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映画『DUNE/デューン 砂の惑星』人々をかつて結びつけていた幻想。

【映画を見ることは夢を見ることに似ている。ともに現実を材料として現実そっくりにつくられた非現実 (表象) であり、奔放な想像力が試される場だからである。 そしてそれが成立するためには、あたりを押しつつむ闇がなければならない。じじつ映画は撮影のときと上映のときと、少なくとも二度暗闇を必要とする。映画はいわば光の彫刻である。】

加藤幹郎著『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(2002年)より引用。

 「夢は深淵からのメッセージだ」“Dreams Are Messages From The Deep”と始まる『DUNE/デューン 砂の惑星』は「夢」についての映画である。それは作品内で主人公ポールの見る幻視が重要な意味を持つということだけではなく、1965年に出版されたフランク・ハーバートの同名小説が多くの人にとって「夢」だからである。今まで多くの読者が、数多くの言語で翻訳された『デューン』を読み、著者自身の思惑も超え、それぞれの自由の王国で「夢」を形にしてきた。生きる時代も国家も異なる、本来繋がることのない人々が「夢」からのメッセージを拾い集めることで作り上げた巨大な王国の存在は、読むことが書くことそのものよりも偉大な行為だと思い出させてくれるーーしかし、どうだろう?現在、この王国は瀕死の危機を迎えている。夢から夢へと旅をすることで結びついてきた優れた読み手たちはどこへ行ってしまったのだろうか?

 自分自身が何か大きなものの一部であるという体験、祈りによって宇宙的な存在と繋がるという“幻想”が、知性をもつ私たちの社会生活に必要だとするなら、何に祈りを捧げるか、そもそも祈りとは何か?を考え続ける行為は、簡単にシステムに取り込まれてしまう危険がある。「科学」と「宗教」の時代から「資本主義」と「インターネット」の時代へと、人々を結びつける巨大な“幻想”は、支配への欲望を隠さないシステムに取り込まれてしまった。スマートフォンの中にある教会で祈りを捧げるとき、そこにいる神は狡猾に祈りを搾取する巨大企業ーーまるで『DUNE/デューン 砂の惑星』に登場するハルコンネン男爵のように、石油のような液体に浸かりながら“Income(収入)”を求める支配者たちーー主人公ポールの前に立ちはだかるのは、つまり、巨大な支配構造なのである。

 『DUNE/デューン 砂の惑星』には、祈りがシステムに搾取されている現状に対しての批評があるため、本作を劇場という空間で鑑賞することは、作品内で描いているテーマや撮影とも密接に関係してくる。劇場の映画体験が与えてくれる自分の存在を塗りつぶすほどの暗闇と、スマートフォンの電源を切ることによる巨大企業の介入の遮断は、祈りを描く作品と相性がいい。そのことに意識的だった作品にカニエ・ウェストのIMAX映画『ジーザス・イズ・キング』(2019年)がある。『ジーザス・イズ・キング』はジェームズ・タレル作の『ローデン・クレーター』を撮影地にしたビジュアルや、宗教をテーマにしている点で、ホドロフスキー監督の『ホーリー・マウンテン』(1973年)を彷彿とさせる作品なのだが、シーンごとに画面を円形にカットし、その円を長回しのショットとともに徐々に広げていく編集など、映画というよりはデザインによる空間設計に重きが置かれており、それはIMAX音響で鳴り響くゴスペルを聴いても明らかで、カニエ・ウェストは『ジーザス・イズ・キング』で映画館を「教会」に変えようとしたのである。
 
 自身のファッションブランド“Yeezy”を成功させたビリオネア(ミュージシャンに限定すればトップクラス)でありながら、ソーシャルメディアで話題を振りまき続ける存在のカニエ・ウェストは「資本主義」と「インターネット」というシステムの中心にいながらーーというより、いるからこそーーそのシステムを「宗教」の力で塗り替えようとしている人物である。それはカニエがクリスチャンの一人として、キリスト教の覇権をより強固にするための表現ではないと筆者は考えている。音楽は歴史の集積であるという事実をレコードから直接サンプリングする身も蓋もなさで表現してしまったヒップホップ・カルチャーの伝統に則り、カニエは「宗教」に取って代わろうとしているシステムに対抗するために「宗教」を引用している(まさに“Use This Gospel”)。おそらく『DUNE/デューン 砂の惑星』の目的意識もそこにあり、人々をかつて結びつけていた“幻想”が、巨大企業による支配を目的としたシステムに変わりつつある今、あらためて、映画という「夢」を通して、“幻想”を取り戻そうとしているのだ。そして、その祈りの場所として選ばれたのが「IMAXレーザーGT “IMAX GT Laser”」である。

 映画『DUNE/デューン 砂の惑星』は「IMAX」でも「IMAXレーザー」でもなく、「IMAXレーザーGT」のアスペクト比1.43:1のスクリーンで鑑賞するための設計が施されている。2021年現在、本作をこの形式で鑑賞できる日本の劇場は東京の「グランドシネマサンシャイン池袋」と、大阪の「109シネマズ大阪エキスポシティ」の2館だけとなっている。
 「IMAX」や「IMAXレーザー」劇場に対応しているIMAXデジタルサイズのアスペクト比1.9:1の作品と異なり、「IMAXレーザーGT」のアスペクト比1.43:1の作品は世界に数台しかない(1台5000万以上すると言われている)IMAX 65mmフィルムシネマカメラか65mm IMAXデジタルシネマカメラでの撮影が必要となるため、作品数はとても少なく、クリストファー・ノーラン監督の作品くらいでしか体験できないフォーマットとなっている。
 しかし、今回の『DUNE/デューン 砂の惑星』は前述した65mmカメラは使用せず、デジタルカメラのARRI ALEXA LFで撮影した素材を加工することでアスペクト比1.43:1にしている“初の!”作品となっている。この方法の発明によりアスペクト比1.43:1を導入する作品やシーンは増えると思われるのだが、重要なのはこのアスペクト比で何を語るか(もしくは語れるか)、である。

 グランドシネマサンシャイン池袋の「IMAXレーザーGT」、スクリーンの高さはビル6階建てに匹敵する約18メートル×横幅26m、したがって目の前に広がるアスペクト比1.43:1の画面は巨大な正方形となる。筆者はこの劇場で『DUNE/デューン 砂の惑星』を5回鑑賞し、クリストファー・ノーランの作品も何度も観てきたが、このフォーマットでの映画体験を一言でまとめてしまうと「まともに映画を観れない」である。スタンダードサイズやアメリカンビスタサイズ、シネマスコープサイズなどの一般的なアスペクト比の作品を従来の映画館でーーたとえば批評的な視座を持ちながら撮影や編集に思いを馳せるような見方がーーこの巨大な正方形の前では全く通用しない。IMAX劇場で本編前に流れる「IMAXをPRする動画」の中で、観客に向かってジャンボジェット機が突っ込んでくるシーンがあるのだが、これはリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)へのオマージュだろうか?IMAXは映画黎明期における観客の興奮を蘇らそうとしている?だとするなら、筆者が『DUNE/デューン 砂の惑星』を「IMAXレーザーGT」の巨大スクリーンで鑑賞したときに、まるで100年前の観客のように、スクリーンと自分との適切な距離がわからなくなったのは、ある意味、正常な反応だったと言えるかもしれない。

 巨大スクリーンで『DUNE/デューン 砂の惑星』と対峙したときの“困惑”は、本作の宗教美術としての側面を浮かび上がらせる。まるで原作を聖書として描かれた宗教画のようなショットの連続、ゴスペルのように響き渡る人の声を中心としたサウンドデザイン、そして、(“Yeezy”のような)ミニマムな美術デザインは小説の行間にある宇宙を表現し、自然光を意識した照明によるフラットな画作りは、ぼんやりとして掴みどころのない「夢」のようである。登場人物たちのクローズアップと景色のロングショットを交互に並べていく演出も、巨大スクリーンで体感すれば、ミクロとマクロが一瞬で交差する映画の魔法そのものである。考えてもみてほしい。砂漠の風景のあとに、主人公ポールを演じているティモシー・シャラメの顔が18メートルの大きさで映し出されるのだ、コレをまともに観れる人がいるのだろうか?

 主人公の心情と風景が等価にクロスオーバーする演出は、必然的に物語の舞台となる「砂漠」も主人公の1人にしてしまう。今回の『DUNE/デューン 砂の惑星』が大作映画としてオマージュを捧げている『アラビアのロレンス』(1962年)の劇中で、主人公のロレンスは「あなたは砂漠の何に魅せられている?」という記者からの質問に「清潔さ “It's clean.”」と答えるシーンがある。惑星アラキスの「砂漠」はロレンスが夢に見たような(そして敗北した)「清潔さ」を湛えているのだ。 
 『DUNE/デューン 砂の惑星』と『アラビアのロレンス』で描かれている2つの砂漠は、ともに宇宙的な壮大さを内包しているが、描き方はまったく異なり、具体的なシーンを例に挙げて説明するとーー『アラビアのロレンス』でロレンスの率いる大群の動きに合わせてカメラを左から右へ移動させて「無人の大砲」のアップで終わる「アカバ攻略」のシーン、それに対して『DUNE/デューン 砂の惑星』でサーダカーたち(皇帝直属の親衛隊)が空からゆっくり降下してくる動きに合わせてカメラを上から下に移動させ「地面に置かれているコップ」のアップで終わる「地下空洞への襲撃シーン」ーー前者は横の広がりで、後者は縦の広がりで砂漠の広大さを表現している。
 『DUNE/デューン 砂の惑星』が、縦の広がりで砂漠を見せようとした理由は、もちろん、縦に大きい「IMAXレーザーGT」のスクリーンを活かすためだと思われるが「砂漠を縦で見せる」のは映画的には正攻法ではない。しかし、本作の砂漠はあくまで惑星アラキスの砂漠であり、誰も見たことのない架空の砂漠であるため、縦の構図は宇宙のイメージとシームレスに繋がりながら、額縁から解き放たれた宗教画として、スクリーンのはるか先まで広がっていくのだ。

 その先で待っているのは偉大な読み手たちかもしれないし、そうじゃないかもしれない。なぜなら、私がこの文章で書いてきたことは、映画がプロパガンダとして利用されてきた歴史の証明でもあるからだ。宗教美術としての『デューン』が見せる「夢」は祈りを捧げる人たちを幻想で結びつける。しかし、歴史が証明しているように、幻想は共同体を閉じさせるのに役立つ。団結を強めた共同体は、それぞれの幻想を掲げて争い合う。おそらく『アラビアのロレンス』の後半がそうであったように『デューン』の2作目、もしくは3作目では悲劇が描かれるだろう。そのとき、あなたは優れた読み手でいられるだろうか?映画を、ひいては芸術を、インタラクティブな場所にする読み方ができたならーーそれは、熱狂から最も遠い意志の判断によってだけ果たされる、本当の祈りになるだろう。(了)

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