「言語化」は愛なのか?
「言語化」という言葉がここ数年よく聞かれるようになった。
言語自体は人間はずっと話しているというのに、なぜあえて「言語化」という言葉を使うのか?私はずっと疑問だった。
そんな時、友人が「言語化は愛である」という投稿記事を書いていた。
愛・・・・そんなこと考えたこともなかったな。
彼女にそう投げかけられて、私は「言語化は果たして愛なのか」を考えはじめた。
言語化、という言葉が嫌いだった。その理由
私は「言語化」という言葉が嫌いだった。
ここ数年なんだか流行っている、「上手に「言語化」すると称賛される」その文化にも、もやもやしていた。他人と会話するのが苦手、コミュ障な私にとって言葉を話すことはおっくうなことでしかない。
口を開くと「間が独特」「何を言っているのかわからない」と否定される状況が多かった私は「他人との会話」が恐怖だった。特に「説明してください」と言われると嫌で嫌で仕方なかった。
(頭悪いな、流れでわかるだろぐらい思ってた!!)<<私は全てのことを感じ取る人生だったので!!
「言語化」すると称賛される、もやつく文化
「言語化」すると称賛される、その文化は私の心をもやもやさせた。
おそらく多くの人が讃える言語表現に私が共感してなかったからだろう。
しかし私は考えがなかったわけではない。そのもやつく「言語」に対してなんらかの「意見」を持っていたのだと思う。
だから常にもやついていたのか!!
しかしだ、「その言語は私の考えとは違う」とは思ってはいたが、その違いに対して、自分なりに説明する努力はしてこなかった。
だから目にする「言語化」にもやついて「違うのにな」とは思いながらも、意見することはしてこなかったな。
だって、私は「言語化」が苦手だからね!!
そうやって、私は言語化を否定し、私は自分の考えや思いを言葉にすることから逃げていたのだと思う。別に言葉で戦わなくたって良かったんだよね。私には絵だって映像だって声だって他にも表現する手段が沢山あったのにも関わらず「話すのが苦手」なばっかりにそこから逃げていたのだと思う。
そして気づく。「言語化」を否定しながら、逃げていたのは自分を表現することだと。
なぜ表現が怖かったのかというと、表現したら決まっちゃうから。
そして、何よりも怖かったのが「感想」と「評価」
これが怖くて怖くてたまらなかったのだと思う。
他人から自分の考えがどう思われるのに怯えていたのね。
私は説明が下手だから、過去に何度も何度も説明してもわかってくれないそうして諦める・・・・そんなことを繰り返してきたから。
「私の考えは伝わらない」「私の考えは否定される」って自分で自分を一番否定していたんだなぁって。
「言語化」の効果
では、なぜ言葉があるんだろう・・・と考えてみる。
それは「他人に自分の考えを伝えるため」これに尽きるのではないか。
言語がそれ以外の用途を持つことはないのだ。後にも先にも他人に伝えるためのツール・・・だから伝える必要がなければ使う必要もない。
そうして、あくまでも「ツール」の一つであることも忘れてはならない。
絵が得意な人は絵で表現しても良いし、グラフや表を駆使してもいい。
動画にしてもいいと思う。伝われば言語を使わずとも何を使ってもいいのだ。
しかし、言語はナイフでもある
しかし、言葉は時には人を傷つけることもある。
感情的になってしまい、ひどい言葉を投げかけてしまう時もあるだろう。
精一杯配慮しても、相手の状況や環境とマッチしてなくて「ひどい言葉」に取られてしまう時もある。
自分の気持ちが他人にいつでも上手に伝わるわけではない。
その度に、傷つくし、傷つけてしまう。
そして、失敗は言語を喋る上で決して避けて通れない道なのだ。
あくまでも「ツール」だから。使い方を間違うこともあるよね!
愛ある言語化について私の結論
「言語化は愛である」それが私の結論だ。
しかし、それは「相手に伝えたいというジョーネツと愛がある」が大前提だ。
私も含めコミュ障の人はきっと沢山のことを考えてると思うので、その頭の中の面白いことを他人に伝えられないのは勿体無いと思う。自分なりの言語以外の表現方法を駆使して「伝える努力」をするのが楽しい人生への近道なのかな、と思ったよ。
あくまでも「言語」は、便利なツールの一つであること。
練習でリカバリー可能、ということ。
言語以外の他のツールを駆使しても良い、ということ。
上記3つを踏まえて使うともっと気楽に楽しく「言語化」と付き合えるのではないでしょうか?
おまけ
さて、今回文章をまとめていて、「相手に伝わらなくて自分を愛してしまうケース」が孤独かも・・・・という仮説が出てきたのだけど、それはまた後で!
私に素晴らしい気づきをくれたかえちゃんのnoteはこちら!↓
独特の目線でとっても面白いですよ!おすすめ!
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