⅱ 存在するとはどのようなことか

世界は存在しないという主張をするためには、その前に「存在する」とは何かを定義する必要があります。そこで、出てくるのが「意味の場」という概念です。また、意味の場こそが存在論的な基本単位であることが説明されています。そして、意味の場を使って存在を以下のように定義します。

何かが意味の場に現われているという状態、それが存在するということ
意味とは対象が現象する仕方のことである

先ほどの対象領域=意味の場と捉えてもいいと思います。「意味の場と呼ばれる対象領域(ベン図の丸枠)の中に含まれることを存在すると呼ぶことにしましょう」という理解でよいかと思います。こうして、意味の場という概念を用いて、存在するということを以下のように定義します。

存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。


Ⅲ なぜ世界は存在しないのか

本章で、いよいよ本書の結論を導きます。前章で「存在する」ことを定義したので、この章では「世界」を定義することに移ります。

世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である。

ここまで「すべて」「いっさい」という単語が含まれていると、現代文テクニック的に誤りっぽさがありますよね。「存在」するためには定義上、外側の対象領域が必要となるため、外側に対象領域をもたない「世界」は存在できないという論法のようです。納得いくようないかないような。とにかく「論理的に」考えると「世界は存在しない」ようです。以下のように主張がまとめられています。

否定的存在論の主命題=世界は存在しない
肯定的存在論の第一主命題=限りなく数多くの意味の場が必然的に存在する
肯定的存在論の第ニ主命題=どの意味の場もひとつの対象である


また、以下のような諸行無常や一期一会に近い考えが述べられます。

わたしたちの生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間ない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行の動き、さまざまな意味の場の融合や入れ子の動きとして理解することができます。

一つの世界なるものの中で人は生きているというよりも、無数の意味の場を渡り歩いているという世界観が提示されています。結論としては以下のようにまとめられるそうです。

「世界は存在しない」および「果てしない派生のなかで果てしなく増殖していく無数の意味の場だけが存在する」


(ひと休み)個人的に思ったこと

3章の内容は、ラーメンズの「不透明な会話」で透明人間はいることの証明をする時の議論を観ているようでした。「世界は存在しない」ことを証明してみせると言ってコバケンが話している風景が浮かぶような浮かばないような。

透明人間はいる!だって、ガブリエルさんは「警察官の制服を着用して月の裏側に棲んでいる一角獣でさえ存在する」と言っているのですから(もちろん、特定の意味の場の中にという条件付きで)。

ついでに、「条例」も観てください。様々な意味の場での会話が観れます。



科学、宗教、芸術、そして生きる意味とは

以降の章では、新しい実在論の観点から、科学、宗教、芸術について記しています。科学や宗教については、フェティシズム(自らの作った対象に超自然的な力を投影すること)というキーワードを用いて説明しています。科学的世界像であったり、一神教的世界観であったりといった「ひとつの意味の場=世界」と思い込むことは誤りであるという主張です。


こうした「世界は存在しない」という主張から、人間とは、生きるとはという問いについても触れていきます。

人間とは、自身が何なのか・誰なのかを知ろうとする存在
人間の自由は、何よりも特定の在り方に決められていないこと、むしろ在り方の可能性が数多く存在すること
人間は、自身が何なのかを知りません。だから探求を始めるのです。人間であるとは、人間とは何なのかを探究しているということにほかなりません。

世界と言う絶対的な意味の場が存在しない以上、人間自体や生きる意味の絶対的な定義も存在しないということになります。だからこそ、不安になるのだという話が、キルケゴールの『死に至る病』を引用しながら言及されます(現在読んでいますが、かなり難解で「絶望」しています)。

わたしたちはある程度まで可塑的であり、自らの形を変えていくことができる。だからこそ人間の実存は、それだけ不安定でもあるわたしたちはある程度まで可塑的であり、自らの形を変えていくことができる。だからこそ人間の実存は、それだけ不安定でもある
キルケゴールによって発見された事態、すなわち精神が当の精神自身に関係するということ、わたしたちが自らの可変性を理解しているということです。わたしたちは別の誰かになることができると言ってよい。だからこそ、ほかの人びとと自身を比べたり、どんな生活形態が自分に合っているのだろうかと考えたりすることもできる


また、芸術を観ると「意味の場が無数に存在する」ということが理解できるという効果があるようです。いくつか引用してみます。

芸術の意味は、わたしたちを意味に直面させることにあります。
芸術によって、わたしたちは、対象にたいして多様な態度をとるように促されます。
芸術から得られるイメージは、つねに両価値的です。つまり(恣意的ではないにせよ)多様に解釈することができるのです。
芸術が示すのは、およそ対象は何らかの意味の場のなかでした現象できない、ということ


芸術などを活用しながら、世界と呼べるような絶対的な意味の場は存在せず、相対的な意味の場しか存在しないことを気づきましょうという主張がなされます。

ほかの人たちは別の考えをもち、別の生き方をしている、この状況を認めることが、すべてを包摂しようとする思考の強迫を克服する第一歩です。
わたしたちは、無限に多くの意味の場のなかをともに生きながら、そのつど改めて当の意味の場を理解できるものにしていくわけです。


エンドロール

最後の章で、テレビ番組の例から始まって人生の意味に触れて本書は締めくくられます。「世界は存在しない」ことを理解した読者ならば、以下の引用は、自然と理解できるようになっているでしょう。

自己自身を発明していかねばならない存在者であり、本書で考えてきたような果てしない入れ子状をなす存在論的状況のなかに置かれた存在者である
どんな物ごとでも、わたしたちにたいして現象しているのとは異なっていることがありうる
無限に数多くの在り方でしか、何ものも存在しない。これは、ずいぶんと励みになる考えではないでしょうか。
世界は存在しないということは、総じて喜ばしい知らせ、福音にほかなりません。
人生の意味とは、生きるということにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に取り組み続けるということです。


まとめとか感想とか

本書では、世界、超思考(世界全体と自己自身について同時に考える思考)、超対象(ありうる性質をすべて備えた対象)などという存在は全て否定されています。絶対的な唯一の存在といった類のものは有り得ないということでしょう。

一方で、本書では入れ子状の構造を支持しています。フラクタル存在論という表現もされています。自己意識や反省といった概念も入れ子構造をなしていると紹介されています。自己意識とは、「意識についての意識であり、自らの意識や自らの思考・知覚のプロセスに向けられた注意」であり、反省とは、「考えることについて考えること」です。

こうした議論で思いだしたのは、カントのアンチノミーの議論です。この世界を無限であると仮定しても矛盾が生じ、逆に有限と定義しても矛盾が生じるという話です。この本では、絶対の存在を設定すると矛盾が生じるという話から、無限である方を背理法的に支持していると私は解釈したのですが、カントの話から考えると、無限に存在するという考えからも何かしらの矛盾が導かれるはずです。

とすると、本書の主張も絶対正しいわけではないのでしょうか。それとも、この本の主張もひとつの意味の場として捉えればいいということでしょうか。このあたりの哲学的な議論はまだまだ私の勉強不足感が否めないので、詳しい方は是非とも教えてください。

ともあれ、世界の見方と生き方について学べた本でした。気になった方は是非読んでみてください!



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