2024年5月19日 創作SF小説「痛み」
曇りの日特有の、黄みがかった灰色の光のもとに手をかざした。
血管が青く透けて見える。
ヨドバシは、小さく四角い窓から入ってくる光に手をかざしたまま、手指を伸ばしたり縮めたりしてみた。
軽く握ったり、広げてぴりっとした痛みはないが
じんわりとした違和感、ぼんやりとした痛みがある。
痛みはインクのようなものだとヨドバシは思う。
ショッキングピンクのインク。
インクはにじみ、広がり、混ざり、霧散して、またどこかにたまる。
痛みが生じると
綺麗な水の中に、濁った水が混じるようだ。
動かしてみると、瞬間、はっきりとするものの、しばらくすると濁ってくような気がする。
一度、にじんだインクは水を変えない限り、消えたりはしないのだ。
ということはつまり、
痛みはすぐに戻ってきてしまうのだ。
痛みを放つ場所は常に決まっているわけでもなく、良く変わる。
今は手指だが、昨日は足の指だった。
その前は、脇腹だった。ずっと前には腰だった気がする。
痛みが転々としているのだ。明日はどこが痛くなるだろうと考えるのは決した楽しいものではない。
インクは消えず、体のあちこちを移動していく。
濁ってしまった水は濁ったままだ。
「消えないなぁ」とヨドバシがつぶやくと、馴染み深い声が返ってきた。
「耐用年数を超えたってことだよ」
「痛みっていうのはシグナルであり警告のアラートでもある。もうそろそろ手を入れないといけないってこと」
「確かに。ひとまず、痛み止めを飲む」
狭いトレーラーハウスにケイズの声が満ちる。
昔から、ヤマダはこうだ。決して遠慮しない。ヨドバシはそのことに、妙にうれしくなった。
正しいか正しいかではなく、ヤマダがヤマダであるということがうれしいのだ。
耐用年数を超えたというのは、おそらくその通りなんだろう、とヨドバシは痛み止めの錠剤を口に放り込みながら、思う。
溜息の後、あきれたような声で、ヤマダは言う。
「痛み止めは根本解決にはならない。耐用年数を超えているわけだから」
ヤマダがいう。
「それはそうだけどね。重ねて言うな。気休め、気休め」
それに対するヤマダの声がたわんで、ゆがんで言葉の形をとらなかったので、何と返したのかは、ヨドバシにはわからなかった。
「接続不良です」というアナウンスが入る。
ヤマダがいるはずなのは、ここよりずっと暑い砂の多い土地だ。一度、画像を見たことがある。大体のものが陽光に照らされた上で、砂に埋もれていた。
この辺りとは大違いだ。
通信機器はオーバーヒートしやすく、時には、砂嵐が起きることもあるという。
「一度くらい遊びに来たらどうか」と言われていたことを、ヨドバシは思い出す。
砂地で何をするというのかと言って、自分が笑って断ったことも同時に。
「通信が回復しました」というアナウンスの後、またヤマダの声がした。
「悪い途切れた」
「こんな話ばっかりなのは年齢を感じるね、全く。とにかく、全とっかえは、金銭的に無理。そもそもそれができる業者がもうこの辺に、いない」
「それはそうだけどね」
ヤマダの声に集中していると、痛みが少し遠くなる。インクが分散する。散っていく、痛みがインクのように、見えるような気がして、ヨドバシは、もう一度、光に手をかざす。…見えない。
「耐用年数を超えてもだましだまし使っていくしかない」と口に出す。
そう、何事も、そうやってやっていくしかないのだ。
「今日の成果はどうだった」
もう少しヤマダと会話を続けたい、とヨドバシは思った。もう少しの間、頭を散らしておきたいのだ。
ぼんやりとトレーラーの設備を眺めた。今座っている収納式のベッド、奥左手にある小さなシンクと一口のコンロ、その向こうのシャワーブース。壁に埋め込まれた冷蔵庫が低い音を立てている。
「大したものはないね。これではノルマは達成できそうにない。次はもう少し東に行ってみようと思う。昔はそこに大きな町があったようだから」
「そこは、もう少し砂っぽくないと良いね」
「確かに。砂はもういいかも。そっちは?そちらはどう?」
「…どうだろうね…何にも変わらない、何にも変わらないかな…」
言うべきことがあればいいのに、何も思いつかない、とヨドバシは思う。
昔は無限に話のネタがあった。ありとあらゆることについてお互いの意見や考えや感想を始終話し合っていた。
道端で見かけた生き物、食べ物の温度の好み、新しい服、旅行の行き先、昨日の失敗、明日の希望。
「何にもないわけあるか。ヨドバシ」
「…」
「どうした?ヨドバシ」
インクだ。
右の小指にインクが集まってくるイメージがヨドバシの脳裏をよぎる。
インクな色はショッキングピンクだ。
ズキズキと拍動する。
明滅する。
痛みだ。これは痛みなのだ。
ヨドバシは右手を開いたり閉じたりして、振った。「ストップ。ヤマダはそうは返さない。そうは言わない。ヨドバシとは呼ばない」
ヨドバシは、タップして、通話を切った。
「対話プログラムを停止します。トラブルについての報告をしてください」
何を報告するのだ、とヨドバシは思う。
「そんなことをヤマダは言わない」ということは、すなわち、ヤマダがヤマダではないと認めることになる。
「その通り」とヨドバシはベッドに寝転んで思う。
アレはヤマダではない。
ヤマダとの通話記録を全てAIにぶっ込んで作った応答プログラムだ。
「あなたはこの記録におけるヤマダとしてヨドバシの会話に返答してください」というプロンプトを入力しただけの、雑なものだ。
それでも、無いよりはマシだ、痛みを緩和する。
ヤマダの記録を調べたところ、
再生可能ではあったが、損傷部位が多すぎたようだ。
莫大な金をかければ再生可能というのを、再生可能と呼んで良いのだろうかと思う。
またヤマダの仕事の専門性は低く、これまでにバックアップされていた記録で代替できるということだった。
砂に塗れた街から使えるものを取り出してくるという仕事には専門性がなかったのだ。
それゆえに、国がヤマダの再生を求めることはなかった。
おそらく自分もそうなるだろう。
ただ今は、
目を閉じると、インクが飛び散っている。
目を開けても、インクが飛び散っている。
痛いということは、生きているということだ。
ヨドバシは、また灰色の光の下で、手を開いたり、閉じたりしてみる。
痛みがある。
ここには、痛みがある。
ヤマダには、すでに痛みがない。
いつともいえぬ昔に。