後継ぎと人 西本紫乃-002 2024/06/13-02
どんどんぱっぱ、どんぱっぱ。というわけで、西元紫乃さんの、高校時代に世界一になったときのインタビュー記録でございます。続編です。高校3年生から。
みんなで読もう! ゾーンの話もあるよ!
まえがき:qbc(無名人インタビュー主催・作家)
参加いただいているのは西本紫乃さんです。
instagram:https://www.instagram.com/shino.n.too/
先に優勝した時の動画をはっておきます!!!!!
「頂点に立ったものにしか見えない景色がある」
qbc:3年生では、どんなことが起きたんでしょうか?
西本紫乃:3年生は、きっとこの数分じゃ伝えきれないくらい沢山あります。毎年、春にオーディションがあるんですよ。そのオーディションの結果で、1軍、2軍、3軍という自分の所属が決まるんですね。
それまでは3年生の人数が多くなかったので、3年生は全員1軍に入ってたんですよ。
私たちの12代目で初めて、3年生になっても1軍に入れないメンバーが生まれた。そういう風にせざるを得なくなった。
オーディションは実力に重きを置いて判断される。1軍のチームで踊れるかどうかを判断されるので、1年生で1軍に入ってる子もいる。
その中で、2軍に3年生がいるみたいなことが起きた。気持ちに差が生じたというか、入れなかったことによって辞める子もいましたし。どういう気持ちで踊ったらいいんだと考える人も多くて。
私は1軍入りをしたので、その人たちの気持ちを完全に理解することは難しくて。そのメンバーへの対応とか、かける言葉とか、過ごし方とか、自分の役割とか、そういうのもすごく考えて過ごした1年だったなと思っています。
3年生の時の目標というか、チームのスローガンは…。今、手元に当時に書いていた日誌があって。
「JETS史上初のグランプリで伝説の代になる」っていうのを常に頭に置いて過ごしてたんです。グランプリというのは、大会の部門優勝チームの中の優勝みたいな感じ。
さっき、チアは部門が色々分かれてると言ったと思うんですけど、部門も編成も全然違うチーム全部ひっくるめて、一番いい演技をしたチームに贈られるのがグランプリなんです。そのグランプリを取って、後にも語り継がれる伝説の代になるのが目標だったんですよ。
すごく高い理想、目標だったので。そこに行くまでの道のりがすごく遠く感じて。さらに、JETSのチームメンバーは1軍の人たちだけではないので、2軍3軍の人たちも含めて、1.2.3年生混ざり合っていて、チームをどうまとめるかがすごく大変だった3年生ですね。
qbc:1軍って何人?
西本紫乃:1軍は20人です。
12代目は、3年生が13人、2年生6人、1年生1人のチームですね。
qbc:3年生は何人落ちたんですか?
西本紫乃:3年生は多分、7、8人くらいが落ちた。
選手として動いていた人が何人か曖昧なので正確な人数が分からないんですけど。怪我をして動けない人もいたので。
7、8人くらいは1軍に入れなかったメンバーがいた。
qbc:1年間で大会にはどれぐらい参加してるんですか?
西本紫乃:12代目は、日本の大会が2つとアメリカの大会に1つ。
10月予選、11月末決勝の大会が1つ。
1月予選、3月末決勝の大会が1つ。
アメリカの大会は2月でした。
全国大会→世界大会→全国大会っていう形で、1年間の流れになるので大きく3つの大会ですね。
ただ、私が3年生の時、コロナの影響で3月末の決勝はなくなってしまった感じです。
qbc:年間通して、どういう感じで過ごしてるんですか?
西本紫乃:ざっくり言うと、4月は1年生が入部して、JETSとしてどういう振る舞いをしていくのかや、演技のための基礎を叩き込まれる。
大体5月か6月頃にオーディションがある。チームが決まって、そのチームごとに振り付けが入り始めるのが7月。
8月になると夏休みに入って、ひたすら毎日演技を極めて。
9月は学校祭があるのでそのための練習もする。3年生は後夜祭で踊ったり、応援合戦の振り付けをしたり。あとは小中学校や地域のイベントで踊ったり。
10月は、11月末の全国大会の予選に向けて練習。11月は決勝に向けて練習。
12月1月は次の大会の予選に向けて練習をして、2月にアメリカの大会もあるのでそこを目がけて練習をする。
3月は最後の決勝、そして3年生卒業。
定期テストや検定勉強、クラスによっては1ヶ月の留学、高校卒業後の進路も決めながら、これをやります。
3年生の2月頃には、もう全ての授業が終わって自由登校になるんですよ。自由登校の期間は、夏休みと同じで毎日朝から夜まで練習。
1軍入りができなかったメンバーがいたと話したと思うんですけど、やっぱり3年生全員で踊りたいという気持ちがあった。帰り道でも「やっぱり踊りたいよね」と話していました。
毎日、記録として日誌を先生に提出していたんですけど、そこにも「みんなで踊りたい」っていう気持ちをそれぞれ書いたりもしました。
それをキャッチしてくださった先生が、アメリカの大会でもう1部門出ることにする、そのメンバーは全員3年生で構成するっていう風にしてくださった。そのためには課題を全員でクリアする必要があったので簡単なことではなかったんですけど。
なので、1軍チームと3年生チーム、1つの大会で2回踊る、違う演技を1回ずつするってことになって。自由登校の期間は、昼間の1、2年生が授業の時間に、3年生チームの作品を練習して、放課後1、2年生が出てきたら、1軍2軍3軍に分かれて練習して、という感じで練習していました。
最後の大会の3年生チームはJAZZ部門なんですけど。1月4日か5日に振り付けをして、2月23日が大会だったんで、1ヶ月ちょっとで完成させた作品です。
qbc:え、Youtubeで見たけど、その部門でも勝ってなかった?
西本紫乃:それも勝ちました。
qbc:それじゃあ、2チームで勝ったってこと?
西本紫乃:1軍チームと3年生チームの2つで踊って、2つとも優勝ですね。
qbc:世界大会に参加したのは、3年生が初ってこと?
西本紫乃:初ですね。私が参加したのは、最初で最後。
いやあ…。言葉で表せないくらい、本当に最高の経験だったなと思っていて。今手元にある、その日の日誌にも「今日は本当に最高な1日だった」って書いてあります。
踊っている最中に、いわゆるゾーンみたいな状態で時間がゆっくり流れて、今まで何を考えて踊ってきたのか、1つ1つの動きをする前に言葉やイメージが全部先に流れてきて、それを表現するような感覚になった。めっちゃいろんなものが見えている感覚になったんですよ。客席もめっちゃ見えるし、隣で踊ってるメンバーも見える。この見えるは、目で見えてるという意味だけではなくて。感覚的なものなんですけど。自分が今、ここにいるっていうのも見える。
その感覚がずっと2分間続いて、終わった瞬間の景色が、これだ!って。これを見るために今までやってきたのかってことがようやく分かった。
でも、それは自分1人だったら見れたものじゃないなっていうのも同時に感じた。なんとも言い表せないですね。
一緒にやってきたメンバーとも、これを見るためにやってきたよねっていう気持ちになりました。
踊った後、結果はまだ分からないけど、後悔はない。どんな結果であろうと受け入れられる、やりきったなっていう感覚。…喋ってると思い出しますね。
qbc:ゾーン状況で、特に覚えている光景はありますか?
西本紫乃:覚えている光景…。
踊っている時に、メンバーと目を合わせるタイミングが何回かあるんですよ、向き合う瞬間とか。その時に、思いが通じ合っていると思った。うん。目が合うのも一瞬で基本は客席側に向いて踊ることが多いんですけど。
向き合った時、1人1人の顔がはっきり見えるはずはないのに、なんか分かる。どんな表情で踊ってるんだろうっていうのが分かる感覚。
音も、会場の中に響いているんですけど、歓声や応援の声も混ざってて。それにも乗って踊るみたいな感覚だった。
qbc:ゾーンに入れる感覚は知ってたんですか?
西本紫乃:いや、そうなるっていうのはちょっと。
qbc:聞いてなかった?
西本紫乃:聞いてはいたのかもしれない。
qbc:先輩から?
西本紫乃:映画の先生のセリフで、「頂点に立った者にしか見えない景色がある」っていうセリフがあるんですけど。その景色を見たいなって思ってたんですよ。
だから、それが何かわからないけど、何か見えるものがあるかもしれないっていうことは、事前に頭の中にはあったと思う。
で、その景色を見てきなさいって先生に言われたので、見ちゃったっていう。
qbc:いつ言われた?
西本紫乃:映画は入部してすぐ見て。先生には日々言われていた。本気でやった先の自分の姿とか、周りの人たちの姿はどういうものなのかをちゃんと見てきてねって言われていたので。
映画の中でも、広瀬すずさんが最後、見ちゃった…!っていう表現をするシーンがあるんですけど、それに近い感覚だと思います。
qbc:3年生の時に得たものって何ですか?
西本紫乃:もちろん今のような景色を見れたとか、優勝という経験をしたこと。言葉で表現したら、ある一定までは伝わるけど、本当に身をもって経験しないと分からないことがあるって思った。そういった経験をし続けるのが、ちょっと大きい話になるけど、生きる意味みたいな。こういう経験を重ねていきたいなって、卒業した時にそう思えた。積み重ねと結果を体で感じて学んだのが3年生。
アメリカから帰る途中、2月末に、3月の大会が感染症の影響で無くなったという通達が来て。アメリカの大会でも反省点は出ていて、反省点を最後の最後の泣きの1回みたいな感じで表現しきろうと思ってた場所がなくなっちゃって。
そのまま帰って、3日後にはもう引退、卒業ってなった。どうにもできない無力感と、どれだけ良い結果を残しても私は満足しきることはなくて。
その時の組織の状態にはまだまだ課題はあるなと感じていて、やりきったっていう感覚と同時に、やりきれなかったっていう感覚が後悔とはまたちょっと違う形で現れた。
3年生の時に得たことで言うと、次の目指すところというか、終わりのない問いを得て卒業したのかなと今は思ってます。
qbc:ゾーンって、みんなも入ってたの?
西本紫乃:あー聞いてないです。ゾーン入った?とか、そういう会話はしてないですね。
3歳の時からバレエを一緒にやってて、同じタイミングでチアを始めた私のライバル、親友的存在の子がいて、その子はセンターで踊ったんですけど、きっとゾーン状態は経験したと思います。
qbc:なんて言ってたんでしょう?
西本紫乃:…目がいっぱいある感覚?
これまでやってきたことが全部思い出される、と。その一瞬で。普段生きてても、あらゆる思い出とか感覚とか練習してきたことがフラッシュバックみたいな感じで頭にぶわーって浮かぶことってないと思うんですよ。
けど、あの瞬間は、映画の回想シーンの超高速版的な、編集されたようなイメージが頭の中にあった。2人で会話してる時のことなので、私の考えも入ってますけど、フラッシュバックするイメージと、目の前の光景とどっちも見えてる状態っていうのは話した気がします。
↓こちらがノート4P全体。個人名も入ってるのでモザイクご容赦!
雰囲気だけでも。
これを部活中、ずっと継続していたと思うとおそろしい。
優勝した日の日誌の最後に書かれた言葉。画像以外の部分には、感謝や、明日のトレーニング内容など、ノート見開き4Pにびっちり書かれていた。優勝した日でも振り返りを忘れない精神性に、シンプルに驚く。
「全体ふりかえって、どうだった」
qbc:JETSを辞めようと思ったことはないんですか?
西本紫乃:あるかないかで言ったらあります。でも、誰かに伝えたり、自分の外に出したりしたことは1回もないから、当時は辞めたいと思っているという事実はないっていう。
後輩に向けて書き記したものや、自分のメモの中には「辞めたいと思ったことはない」とか「辞めたいと思ったことないから辞めたいと思う人の気持ちが分からない」と強めに書いてあった。
当時はそう言い聞かせて自分を保っていた感じだったけど、想像することは結構ありました。
今辞めたら、こういう道があるんじゃないのかなとか。こんなに苦しいなら辞めた方が楽なんじゃないかとか。逃げたい、に近いかな。辞めたいという結論に至ることはほぼなかったですけど。
今やっていることをちょっと止めたい。逃げたらどうなるか知りたい。と思ったことが、あるかないかで言ったらあります。
qbc:どんな時に思ったんですか?
西本紫乃:私、3年生の時はオーディションに受かって1軍入りしたんですけど、振り付けが入ってすぐに腰を痛めて。2ヶ月くらい踊れなくなったんですよ。
復帰したのが9月とか?いや、2ヶ月どころじゃない。3ヶ月か4ヶ月くらい踊れない状況があった。その後復帰して1個目の大会の予選には出たんですけど。
前の方で踊っていたのが、後輩と交代になって。復帰したけど、ポジションの変更で結構落ち込むというか、もどかしい気持ちになった。
やっぱり前の方で踊りたいという気持ちが。自分が怪我をしたくてしてるわけじゃないので、不可抗力みたいなものによって自分のポジションが決まって。
チームのことを考えると、そのポジションでやることが最善で、早く受け入れて集中してやることの方が大事だということも頭では分かっていて。でも、感情的にはなんか苦しい。なんでだ(分かってるけど素直に動けない)、みたいな。プライドもまだ残ってて。葛藤がいっぱい起きた時期があったんです。
その時に、こんなに考えても整理しきれない感情の中から解放されたいというか、逃げてしまいたいって思った。
怪我をしたタイミングでは思わなかったんですよね。練習できなくなるショックは少なくて、必ず復帰できるから、いつ復帰できるか分からないけど、どのタイミングで復帰しても、体も心もすぐ戻るように、負担のないトレーニングをしたり、外からチームの改善点を伝えたりとかしつつ、頭を使って計画を立てていたので。
そこに対しては解決策がちゃんと見えていたから、そこまで落ち込むことはなかったんですけど。戻ってからのポジション入れ替えが結構大きかったっていう。体も前のようにスムーズに動かないし逃げたい気持ちになったけど、誰かに言うことはなく、思ってないって思ってました。
qbc:どうして、それでも続けられたんですか?
西本紫乃:ベースの負けず嫌いみたいなのがあったかも。自分自身の性格とか責任感も。
あとは、周りにいる人。1、2年生の経験から、大会で演技ができていること、頑張れる環境があることは自分だけのものじゃない。
いろんな人の協力、支えがあるから、今この場にいるっていうのを理解してしまった、というか、理解してたので。
今ここで逃げる、辞めるっていうことが良い策だと心の底からは思えない。
他のメンバーも、怪我とか家族の問題とか、クラスの問題とか進路とか、何かしら目の前で抱えているものがあると分かっていたので。
自分1人が逃げるってズルいというか。乗り越えてやっていくから今ここにみんなで集まってるじゃんって、最終的にはそういう思考になった。辞める選択肢はあっても取らないよなってなっていきました。
もう1つ、付け加えたみたいな感じですけど。
部活の中の幹部メンバー、司令塔的なポジションにいて、部長と副部長と他3人くらいで戦略を練る役割があったので。
チーム全体がどうなるといいのか、どう動くといいのかを考えることが多くて。自分1人の、辞める辞めない・逃げる逃げないを考える時間がそんなになかったです。
それよりも、チームとしてどういう練習をしていくといいのか、もっと大変な課題に今ぶち当たってるメンバーの対応はどうするか、そういうのを話し合って動いて、をひたすらやってたので。自分のこと考えてる暇ない。悩んでる暇ない、って感じだったと思います。
qbc:どんなポジションなんですか?
西本紫乃:部長でも副部長でもなくて、幹部メンバーみたいな(笑)。
qbc:肩書きがあったわけじゃないのね。
西本紫乃:肩書きはなかったんですよ。
部の中では、部長副部長とまとめて「ブレイン」っていう名前が付けられてた。チームの脳みその役割。基本、ブレインのメンバーで話し合って、チームの方向性が決まっていく。
練習メニューも自分たちで考えるんですよ。先生は元々はチアの経験者ではなく監督的存在なので、外部から一流の先生方、チア以外にもバレエの先生だったり、色々なジャンルの方を呼んでくださるんですけど。
日々の練習は基本的に先生がいないか見ているだけの状態。練リ(れんり)と呼ばれる練習リーダーが1人交代で回ってきて、その練リが事前に練習メニューを考えて、全体の仕切りをしていく形なんです。
それの大元、月ごととか週ごとにざっくりとこういうメニューをやっていくよっていうのをブレインメンバーで決めて、その後、練リに任せていくっていうのをやってた。
練習の計画を立てるのがめちゃめちゃ好きだったんですよね。高校2年の半ばくらいで、来年の1年間はこういう風に練習していくと良さそう、みたいなのを勝手に書き出してて。
それをみんなに伝えてイメージ持ってもらって、動いて、みたいなことをやってました。
qbc:お悩み期間ってどれぐらいでした?
西本紫乃:悩んでたのは、3、4ヶ月くらいあったと思いますね。まばらに、復帰する前後とか。
qbc:アメリカ大会のタイミングは?
西本紫乃:その前の10、11月がめっちゃモヤモヤしてて。12月の末からは、振り切れたというか。怪我も落ち着いて治ってきたし、自分のポジションに対しても、今いる場所でやり切るのがいいって信じてできる状態だったので。
1月からは、もう、3年生だけで踊る演技がジャズだったので、バレエをやっていた私にとっては得意分野というか。みんなに教えていく役割だと自覚していたので、悩みはあんまりなかったです。
誰かに教えるとか、チームのことを考えるっていうのがあると、悩みが飛んで行った気がします。
「この3年間を、何回もループさせたい?」
qbc:もしも、JETSでの3年間が何回でもループできるとしたら、ループさせます?
西本紫乃:いやぁ…。させないですね。
qbc:なんで? どうしたいと思う?
西本紫乃:すごくいい経験だったと思ってはいるんですけど。私は、また別の世界を見たいって思っているから。
卒業してからもチアを続けるメンバーもいて、本当に素晴らしいことだなって思っているんですけど。私の場合は、自分の心に従ったらチアをやる選択肢はなくて。ダンスにも今はあまり関わっていない。
組織についての研究とダンス以外の表現に興味が移ったので。もう一度同じことをループさせて経験をしたいとは思わないですね。
あとは、もしもの話なんで、それはどうなんだって感じですけど(笑)、同じ経験は2度とできないなって思う。
チアをやることももちろん好きで楽しかったんですけど、それ以上に考えることが好きというか。チームがアメリカの大会で優勝する、伝説の代になるという目標があるけど、組織や今ここにいる個人が本当に向かう場所はどこで、現在はどこに向かっていて、どういう考えや仕組みを持って動いていくのが良いのか?を考えるのが自分は好きだったんだな、と気づいた。
それを考えるのが好きだから、考えるためには、やらないと分からない。考える情報が集まらないからやる。だから、勝手に上達したり、チームの力が強くなったりっていうことが起きて、成果として現れる、生み出したいものが生み出せるというのに繋がっていて。
私の好きはそこにあるんだなって思ったから、チアじゃなくても、その好きに向き合うことはできる。ただ、高校時代はたまたまチアだっただけ、みたいな感覚にもなっている感じです。
qbc:3年間振り返ってみていかがでした? 今、どんな気持ちですか?
西本紫乃:わぁ…無邪気にいろんなこと考えてたんだなって思います。
1日、1分1秒単位で起きることが沢山あったから、日々整理しながら動いていたと思うんですけど。今もあまり変わってないなとも思いました。
日々自分を取り巻く環境は変わっていくし、その環境に合わせてどうしていったらいいのか考えて決めて動いてっていうのをひたすら繰り返して、その精度や確度をどんどん高めている感覚があって。
3年間集中して詰め込んで、いろんな感覚を知れて、光も影も見れて、良かったなーって思います。この3年間があったから今の自分がいるなって思いました。
qbc:JETSでの経験をどう生かしていきたいですか?
西本紫乃:もちろん自分の判断の助けとして使うこともあるけど。こんな経験が、高校時代に限らず、人生のどこかのタイミングでできる人、できる環境が増えていくといいのかなーって。
振り返るといい経験ですけど、当時は辛いこともたくさんあったから、誰にでもオススメする経験ではないと思う、向き不向きもあるし。”万人にとって”素晴らしいものでもないと思っている。
だから、ちょっと言い表すのが難しいんですけど、私にとってのチアのような、これからを生きるための選択肢や問いをもらえる経験ができるといいなと思っているので。そういう環境を作るために、自分の経験を参考にできるといいのかなって。
何をきっかけにこういった経験ができたのかとか、どういう人たちとか、誰の活動によってこの経験ができたのかっていうのをちゃんと自分の経験から振り返って。じゃあ、次にそれを経験する人たちに届けることをやっていきたい。事業や生き方を通じて表現したい。高校生じゃなくてもチアじゃなくてもいい。どんなに小さいことでもいいので。そう思っています。
qbc:読者に向けて、最後にメッセージをお願いします。
西本紫乃:一番難しい質問、そっか、読者いるのか(笑)。
私の経験がどのように捉えられるのか分からないですけど。同じような経験をした人が思い出したり、ゾーンの話もしたので追体験的な感じで読まれたりする方もいるだろうし。
このインタビューを自分が受ける目的は自分の記録のためだけど、誰かの役に立つことがあっても嬉しくはあるなっていう感じです。読者向けメッセージ、難しすぎる(笑)。
qbc:いや、大丈夫だと思いますよ。
西本紫乃:楽しんで読んでくれたら嬉しいなという気持ちです。
qbc:ありがとうございました。
全米大会結果発表の会場にて。優勝者に与えられるジャケットを着て。
西本さんはこちらのお店でお待ちしています!
西本さんの以前のインタビューはこちらでご覧ください!
終わりに
こういうインタビューすると、学生時代にまったくスポーツやらなかった人間は、おお、タイムマシーンが欲しいよ、なんて思いますねえ。
それにしても、記事用の写真をお貸しください! とお願いしたら、ノートの写真しか最初こなくて、チアを踊っている写真がひとつもない。ああ、西本さんらしいな、と思った。
次回は、大学時代のお話を聞く予定でございます!!!!!
制作:qbc(無名人インタビュー主催・作家)
編集:erica(インタビュアー)
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