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誰もが「我がまま(=自分のまま)」に生きられる社会を実現したいと考えているフリーランスwebライターの人

かつてうだつの上がらないサラリーマンは眼中にないからって理由でフリーランスの女性に振られた経験のあるqbcです。かなしい。うれしい。たのしい。だいすき。
つまり人は職業というよりも、お金を給料でもらうか報酬でもらうかで分けられると。
顔面じゃない!
フリーランスで働く方、昨今たくさん増えたと思います。仕事のマッチングサービスが増えたり、webに必要なコンテンツに必要なライティング、クリエイティブが増えたり。
それから働く人たちのマインドが変わってきたのも大きいのかもしれません。組織に縛られたくない、どんな組織でもいつ業績悪化するか分からない、自分の実力で稼ぎたい、など。20代30代にインタビューすると、そういう独立志向を感じたりします。
いずれにしろ利己的の果ては殺し合いです。我がままを維持するためには同時に強力な協調性と自己完結性とそれを補完する制度が求められます。冒頭で私を振った女性はフリーランスから自分の会社を作って社長になりました。自分一人では達成できない目標を追いかけ、日々人間関係に悩みもがいています。自由を求め、さらに大きな自由を得ようとしたときに、またひとつずつハードルを越えていくものなのかなと。では。
あなたの心にトペ・コンヒーロ! 今回のインタビューもお楽しみください!
(主催:qbc)


今回ご参加いただいたのは飯島絢さんです!


現在:10代・20代の経験を形に

森逸崎:どんなインタビューにしていきましょうか?

飯島:私は現在、フリーランスのライターなのですが、副業でライターをやりたい人や、フリーランスという生き方に興味のある人に向けて、何か自分ができることが分かればいいな、と。
自分の過去の経験や、やり方とかを踏まえて、自分は誰の背中を押すことができるか、自分に何ができるのか、という部分が分かればいいなと思っています。

森逸崎:今は何をされている方でしょうか?

飯島:今はフリーランスのWebライターをしています。去年30歳になったばかりで、今年31歳になります。
私10代の頃に高校を辞めて、カナダの高校に編入して卒業、という形で、結構10代20代は海外にいることが多くて、大学は日本の大学に通って、就活をしていく中で、なんか「これって自分がやりたいことではないし、やっぱり海外に戻りたい」という思いが強くて。
周りがスーツ着て就活している中で自分だけ就活をやめて、アルバイトでお金を貯めて、大学卒業後にワーキングホリデーでオーストラリアに行きました。あとその後に学生ビザに切り替えて、そのまま海外で数年間住んだりもしました。

森逸崎:へえー!

飯島:自分が10代のときに留学してすごく辛くて、その経験を使って、留学をしている日本人の人たちをサポートできればと思って、フィリピンの語学学校でインターンシップをやったりとか。インターンシップって結構、大学生の子がやっているイメージなんですけど、私の場合は27歳のときに海外インターンシップをしました。
10代20代はそういうことを色々していて、それまで蓄積してきた経験や努力だったりとかを、30代は形にしていきたい、30歳はそういうことを考えるようになって今、活動しております。

森逸崎:なるほど。
ちなみにフリーランスのWebライターは具体的に言うと何を書かれてるのでしょうか?

飯島:これまで色んな記事を書いてきたんですけど、結構グルメ、お出かけ情報や英会話、あと今は半導体の会社からお仕事をいただいて、技術系の記事を書いたりしています。
正直最初は、パソコン一台で働けるフリーランスのライターになりたくて、それでライターになろうと思ってメディアの会社で修行してたんですよね。そこでアルバイトで働いてたんですけど、そこから独立してフリーランスになったので、記事っていうと、割とSEOに関することをメインに書いています。
ライターになってから、今までの経験や知識が、次の記事に活かされていくっていう実感がすごくあるなって思います。記事の書き方だったりとか、業務の進め方とか。

森逸崎:うんうん。
ちなみにフリーランスのライターになりたかったのは、どういったご理由でしたか?

飯島:本当に恥ずかしいんですけど、まずパソコン一台で働ける仕事って何かなって考えた時に、Web制作とか、あとデザインとかもあったんですけど、プログラミングのコードを見たら、すごい頭が痛くなって(笑)
あとはデザインもいろんな種類があったし、私自身、絵を描くのがすごく下手で、デザイン自体もすごく下手くそなので、「文章なら自分にも書けるかも」って思って。ぶっちゃけてしまうと、消去法でって感じなんですよね。

森逸崎:その「パソコン一台で働きたい」というところに行き着いたのは、なぜだったのでしょうか?

飯島:そうですね。私がワーホリをしていた時は、結構「現地で仕事を探してお金を稼いで生活する」「お金ができたら旅行する」、みたいな感じだったんですけど、実際にパソコン一台で働けたら、現地で仕事を探さなくても、ご飯食べていけますし。
あとは欧米人とかヨーロッパの人たちが、東南アジアに行ってノマド生活してる情報とかを知って、「こういう生き方もいいな」と思って。パソコン一台で働くことができれば、場所と時間を問わず、フリーランスになって仕事ができるかなと思ったので。自由なライフスタイルを送るためにフリーランスのライターになった、という感じですね。

森逸崎:なるほど。海外経験の影響も大きそうですね。

過去:「我がまま(=私のまま)」に

森逸崎:実際飯島さんはどんな子供だったのでしょうか?

飯島:私、一人っ子なんですけど、母の教育方針で「子供を尊重する」っていう考えがあったらしくて、それですごく自由に育てられていました。
自分では全然記憶ないですけど、母が言うには、なんかトイレの便器で水遊びしたりとか、画鋲で遊んだりとか、マッチ棒をくわえたりとか、そういうことをしていたらしくて。一般の親御さんが聞いたら多分、ドン引きされるかもしれないですけど(笑)母は怒らないし注意しないっていう。
でも今は「注意しとけばよかった」って言ってましたね。やっぱり最初はこう、私が危ないことをしても言わなかったからそれが心苦しくて、でもやっぱ自由に育てていきたい的なことがあったらしくて。母がそう言った理由は、全然聞いてないんですけど。

森逸崎:ご自身でもわりと「自由にさせてもらえてるな」っていう感覚がありましたか?

飯島:ありましたね。結構すごい昔から好奇心旺盛でした。小さいときも、補助輪の自転車ぶっ飛ばして転んで血流して四針縫ったり。それに関しては今でも縫ったあとがありますし、病院で大泣きしたのも覚えています。あと、昔、ローラーブレードを買ってもらって、坂道をスキーみたいにバーッて走ったりとか(笑)
すごい危険な小学生というか、とにかくワクワクすることが昔から好きで、やっぱり一人っ子だからっていうのもあるんですけど、周りを全然気にしない性格。自分中心で生きてきたんですよね。

森逸崎:なるほど。

飯島:やっぱ「一人っ子ってワガママじゃん」みたいなこともすごい昔から言われてきたんですけど、でも、自分の中では「ワガママ」というか「我がまま」。私のままに自分らしく生きてますっていうスタンスなんです。
中学校時代とかから、集団行動とか部活動が苦手だなって思い始めました。部活は、バドミントン部だったんですけど、「なんで日曜日に試合に行かないといけないんだろう」とか思ってましたし(笑)だって学生の休みじゃないですか。土曜日は「午前中だけ授業で午後部活」という日もあったんですけど、なんかもう、早く家に帰りたい!って。
「私はそのオリンピック選手を目指している訳じゃないのに、なんでこんなに練習させられなきゃいけないんだろうか」って(笑)

森逸崎:あはは。うんうん。

飯島:あと、やっぱり上下関係が厳しいのとかも苦手でした。「なんでみんな楽しく部活しないんだろう」とか、そういうのは昔からありましたね。
もう本当に、自由人で個人主義で、集団行動が苦手。友達がいない訳じゃないんですけど、まあそんな感じですね学生時代は。

森逸崎:そうだったんですね。

飯島:高校一年生で学校を辞めて、カナダの高校に行った時は、やっぱり向こうの学校生活がすごく合っていました。多民族国家なので色んな人種がいるし、あと「個人」を尊重してくれるので。宿題やってもやらなくても自分の責任だし、高校卒業するときも、日本と違って、やっぱあのなんていうんですかね、能力とかすごい見られますね。「みんなと同じことをして自分の意見を言わない人はやばい」みたいな感じだから。
ディスカッションの授業とか、「意見を言いなさい」とか反対意見を出す場合は「何でそう思うんだ」ってわいわいと先生から言われて、自分で意見が言えないと生きていけない。
でも、私はそれが凄くやりやすい学校生活というか。
全然日本の高校と違っていたのが凄く合っていたっていうのはありますね。

森逸崎:うんうん。その環境が「合っている」と感じられたのは、どんな経験が影響しているのでしょうか?

飯島:なんか私、英才教育がすごくて、ピアノとか体操とか英会話とか。あと塾もそうでしたね。絶対音感の訓練とか小学生の時にやってました。
でもそれらは、親が「やれ」って言ってやってただけで、正直あんまり記憶はないんです。
塾とかすごい嫌でしたね。夏期講習とか冬期講習とか、平日も学校終わって塾行って、すごい窮屈な塾生活を2年くらい続けたのに、結局第一志望受からずで…。
多分やらされてた感があったのが凄く嫌で、でも高校以降はやっぱり自分の意志で色々決められるのが凄く嬉しかったのかなっていう。完全にすごい「反動」だと思います。

森逸崎:なるほど。高校時代に「カナダに行く」という選択肢が取れたのはなぜだったんですか?

飯島:高校一年生の夏休みに、アメリカにホームステイに三週間くらい行ったことがあって。その時に、やっぱり異文化がすごく楽しくて、「海外の生活ってこんなに面白いんだ」って思ったんです。
最初は、その後は日本に帰って、一年間だけ交換留学しようかなと思ったんですよね。でも、それを学校の主任の先生に相談したら、「今交換留学行ったら大学受験大変だぞ」みたいなこと言われて。そこでも私の反抗心が(笑)
「普通学校の先生だったら応援してくれるじゃないのかな」とか思って、もともと高校も嫌いだったので、親に話して、その後に留学エージェントに相談に行った時に、「高校の卒業資格が取れる留学もありますよ」と提案されて。「交換留学」ではなく「卒業留学」ですね。

森逸崎:うんうん。

飯島:でもアメリカはちょっと治安的に危険なところがあるから、「カナダはどうですか」って勧められて、「うん、じゃあそっちに行きます」って。
一応なんか英検も、確か当時は三級か何か取らないといけない条件みたいなのもあって、英検を死ぬほど勉強して、無事受かって、それで行ったって感じです。

森逸崎:もともと、海外の文化であったり、留学っていう部分には興味があったんですか?

飯島:いや、それが、全く無くて。興味を持ったのは、そのアメリカのホームステイに行ってからでした。建物とか駅とかもすごい面白いし、あとホストファミリーがすごいいい方だったので、「外国人の人ってこんなに面白いんだ」と思って。
あとは、やっぱり英語に関しても、「日本の英語教育なんか勉強しても無理だな」ってその時思ってて、生の英語を勉強した方がいいなと思って、それで決めました。

森逸崎:そのアメリカへのホームステイ自体はどういったご縁で?

飯島:うちの母方の祖父のひとことで、ですね。
最初、本当は母と二人で、夏休みにハワイに行く予定だったんですよ(笑)
でも、私の母と、母の弟も大昔にホームステイに行ったり、私のいとこも海外にホームステイしたことがあって。それもあってか、私の祖父が「絢もホームステイしたらどうだ」って提案してきて。
それでハワイはやめて、ひとりでホームステイに行ってくるか、みたいな。多分、そのホームステイがなかったら、高校をやめて留学に行ってないと思いますし、今の自分もいないと思います。

森逸崎:大きなターニングポイントですね。
高校を辞める選択を取るに至った「嫌い」な理由は、どんな部分だったんですか?

飯島:中高一貫の女子校だったんですけど、偏差値低いくせに、すっごい規則が厳しくて、もう縛りが、「放課後遊びに行ってはいけない」とか、カバンも指定のやつじゃないといけないとか、髪の毛縛らないといけないとか。あまりにもすごい厳しくて。
私、縛られるのが嫌なんですよね。
すごい生意気なんですけど、幼稚園の時とか、おままごととかしても「こんなの家でできるじゃん」とか言ったり、サンタさんの存在とかも怪しみ始めたのがすごい早くて、小学校低学年からなんか「うちの家には煙突もないし、玄関には鍵もかかってるし、戸締りも全部してあるのにサンタさんが入れるわけがない」とか言って。
目の前で周りの人が言っている常識みたいなものに対して、常に疑問を持つ、みたいな感じでした。

森逸崎:うんうん。

飯島:例えば、日本ではみんなファッションとかにもすごく気を遣って、流行を追いかけたりしてると思うんですけど、私は「なんで世間に合わせないといけないんだろう」みたいなのがあって。「洋服なんて自分が好きなもの着ればいいじゃん」とか。流行してるファッション着ても自分に合わない場合もあるし、「みんな同じ服着ても面白くなくない」とか。
ファッション業界で働いてるんだったら最低限必要なことかもしれないですけど、そんな感じで、疑問に思うことがよく多いですね、生きていると。

森逸崎:実際に、カナダに留学されてからはどうでしたか?

飯島:そうですね、私、高校留学には「楽しみ100%、不安0%」で行ってしまって(笑)普通の人から言われたら多分、留学ってみんな不安になると思うんですけど、例えば「英語どうしよう」とか「現地の海外生活どうだろう」とか。でも私は以前のアメリカでのホームステイが楽しかったから、留学も楽しいものだと思い込んじゃって。
で、実際にカナダに行ったら、本当に地獄だったんです(笑)

森逸崎:へえー!以前とは何が違ったんですか?

飯島:もう「留学生」とか関係なく容赦なしに、現地のカナダ人と同じ、普通の教科書で授業するんですよ。英語だけじゃなくて社会とか化学とか全部英語で書かれた教科書だし、あとは、英語力がやっぱり日本の英語教育で学んだのと全然違ったんですよね。日本の学校で4、5年勉強しても全然英語喋れなかったし。その時はもう日本の英語教育を恨みましたね(笑)「こんなに勉強したのに、何を教えてくれたんだ。全然英語使えないじゃん」って。
私が10代だったときは、電子辞書がまだ主流だったので、電子辞書でずっと調べていました。教科書2ページを理解するのに3時間とかかかってたんですよ。それでも試験の時は電子辞書使っちゃいけないとか言われて。だから、試験問題の意味がまずわからないんですよね。英語の意味が分からないから問題自体考えられなくて、そういう時は当て勘で考えたりとか(笑)運に頼るしかない!みたいな。

森逸崎:うんうん。

飯島:しかも、卒業試験に落ちると留年だったので、完全に実力主義なんですよ。
だから日本で大人しく毎日出席してテスト赤点取らなきゃOKとかそういう問題じゃなくて。学校休んでも普通に試験で受かればOKなので、そこはそうですね、すごくハードでした。
あとはなんかこう、日本にいる時ってやっぱり、親とか学校の先生とかが守ってくれてたけど、あっちは本当に一人で頑張らなきゃいけない風潮がありました。
先生は教えてくれるけど、結局最後に戦うのは自分だし、味方は自分しかいなかったですね。

森逸崎:ほー。最終的に、卒業はされたんですか?

飯島:はい。でも本当にそれも、奇跡的にギリギリだったんです。留年ギリギリで受かって、正直、カナダ留学自体に、良い思い出がないんですよね。良い思い出は最後の卒業式くらいなもので、それ以外はもうずっと、苦しかったですね。
勉強しても全然点数上がらないし、頑張っても手応えが全然ない。結果が全く出なくて凄く辛かったです。精神的にも辛いし、勉強面でも辛い、みたいな。

森逸崎:なるほどー。具体的に、どんな感じでしたか?

飯島:人にもよりますが、語学学校だとやっぱり、先生がゆっくり喋ってくれるんですよね、私たちが理解するまで。だから私たちもゆっくり話すけど、一方で、高校の先生は、もう容赦なしにバーっと早口で話すので、全然英語が聞き取れなくて。
最初私、主語の「I」とか「You」とかしか聞き取れなかったんですよ(笑)
あとは何て言ってるのか全然熟語が分からなくて。途中からようやく「テスト」「クイズ」「ホームワーク」っていう単語が聞き取れるようになってきて。
それでも全然わからない。何ページの何とか言われても、テストがいつあるかとかも。その単語だけしか聞き取れてないので、授業終わったら先生のところに行って、「テストいつですか」とか「ホームワークはどれですか」とか凄い拙い英語で聞いてたりとか。

森逸崎:うんうん。

飯島:あとやっぱり一番辛かったのが、グループワーク。クラスでグループ組んでっていうときに、誰も友達いなくてできないから、毎回先生のところに行って「私はパートナーがいません」みたいなことを言って、「じゃあ、あなたはあのグループに入りなさい」みたいな。そんな感じでした。

森逸崎:なるほど。その生活の中で、何か自分の中での変化ってあったのでしょうか。その過酷な環境で卒業まで至った理由が知りたいです。

飯島:結構学んだことは多いですね。プライドと恥ずかしさを捨てないとやっていけなかったし、あとはすごく積極的になりました。人に聞かないと卒業できないし、それどころか人に聞かないと生きていけないので。
テストの点数が低くて再試験を受けたい時に、自分から先生に頼んで「ここが分からないから昼休みに教えてくれますか」と言いに行ったりとか、あと、逆にこう「自分は英語が出来ない留学生だ」っていうのを武器に使って、優しそうなカナダ人の生徒に助けてもらったりとか。私は留学生で、英語が分からない!助けてくれ!って。あっちだと本当に気にしないんですよそんなこと。むしろ自分が留学生ですって言わないとわからないんですよね。私もカナダ人だと思われてたこともあったので。

森逸崎:そうなんですね!

飯島:「こんなに人にいろいろ助けを求めて、自分からいろいろ言っても、相手はあまり気にしないんだな」っていうのを知ったので、サバイバルの術を学んでいったというか。
あとは2年間の留学生活を終えて思ったのは、やっぱり人は苦労した分成長するなって凄く思いました。
さっきも言ったんですけど、楽しい思い出が全然なくてずっと苦しかったけど、苦しかったからこそ、どんどん自分が動けるようになって、色んなことを学んでいけたので。

森逸崎:なるほど。そんな変化が。

飯島:結構これ留学あるあるだと思うんですけど、留学って英語を学びに行くためのものというよりも、人間的に成長できて、プラスアルファで気づいたら英語わかってた、みたいなことだと。それはすごく感じました。
だって英語は全然勉強してなかったんですよ。なぜなら毎日「英語で」勉強するから。自然に身に付いてきたので。
むしろ、学んだのはメンタル面とかポジティブさですね。やっていく中で、途中で吹っ切れたりもしたので。

森逸崎:その吹っ切れることができたきっかけって何かあったんですか?

飯島:今でも覚えてるんですけど、日本でいう国語の授業、まあ現地の母国語である英語ですね。その授業の時に文法の宿題が出て、分からなかったからホストマザーに聞いたことがあったんです。
そしたら、「ごめん絢、私これ分からない」って言われたんですよ。
それで初めて、「カナダ人が分からないんだったら日本人の私も分かる訳ないじゃん!」とか思って。その時に、「ああ、頑張り過ぎなくていいんだな」みたいなことも思いました。「なんかもっとゆるく生きよう」みたいなことを思ってきて。

森逸崎:うんうん。

飯島:あとはそこから色々、悪知恵が働いてきちゃって(笑)
スペルとかわからない時にわざとぐちゃぐちゃに書いたりして、それで先生から普通に丸もらったりとか、授業サボって別の科目の試験勉強とかしてたり。
やっぱり吹っ切れてから、もっと頑張るっていうか、もっとスマートにやっていこうと思って。「賢く」ですね。そのことが結構大きかったかなって思います。

森逸崎:そうだったんですね。
その後、日本の大学に進学したんですよね。あんなに窮屈さを感じていた日本に「帰る」という選択をした理由は何でしたか?

飯島:「高校卒業するのがこんなにしんどいのなら、大学卒業できないだろう」と思ったんです(笑)
こんなに勉強はしたくない、でも大学の方がもっと辛いに決まってるから無理だ!と思って。それでカナダの現地の大学ではなく、日本の大学に行くことにしました。

森逸崎:うんうん。

飯島:でも、その時もそうですね、コンプレックスがありました。
「高校留学したのにMARCHレベルの大学に入れなかった」ということがすごいコンプレックスでした。一応勉強もしていたし、「2年留学してこんな頑張ったんだからMARCHレベルくらい入れるだろう」と思ってたんですけど、帰国子女には厳しかったですね。
だってずっと英語で学んでたのに、小論文とか出てくるんですよ。日本語の漢字とか私、本当に覚えてなくて(笑)読み書きからやり直しだったんですよね。

森逸崎:あはは。

飯島:2年くらいで本当に漢字とか結構忘れてる。怖かったですね。
私は帰国子女で、読み書きからやらないといけないし、漢字を覚え直さないといけないし、日本語の小論文の内容も普通に難しいし。
あと「TOEFL」っていうテストがあって、その点数が「●点以上じゃないと受験資格ない」みたいな条件があって。私はもうすごいテストとかが苦手なので。TOEICとかTOEFLとか、IELTS、海外向けのテスト。そこで力を発揮できず。

森逸崎:うんうん。

飯島:でも入った大学はそんなに受験資格のレベルが高くなくて。面接だったんです。英語と日本語の面接で、だけど私、受験番号を噛んじゃって、笑っちゃったんですよ(笑)
面接であるまじき行為なんですけど。それでもなんか普通に面接スムーズに行って、受かったんですよね。
テストとかより普通に自分が話して面接うまくいったのがよかったなと思ったんですけど、そうですね。まあ大学は楽しくはなかったですけど、いい大学だったなって感じです。でもやっぱり、海外生活が恋しくなりました。

森逸崎:4年間楽しくなかった理由の中で、一番割合を占めてるのってどんな部分だったんですか?

飯島:「刺激がない」ことですね。
なんか普通に、高校時代カナダにいた時に、私も髪も染めてピアスも開けて、本当に日本の大学の授業みたいに、自分が先生の教室とかに移動していて、それ自体がもう大学生活みたいな感じだったんです。そのあとに日本の大学で同じようなことをしていて。周りのみんなは髪の毛染めたりピアス空けたりが楽しいとか言っているけど、自分はそんなそこまで魅力を感じない。ずっと帰宅部だったし、普通すぎてつまんなかったんです。

森逸崎:なるほど。逆に、どんな刺激を求めていました?

飯島:そうですね確かに。なんだろう。やっぱり「人」とかかな。
カナダ留学のときは、結構カナダ人とはあまり話すことがなくて、留学生同士で固まってたんですよ。結構色んな国の学生の。それが面白かったのかもしれないですね。
今聞かれて思ったんですけど、留学生同士だと日本人以外の人も結構いて、中国・韓国・香港とか、あとメキシコとかブラジルとか、いろんな国の子達がいて、ワイワイするのが楽しかったんじゃないかな。そこでいろんな人達とワイワイしているのと比較して、今の大学生活はなんか普通だなっていう。

森逸崎:なるほど。

飯島:その当時は、海外で現地ツアーガイドみたいな仕事がしたいなと思って、大学でも観光系の学科に入ったんですけど、でもずっとそうですね。大学生、楽しくなかったですね。
だからアルバイトを頑張ったりとか、本当にひとりで海外とかにも行ったりして、学業以外のことを楽しんでました。
そこから大学3年生で就活して、それも途中でやめて、残りの大学1年間はアルバイトしてお金を貯めまくって、大学卒業して1ヶ月後にオーストラリアに行ったって感じです。

森逸崎:就活をやめたのも、先ほどの「なんか普通だな」「刺激がないな」というところの影響が一番大きかったですか?

飯島:そうですね、それもありますし、シンプルに「海外に帰りたい」というのも思いました。あとは、少しだけ就活していた時に感じた日本の社風みたいなのが無理でした(笑)
みんなスーツ着ていて、あのエントリーシートとか嘘ばっかりだし、私、自分を偽りたくなかったんですよ。なんか思ってもないこと書きたくないし。
説明会に参加してないと面接できません、とかそういう会社もあったりして、「説明会行ったのに面接に受からなかったら時間の無駄じゃん」とか、なんかすごいひねくれた考えなんですけど。

森逸崎:うんうん。

飯島:とにかく周りの子も、入りたい会社が分からなくて、「入れた会社に行くわ」とか「自分やりたいことないです」みたいなことすごい言ってて、そういう人たちもいるんだなと思って。
やっぱりエントリーシートとか面接で自分を偽りたくないし、あと海外で働きたいというのがあって、就活は止めました。

森逸崎:その後のオーストラリアでは、どのような生活だったのでしょうか?

飯島:最初は日本食のお好み焼き屋さんで働いていて、でも日本人がやってるお店でやっぱり雰囲気がもう日本っていう感じ。ミスしたら結構言われましたね、嫌味みたいなことを。
でも本来、オーストラリアってミスばっかなんですよ(笑)
間違うのが当たり前で、発注した通りの量が来なかったり、それもすごいバラバラだし。「ここオーストラリアなのに何でミスしただけで怒られなきゃいけないんだろう」って。厳しかったんですよね。それが嫌で辞めました。

森逸崎:なるほどなるほど。

飯島:あとは他の飲食店とか、あとエージェントとかもやってました。観光系のエージェントで、現地にいる留学生とか、ワーホリの子達の集客とかをやっていました。旅行ツアーとか別の学校の斡旋とか。私は主に集客担当でした。

森逸崎:そこではどうでした?

飯島:結構私、人と話すのが凄く好きっていうのと、自分も留学・ワーホリをしていたっていう部分でいろんな人たちのサポートとかできて、すごく楽しかったです。
一番良かったなと思ったのは、ローカルのカフェでの仕事ですね。オーナーが香港人で、スタッフもみんなアジア系の子たちなんですけど、そこでもやっぱ仕事がすごくて。
もう本当にこう発注ミスばっかりだし、牛乳とか70本注文したのに、実際に牛乳のデリバリーが来たら「今日65本しかないから領収書に65って書いとくぞ」とか言ってて。それ聞いて「え、後から5本持ってくるとかじゃないんだ」って(笑)

森逸崎:あはは。

飯島:あとすごいなと思ったのが、シェフが朝寝坊してきたこととかですね。誰も怒らないし、お客さんでキレた人とかいないし、私も朝にコーヒーをオーダーミスしちゃった時も、「朝早いしね、YOUコーヒー飲んだ方がいいよ」とか励ましてくれたりとか。日本だと絶対ありえないじゃないですか。
日本でも接客したことあるんですけど、凄く怖くて、お客さんが。
その点あっちは完璧主義じゃないし、お客さんが閉店ギリギリに入るとむしろ「あと5分で店閉めるから帰れ」って言われたりとか。
なんかそういう感じで、雑なんだけど、仕事の効率がいいんですよ。すごいフランクな感じで面白くて、やっぱりそういう縛られずに自由に生きるのが凄い私は好きだなって思いました。

森逸崎:なるほどなるほど。オーストラリアは何年くらいいたんですか?

飯島:3年半くらいいました。
ビザが切れて日本に帰ってきて、お金を貯めるためにスタバで働いてたんですよ。「日本のスタバで働いていた」と言うと海外行くときにアピールできるので。
でもやっぱり日本のスタバは厳しかったりして、無理になって店長に「やっぱりオーストラリアに戻りたいです」って言って。

森逸崎:日本のスタバ、どんな感じでした?

飯島:もう、「厳しい」のひと言ですね(笑)
オーストラリアのカフェで働いた後に日本のスタバで働くって、カルチャーショックです。すごいお客さんとか怖くて。発注したの全部ちゃんと正しく来るし。すごい全部ルール通りみたいな。それがちょっと恐ろしかったですね。
一緒に働く人はすごい良い人たちだったんですよ、本当にみんな優しくて。でも、やっぱこう、自分的には厳しいのがすごく無理で、オーストラリアにもう一回戻って、永住権狙ってオーストラリアに戻ったんですよ。でもそれも、もうすっごい辛くてやめてしまって。諦めてしまいました。

森逸崎:永住権って、どうなったら獲得できるんですか?

飯島:経験と知識が基準値に達したら、ですかね。永住権の職業リストみたいなのがあって、そこで自分が出来そうなやつだと、例えば「調理師学校に通って、調理師として経験を数年積む」とか。あと「IELTS」というTOEICみたいな英語の試験、まあTOEICより全然難しいんですけど、そういうので何点以上獲得する、とか。
それでポイント制で加算されていって、基準値クリアしたら永住できるって感じなんですけど、かなり道のりが長くて。もう途中で私は辛くなってやめちゃって。
調理師学校も全てが細かくて難しかったですね。楽しくないんです。料理のこととか、細かい作業も苦手で。同時に生活費と学費も稼がないといけないのでカフェの仕事もしてたんですけど、体力的にも辛いし。それでもう無理だなと思って。
それでその後行ったのがフィリピンのセブ島でした。

森逸崎:おお。なぜフィリピンに?

飯島:フィリピンに関しては、オーストラリアを出国しないといけない3日前に、合格の連絡が来たんですよ(笑)「いつこれますか」って言われて、「二週間後行けます!」みたいな。それで日本に帰って2週間後すぐフィリピンに行きました。
語学学校でスタッフのインターンシップをしたくて。欧米だとハードルが高いんですけど、フィリピンだと結構窓口があったんですよ。
多分私、今までカナダの時から語学学校には、10箇所ぐらい行ったのかな。
語学学校ってすっごい楽しくて。もう、留学生の子たちとの関わりがすごい楽しくてそういう環境にいたいっていうのと、あとは自分の留学経験を使って人をサポートしたいっていう2つの理由で。

森逸崎:セブ島はどんな感じでした?

飯島:本当にテレビで見るような「発展途上国」でした。もともとリゾートというか、海が綺麗なイメージだったんですけど。
私が行ったところはセブシティっていうところで、バイクとかタクシーとか、全部交渉なんですよね。「40ペソ・50ペソ払う」とかも、タクシーとかでもぼったくってくるし、それが当たり前なのでこっちも負けずに言い合う、みたいな環境。
野良犬とか普通にいるし、狂犬病とかがすごい怖かったですね。噛まれたらどうしよう、って。本当に今までにない文化に触れたんですよね。

森逸崎:そこからはどんな変化がありましたか?

飯島:生活は我慢して、とりあえず人との交流を楽しもうって思いました。あとは「これは自分の人生の修行だ」って。カナダでの高校留学みたいな、あれだけ人生どん底に行くことはないんだから。私の中ではもう高校留学が一番人生でつらかったので、それ以上に辛いことは多分ないんですよ。だから多分、やり遂げられたっていうのはあったかと思います。
すごいポジティブなんで(笑)

森逸崎:うんうん。

飯島:フィリピン人ってお金がなくてもみんなハッピーですごい幸せそうなんですよね。
あと私がインターンしていた学校では、「インフルエンサー留学」という枠で来られてる方がいて、そういう人や、経営者の人とかと現地で出会うことができました。そこで出会った人たちが、割とフリーランスの方が多かったんですよね。それで、「フリーランスって良いな」って。
場所と時間とに縛られない、そういうライフスタイルがいいなってことに、気づいて。

森逸崎:うんうん。

飯島:自分と同い年の方もいて、海外行きながら仕事もして、多分そういうのに憧れてたんだと思います。「そういう生き方があるんだ」って。
留学生の子たちのサポートはすごい楽しかったし、自分に合っていると思ったんですけど、その方達の働き方を見て、「次やりたいことはこれかな」みたいなのがやっとそこで分かりました。
そこから、フリーランスで職を探して、千葉県に滞在式の「フリーランス養成講座」があって、そこで一ヶ月くらい滞在して、ライティングやブランディングの勉強をしました。

飯島:でもその後にすぐフリーランスになれない、というかまだ全然分からない状態だったので、一ヶ月くらいニュージーランドに行ってから帰国し、それでメディアの会社でお仕事をしていました。
そこから在宅勤務になったタイミングで副業をゲット。ライティング案件ですね。それで一ヶ月してから、完全に独立したって感じです。

森逸崎:そうだったんですね。

飯島:やっぱフリーランスになるって意思があったので、面接でも「将来フリーランスになりたいです」って言ったんですよね。明らかにこいつは辞めるだろうってわかってるのに、ありがたいことに採用してくれたんですよ。本当にお世話になった上司がいたんですけど、その方や周りの方から知識をどんどん得て、ライティングもどんどんして、やっとフリーランスになれたっていう感じですね。

未来:誰もが自分らしくいられる社会を

森逸崎:冒頭、フリーランスを目指している方へ向けての何かを模索中、と仰ってましたが、もしそういった方がいたら、どんなアドバイスをされますか?

飯島:「とりあえずやってみましょう」って言いたいですね。
多分、人生本当になんとかなるので。案件取る時とかも、ご自身のそれまでの経験を踏まえて「自分は過去にこういうことをやってきたので」と、面接で自分をうまくアピールできたりとか、経験がなくてもやる気を見せることはできますし。
今、会社に縛られて苦しい思いしてるんだったら、一旦フリーランスになって生活してみるのもありかと。逆にフリーランスが合わない人もいるので、「一回やってみる」のがいいと思います。

森逸崎:なるほど。この先ですが、5年後10年後、あるいは死ぬ時にどう思われていたいですか?もしくは、自分がどういう気持ちでいたいですか?

飯島:とにかく「自分に正直に生きてたな」って思いながら死にたいです。
20歳の頃の話なんですけど、今でこそ「人生100年時代」って言われてるけど、私が20歳の時ってまだそういう言葉は多分なくて、だから「大体80歳くらいで死ぬんだろうな」って思った時に、「人生の4分の1が終わっちゃって、残りの人生4分の3しかないじゃん、どうしよう」って思って。
その時に自己啓発本とかを凄い読んだりして情報収集して、「人が死ぬ時に後悔するランキング」みたいなのを見たんですよね。
そこに、やっぱり「仕事しすぎなければ良かった」とか「家族ともっと一緒に過ごせば良かった」とか、色々そういうのが書かれているのを見て。

森逸崎:うんうん。

飯島:人間、いつ死ぬかわからないじゃないですか。病気とかじゃなくても、もらい事故で死ぬこともあるし、だったらやりたいこと全部やろうと思って。
自分が30年ずっと生きてきて、私はなんかこう、すごい迷路みたいな人生だったけど、やっぱり自分がやりたいことをやるのがすごく好きなので自分らしく。
日本だとなんか「個性」とか言うとすごい怒られるんですけど、でもなんか、自分は自分らしくいたいので、やっぱそういう生き方をしてから死にたいですね。

森逸崎:なるほど。
この先やっていきたいことは今整理中と仰ってましたが、何かイメージはありますか?

飯島:そうですね。一人で抱え込んでしまう人を救いたい、とは思っています。
割と、日本だと「我慢が美徳」というか、そういう風潮があると思っていて。実は「過労死」って、英訳できないんですよ。「KAROSHI」って書くんです。日本だと、NOと言われることが悪いような感じですけど、オーストラリアじゃ仕事終わってなくても帰るし(笑)向こうじゃ「働き過ぎで死ぬって何事!?」って感じなんです。
だからこそ、できないことや、やりたくないことに関しては「できません」って言って良いし、苦手を克服するより、長所を伸ばせば良いじゃんって思うんですよね。得意なことも、好きなこともひっくるめて、我慢し過ぎなくて良いと思う。だから、本当の自分で生きていける人が増えたら良いな、と思います。「我がまま(=私のまま)」で

森逸崎:うんうん。

飯島:いじめによって自殺してしまう子がいたり、介護が辛くて殺してしまったり、というニュースを見た時に、より一層思います。
誰かがそういう状況になってしまう前に、「できません、助けてください」と言える風潮を作りたい。さらには、周りが勇気を出して「どうしましたか」と一歩踏み込んで声をかけられる社会を作りたいんです。
そうすれば、もしかしたら殺されてしまった命が救えたかもしれないし、誰かが加害者になることを防げるかもしれない。社会の授業は嫌いだけど、社会問題には興味があります。

森逸崎:なるほど。良いですね。
最後に、「もしもの未来」についてお伺いします。
もしもカナダに留学していた時、その時点で飯島さんの英語力が高くて、ペラペラ喋れて読解力もある状態だったら、今ってどういう人生になっていたと思いますか?

飯島:えー! あんなに苦労することもなく、なんの問題もなく高校時代を過ごしていたらってことですよね?なんだろう、考えたことなかった。
多分ですけど、現地の大学に通ってたかも。すっごい予想ですけど、現地の大学通って、普通に現地で就職して、暮らしてそうだな、って思いました。

森逸崎:本当に海外にずっといるっていう。

飯島:多分そうですね。なんかもう、あっちの方が生きやすいですね。みんな自分の言いたいことズバズバ言って、周りを気にせず生きていけるので。

森逸崎:なるほど。そっちでも活躍されている飯島さんの姿が目に浮かびますね。
今日はありがとうございました。
今後のご活躍も、応援しています!!!

あとがき

インタビュー後に、近くにいた母に「本人の意図に関係なく、いるだけで周りにパワーを与えてくれる人っているんだねえ」とつい声をかけてしまいました。
飯島さんはとにかく話していて「気持ちがいい」お人柄。竹を割ったような、それでいて気遣いも随所で感じられて、そして話し方も面白い。私、多分ずーっと笑ってました(笑)
お互い年齢が近いことも、私も今後のライフワークをどうするかについて考えていることもあって、このタイミングで飯島さんと巡り会えてよかったな、と勝手に思っています。
過去の苦しかった経験も悩んだ時間も、全部今のパワーに変えている飯島さん。
F1のスタート待ちを見る感覚っていうんでしょうか。とにかくエンジンかかってます。あとはご自身で「これだ」を掴むだけ。準備万端、すぐにでもアクセル全開で進めそう!!
皆さんもきっと応援したくなる、飯島さんの今後にますます目が離せません!

インタビュー担当:森逸崎 海

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