家庭教師の旅(3)〜生徒を叱る、それは〈愛〉と〈憎しみ〉の狭間の実践なり〜

 私は大学学部時代に家庭教師のキャリアをスタートしたのですが、当初どうしても苦手なことがありました。それは生徒を叱るということです。理由は単に「教え子に嫌われたくないから」でした。しかし後述する通り、それは「偽りの愛」に他ならず、その時私はもはや教師ではなかったのです。今回は「生徒を叱ること」について私見を述べたいと思います。
 私の記念すべき最初の家庭教師案件は、横浜・保土ヶ谷の男子中学生指導でした。非常にわんぱくな生徒で、とにかく遊び>テスト勉強の信念を貫いていました。当時の私は勉強を教えることに対して自分を過信しており、楽しくテスト対策のノウハウを伝授すれば何の問題もないと思っていました。しかしすぐに「壁」にぶつかります。生徒は真剣に私の話を聞いてくれるのですが、1週間後、提示した宿題を何一つこなしていないのです。「超アマチュア」の私は「次はちゃんとこなそうね!」の一言。これでは生徒の傷にバンソーコーを貼るどころか、傷口を広げるだけです。案の定、その後も男子学生は宿題をすることなく、定期テストでは散々な結果を連発しました。
 その時の苦い経験は以後の指導スタイルに大きな影響を与え、私は状況に応じて生徒を叱るようになりました。ある時、英単語の勉強をサボる中学女子生徒に対して厳重に注意しました。すると彼女は大泣きしてしまい指導は中断、急遽お母様を交えてお話をすることに。私は女の子を泣かせてしまったことを一瞬後悔するも、自分の判断は間違いないと言い聞かせました。するとお母様から、「娘を叱ってくれてありがとうございます」の一言。高校受験が迫る中、危機感をもってほしいと思いつつも、難しい年頃ゆえ中々注意することができなかったとのことです。その後紆余曲折あるも、日々の課題と向き合い彼女は無事志望校に合格されました。これは叱ることが功を奏した例ですが、勿論それが常に正しいとは限りません。中には叱ることが逆効果になる場合があります。
 私が出会った中で、叱る=逆効果あるいは無意味であった学生様は、大きく分けて「甘えん坊」と「ニヒリスト」です。前者について、彼らは一人っ子または末っ子の場合が多く、叱るとその時はある程度反省するも、次の指導時には敵意を剥き出しにするどころかむしろ「ベッタリ」してきます。例えば東京都港区で担当した中学3年男子生徒、北区で教えた中1男子はこのタイプでした。
 次に「ニヒリスト」ですが、これは1番厄介なタイプです。彼らは文字通り、あらゆる社会通念、力関係に懐疑的であり、肉親や第3者がいくら叱っても「なんでこの人は怒っているのだろう?」とキョトンとするのみです。また非常に大人びた口調をしており、学校に馴染めない場合が多いです。東京都世田谷区で教えた中1男子がまさにそれでした。ゲーム好きな2人兄弟の末っ子で、最初は特に問題を感じることはありませんでした。しかし回を進めるにつれ宿題をやらなくなり、冒頭の確認テスト(簡単な単語・計算問題)は毎度ほぼ不正解の始末。先程私は「ニヒリスト」=「厄介」としましたが、それは単に彼らが一筋縄ではいかないからではありません。時に彼らの態度は教師に〈憎しみ〉に似た感情を抱かせます。つまり、〈愛〉の真逆に転じてしまうのです。斯くいう私も先程の男子生徒に対して、親御様の存在をお構いなしに、鬼の形相で「奇声」に近い声を上げ叱り散らしていたのです。冷静に当時を振り返ると、私を動かしていた感情は紛れもなく「生徒に対する憎悪」でした。「教え導く」という至上命題から大きく離れ、「教師」という化けの皮を被った狂人になれ果てたのです。恐らくニヒリストの彼は、私が舞台で「熱血な教師」を暑苦しく演じているだけに見えたのでしょう。それが更なる怒りを生み、コミュニケーションは破綻、生徒の部屋は不協和音に満ちました。
 叱るとは〈愛〉と〈憎しみ〉の狭間の実践であり、どちらかに振り切る時、教師は教師でなくなります。
〈憎しみ〉については先程述べた通りです。一方、〈愛〉はどうか。誰かを愛するということは、家族/恋人関係から普遍的なものまで幅広く、またその人の生き方や価値観を反映するので一概に定義することはできませんが、少なくとも教育に愛が入り込む余地はないと思います。例えば家庭教師業において我々教師とご家庭は契約関係にあり、適度な距離感を保ちながらご要望に応えなければなりません。そして然るべき時に生徒を叱る必要があります。しかしついつい我々は生徒を甘やかし、挙げ句の果てに「仲良くなろう」とします。しかしそれこそ「偽りの愛」であり、その先にあるのは教育の破綻です。つまり教師は〈愛〉と〈憎しみ〉の積部分に留まり、教育を実践しなければならないのです。我々は生徒の友達でなければ敵でもないのです。授業という学生との相互作用の空間において、マージナルな立場から彼らに何かしらの知的感動を与えること。これが職業としての教師の基盤であり、「叱る」ことはそれを体現する実践なのです。

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