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2024年1月20日 ほどほどに気を使うのは難しい

師走はとうに終わったわけですが、1月もなんだかんだとバタバタしています。
特に、1月は親しい人々の誕生日が目白押しです。
はて、目白押しの目白ってなんでしょう。
小鳥の目白でしょうか。
小鳥がぎゅうぎゅうに電線にとまって、ぴよぴよと鳴いているところをイメージします。
大変可愛らしいです。

おお、確かにあっていました。
小鳥のメジロが並んでいるので目白押し、てす。
ところって目白って、どんな小鳥なのでしょう。
いかんいかん、こんなことを調べている暇はないのです。
1月から2月にかけては、親しい人の誕生日が続き、確定申告の準備をし、
来年度の仕事の計画を立てねばなりません。
目白のことを夢想している暇は実はないのです。

誕生日など気にすることはないのでは…という人もいると思うのですが、
もともと人にかける情が他の人と少し違うようなので、お祝いだけはきちんとやると決めているのです。
日頃から、丁寧なお礼や優しい言葉、気配りなどができる人は、
誕生日だけ取り立てて、祝う必要はないことでしょう。
そういうところがおろそかになりがちなので、
誕生日というものにある種のプレッシャーを感じるのだと思います。
大きいことをするわけではありません。
でもちょっとしたお祝いを送ろうとか、出かけようとか、何だかんだと考えていると、なかなかにやることがあるのです。
特に、プレゼントを選ぶのは、楽しくそして悩ましいものです。
仕事で出会う人にお渡しするものは、口に入れるもの一択ですが、
もう少し親しい間柄であると、プレゼント選びももう少し複雑になります。
できれば、消費できるもの(ゴミにならないもの)を選びたいのは変わらないのですが、 
飲み物や食べ物だけではなく、もう少し違ったアプローチをしたくなるものです。
印象に残るものとか、日常的に使っていけるものとかがあれば…と思ってしまうわけです。
その人が欲しがっているものがわかれば1番良いのですが、そうもいかない場合も多いものです。
結局1番、汎用性が高く、あらゆるものに使えるものは、現金な訳ですが、
現金を渡すのには、まだ高い心のハードルがあります。
親しい人だからこそ、気の利いたものを贈りたいという欲が出るのでしょう。
以前は、素敵な雑貨屋さんを梯子して探したものですが、最近はすっかり通販が多いです。
遠方の人に送る場合は、通販サイトで頼んで送ってもらった方が手間がかかりません…。
情緒がないと言えばそれまでですが、情緒を発生させるための時間の余裕がないこともあります。
「おもたせの達人」とか「プレゼントの達人」が時に雑誌に掲載されていたりしますが、
どうやってそういうものを検討したり購入しに行ったりする時間をん捻出しているのだろうと不思議になります。
そういう人に限って、大変多忙そうな方ですし、
あれも一種の才能なのでしょうか。

ある友達などは、「ひとの誕生日はどうしても覚えられないから特別なことはしない」と言い切って、
その分、日常のちょっとした時にプレゼントを渡したり、
旅行のお土産を盛大に渡したりしています。
振り切った判断ではありますが、時にそちらの方が誠実かもしれない、とも思います。

そもそも日本人なんて、亡くなった日の記録こそあれ、ほとんどの人間に生年月日の記録が長くなかった文化なのですから、
(歴史上の人物のWikipediaを見るとそれがよくわかります)
誕生日に何かしようと思わなくてもいいものなのかもしれません。

自分の冷淡さを隠すため、もしくは挽回するために、
誕生日のあれこれを考えて、きりきりして余裕がなくなるなんて
本末転倒もいいところです。
自分には人間付き合いの才能が本当にないと思います。
以前に書いたように、気のあった人と語り合うのはこの世で1番好きなことなのですが
それはその時、その場限りのジャズセッションのようなものであって、
その前後に必要な関係性の維持というものは、非常に苦手なのです。
例えば「出かけましょう」というお誘いは、ほとんど自分からしたことはありません。
その一歩を踏み出すのは、非常に力が入ります。
その分、その出逢った際、遊ぶ場合は
その時間をいいものにしようと努力するので
その場は非常に良いものになることが多いのですが
自分のキャパシティ以上に
相手をもてなしすぎて、準備やその後に疲れ果てるということ結構あります。
今月のお誕生日目白押しでも
そういうことが起きているのでしょう。
個人的に
「ほどほどに気を使う」ということは、ものすごく難しいことです。

「あまり無理しなくていい」と言われることがありますが
その通りにしたら、社会的に顰蹙を買うのは見えているのでとてもできません。
無理しなかったら関係性を維持する働きを全くしなさそうなのです。
なので、出会う時、誕生日などイベントの時には、
考えられうることを全てやろうとして疲れてしまいます。
子供の頃、マイペース読書の虫で本を読むこと以外に興味がなかったため、
よく母に「本当にお前は気が利かない。もっとよく考えなさい」と折につけ言われていた後遺症なのかもしれません。
ほどほどに他人に気を使うというのができればいいのですが極端になってしまいます。
母が間違っていたとは思いません。
大人になって、母の教えが役だったことの方が多いのです。
あのマイペース空想人間が曲がりなりにも位社会生活が遅れているのは、母の教えあってこそ、と思います。
それでも、やりすぎて疲れてしまうとき、
「母の教えの魔法が強すぎる」と感じることもあります。

もう少し程よくもてなし、程よく気を使えればいいのですが
もともと苦手な分野なので
やるか、やらないかの二択になってしまうのですね。
その結果へとへとに疲れて、何もしたくなくなってしまうということに
ここ2年ほどで気づきました。
突破口を模索中ですが、今のところ糸口さえも見つかっていません。
この話のややこしいところは
文化的な性的役割も大きく関係しているだろう、というところです。
本好きの空想ばかりしている子どもが男の子であれば
あれだけ「気をつかえ」と言われただろうか、とも思うのです。
「運動しろ」とは言われたかもしれないが「気をつかえ」「気をくばれ」と言われただろうかと考えてしまいます。
まあ、それはそれでものすごく嫌だったと思うのですけれど。

死ぬまでには、この「ほどほどに気を使うのが難しい」問題の解決を見つけたいものです。


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